21.それで、その、私が見たのって現実なんですか?
喫茶店はとてもよく冷え切っていた。
とめどなく流れていた汗も止まり、ここで汗を掻いているとすればオレンジジュースとコーヒーとアイスティーが注がれたコップぐらいなものだろう。じわりと流れる表面の水が紙皿をじゅんわりと濡らしていく。汗を掻きたいわけではないがまるで無関係とばかりにマイペースなコップが恨めしく、中身を一気に飲み干してコーヒーの苦みで胃をふくらませる。
カフェインで何か良いアイデアが浮かんでこの場を逃げられる必勝の策が浮かばないか、今はそれだけを考えることにした。
「だから、扉を通ったらにゅっとそこに出てきたんだってば。ねぇこの人、話が通じないよ。何なのあっちゃん!」
「いや、なんなのっつーか」
「えっと、やっぱりちょっと分からないというか、理解が及ばないんだけど……私の見たのは現実だったの? そうだったの……? マジック? 手品……?」
「こっちはこっちで目を回してるし」
及川も睦と同じ地元に住んでいるのだが、どうやら未茅とは面識が無いようだった。思えば高校に入ってから知り合ったのだし、いくら地元だといっても同じ小学校や中学校を通ってきたわけではない。
高校に入ってから知り合ったといっても彼女のことなんて全く知らない睦にとって、一体どうやったら誤魔化せるのかというのも非常に頭の痛い問題だった。もう既に時遅しという気がしないでもないがそれでもリヒャのことなんて真正面から真面目に話せるわけもない。
(それとリヒャの力は人間に知られてはいけないんだっけ)
睦と未茅の場合は例外なのだろうが、基本的に猫が自分達の世界を荒らされないようにするため人間に教えていない秘密がある。人間と猫は互いの領域があり、無意識にそれを守ることによって二つの世界は秩序を保っているという。
なのでこうして馬鹿正直に説明している未茅というのは、猫の世界を破壊しつくす破壊神として猫達から恐れられても仕方ないのかもしれない。
(まさか猫の世界を滅ぼすって、こういうことじゃないよなぁ)
ずずー、と残ったコーヒーを最後まで飲み干す。
「はは、まぁまぁ落ち着けよみっちゃん。及川だって困ってるじゃないか。ここは一つ、俺に話を任せてくれないか?」
「あれ、キャラが微妙に違う」
「ここは落ち着いてクールに気取る場面だと思ったんだよ! なんか冷静に言われると恥ずかしいからやめて!」
「それで、その、私が見たのって現実なんですか?」
おずおずとクラスメイトに質問を投げてくる及川に向かって、睦ははっきりと応える。
「夢です」
「そうかー、夢かー」
ほっと胸をなで下ろした及川は、そこで動きを止める。
「……あれ、もしかして私ってバカにされてる?」
「バカにしてないって! 大体及川はあそこからレンタカー置いて飛行機で国際空港に向かってそこから日本直行したんだろ? そんな最短コースより早く帰ってきてお買い物してる奴がいるわけないじゃんか! なぁ、そうだよね!」
と、未茅に同意を求めるがその顔は実に不満げに睦へと向けられていた。そのオーラが伝わりでもしたのか、近くを通ったアルバイトらしきウェイトレスがビクリと肩を跳ねさせ、後ろの小さな子供がいきなり泣き出して母親を困らせる。
及川が向こう住まいの叔母が急病で慌てて見舞いに行ったら意外と元気で、休みも取っていたからついでにオーストラリアの観光旅行に出掛けていたというのも豪勢な話だが、まさかそんな場所で出会うというのもとてつもない確率だろう。これもネコマタ様のお導きでしょうかとリヒャの顔を思い浮かべて、あのおっさん臭いしゃべり方で「そりゃてめぇの運の尽きよ」と偉そうに語ってくるのを想像し、やっぱりあのメタボ猫にお導きがあるわけないと心の中で断言する。
「……でも、間違いなく東條さんと、その、杉野さんだったけど、あれ、やっぱり私の見間違いなのかなぁ」
(よし! 迷ってきた! あと一歩!)
もう少し押せばかなり強引に勘違いさせることができそうだ。俄には信じられない出来事なのだから、思い込ませればこちらの勝ちとばかりにまくしたてる。
「そうそう、俺らはずっと日本にいたんだよ。昨日試験が終わったばっかで、今日羽を伸ばしてる最中だったし!」
「なんか慌ててる、よね」
「慌ててませんよ慌ててません!」
ぶんぶん両手を振り回して否定する。その際に及川が飲んでいたコップに触れて、勢いが強かったのかバッタリと倒してしまう。
「きゃっ」
小さな悲鳴は冷たいアイスティーが服と身体に掛かったからだろう。胸の近くとお腹の部分に点々と染みがついている。
「うあ、すまん!」
慌ててハンカチを取り出して彼女の服を拭う。手が胸の近くに当たったようだが、どちらかといえばムニュリとした感触が――
「きゃぅっ」
それもまた悲鳴となって、及川は自分の身体を抱いた。
「あっちゃん、セクハラー」
「うおおおっ!」
いつもの未茅の対応と同じようにしてしまったが、よくよく考えたらセクハラと思われても仕方ない行為だった。
「さ、触ってないから!」
すぐさま自分の身を弁護したが、果たして通じてくれただろうか。
「……う、うん、悪気がないのはわかってるけど……」
「マジでごめん! あ、あの、染みになったら大変だからハンカチ貸すよ」
「むしろすぐに洗ったほうがいいかもしれないよ?」
「そ、そうですね」
鞄から財布を取り出した及川は自分が頼んだアイスティー分の料金を置いていこうとするが、すぐさまそれを睦が止める。
「悪い、俺がこぼしたんだからここは俺が払うよ」
「でも悪気があったんじゃないんだし」
「それでもさ、ここは払わせてくれよ。頼む」
これで少しでも気分が軽くなるのなら安い物だし、女の子の服は高い物というイメージも先行しての睦からの頼みだった。
「う、うん、いいよ、それなら」
男子に頭を下げられてしまっては、及川としても引き下がるしかなかった。しかしどこか申し訳なさそうな顔をしているのは、そこまで気の強い方ではないということだろう。
「そ、それじゃ、さよなら。また学校で」
「あ、ああ、学校で!」
軽く手を振ってくれたので振り返すと、その手をピシャリと叩く別の手があった。
「な、なんだよみっちゃん!」
「べつに~。あっちゃんが誰と仲良くしててもいいけどさー」
明らかに不機嫌そうな未茅に、睦は軽く引き気味になる。
「そ、そうだみっちゃん。服は無事に買えた?」
「うん、あっちゃんの選んだ服より断然センス良いのを選べたよ」
「ぐはぅっ」
無駄に痛いところを突かれたのでコーヒーのコップに残った氷を頬張って心を癒す。
「あと買い物といえばー」
「まだあるの?」
「あるある。財布はバッチシ持ってきてるからお金は問題ないよ。あ、そうだ。さっきのジャージ代も渡しておくね」
「あー、いいよ別に」
ジャージを購入した帰りの際に水樹絢奈と会って未茅が秘密にしているだろうことを勝手に聞いてしまった罪悪感もあり、そこで代金を受け取ろうという気は起きなくなっていた。しかしそれを知らないだろう未茅は少しぐらい食い下がってもいいところをあっさりと「やった、ラッキー」と素直に嬉しがる。それもこれも睦の性格を知っているからこそ出来る素直さなのだろう。
「よし、次はね。マイカップとマイ歯ブラシとマイ文房具とマイノートだね。マイ四天王だよ」
「……四天王って、なんかいつまで居着く気なんだっつーか」
「さぁ、いつまでか分からないからとりあえず。もうすぐ夏休みだしね、休みはたっぷりある!」
「だったら文房具要らないんじゃないか? 歯ブラシだって、使ってない新品を渡してるだろうし」
「そうなんだけどね、やっぱり悪いかなって」
「いや、歯ブラシは一度使ったらその人の物だから気にしなくていいけど」
「だったらそれを貰って新しい歯ブラシを返す。これで問題なしナシ!」
「……確かに」
そういう義理堅さがあるのなら、拒否する理由もない。
「んじゃあ、さっさと他の買い物にでも行きますか」
それだけ買い物があるのなら、それなりに時間が掛かるだろう。夕飯までに帰れと言われている以上、それまでに帰らないとトミ子の大目玉を食らいかねない。
「そうだね」
睦と未茅が同時に立ち上がった。
また暑い外に出るのは少々うんざりするが、それでも気分的にはあまり悪くない。――幼馴染みと二人で遊んでいた時の記憶が徐々にだが甦ってきているのかもしれなかった。




