17.ありゃぁまさに猫の世界を滅ぼしかねねぇわ
「やべぇんだ。かよみが危機察知したのは、俺に対してじゃねぇな。ありゃあの嬢ちゃんに対してだ。ありゃぁまさに猫の世界を滅ぼしかねねぇわ」
「……だからなんだっつーの? さっぱり分からないんだよ。というか、分からないことだらけで頭が噴火しそうだ」
「そりゃお前さん人間側の常識じゃぁわからんだろうよ。けどよガキンチョ、ちょっと視点を変えてみろや。猫側の世界から俺達の姿を眺めりゃぁ、これから俺の話すこともちったぁ理解するだろうぜ」
「……そういえばお前ってさ」
昨日から今日までのリヒャの行動を振り返る。
「あのエアーズロックから戻ってきて、みっちゃんに会おうとしないよな。よく考えたら俺ばっかりに会ってないか?」
しかもなるべく睦が一人になった時に姿を現している。自ら気紛れを名乗るぐらいだから、その辺はあまり気にしていなかったのだが。
「その割にはみっちゃんのことが気になってる様子だったからさ……そうだ、そうだよ、お前、割と最初からみっちゃんのことが気になってなかった?」
「お、嫉妬か? 若いねぇ」
「ち、違う! そうじゃないって!」
「安心しな。俺ぁ人間のメスにゃ興味ねぇ。あるのはケツがぷりんぷりんして、こう尻尾が艶めかしい大人の猫だけよ。あんな人間のガキンチョなんざ眼中にもねぇな」
「……うん、猫の美的感覚が通じないのは分かった」
「それでだ、本題に戻るぞ」
リヒャの尻尾がゆっくりと左右に動いた。
「問題は、俺ぁあの嬢ちゃんにあんま会うわけにゃいかんって前提がある」
「ぜ、前提?」
「そうだ。これでも色々とあるんだが、以前にも説明しただろうし、娘からもある程度話を聞いてるだろ。人間の世界と猫の世界ってぇのは、互いに互いのテリトリーがある。そいつぁ言葉が通じないからこその領域であり、永遠に崩されることのない互いの価値観を守るトコロだ。だがな、俺ぁその関係を壊すこともできる。もちろんやるつもりなんざねぇがな」
「ま、猫が全部リヒャみたいなしゃべり方してたら、誰も飼おうなんて思わないよな……」
「だろ? 別に飼われることを苦痛と思ってる猫なんざほとんどいねぇ。いや、そもそも人間の飼っている、飼われているという感覚がわかんねぇんだよ。だがな、俺ぁ分かる。人間と猫の言葉を理解し、互いの不可分領域を行き来する俺だけぁ違う」
「確かにこの間言ってたのはそんな感じだったな……。でもさ――」
「あの嬢ちゃんが関わる訳、か?」
「……ああ、そんなん、みっちゃんには関係ないことだろ。ぶっちゃけりゃリヒャさえ気をつけていれば問題ない話だろうし」
「じゃぁよ。この二つの世界を行き来するのが猫の俺だけじゃねぇっつったらどうするよ? それこそはっきり言わせてもらうが、俺の娘だって俺のように世界中を行き来できやしねぇ。もちろん猫の世界は知っていても、あいつぁなぜか人間の姿で生まれてきやがったからな。猫の世界へ必要以上に介入できねぇんだよ」
「……? どういうことだ?」
しかし頭にはネコミミがついている。あれは一体どういう理由なんだろうか。むしろあれこそが人間の皮を被った猫という証明ではないのか。
「違うな。ネコミミが見えてるんはてめぇら二人ぐらいだ。まったく、俺も焼きが回ったぜ。迂闊にあの嬢ちゃんとバッタリ出くわしちまったのが運の尽きだ。――あの嬢ちゃん、全くの無意識だが猫の世界に関与できるぞ」
「だからそれがどういう意味なんだ?」
リヒャは以前からどこか誤魔化して語っている部分があると、睦はそろそろ察してきた。一体目の前の人語を解す猫は何を言葉の裏に隠しているのか、睦はまた逃げられないように意識を集中して耳を立てる。
「俺と嬢ちゃんが会ったのは昨日の昼前だ。空き地の土管の上で寝ていたら突然俺の尻尾を掴んできやがったんだよ」
「それで驚いて土管に入って、追い掛けてきたみっちゃんと一緒に俺のところまで飛んできたわけか? あれを見たとき、俺がどんだけ驚いて狼狽し過ぎて逆に固まったか知ってるか? 知らないだろ?」
「そんな些細なこたぁどうだっていいだろ。長い人生、そういうことの一つや二つあるってぇんだよ」
「まず無いからな!」
「ただな、お前にゃぁ尻尾が一つに見えるだろ?」
ひょこひょこ動かす尻尾は、確かに一つに見える。
「……まぁな」
「あの嬢ちゃんは、見えてなかった癖に『もう一つの尻尾』を触りやがったんだよ」
「……」
睦はおもむろにひょこひょこ左右に揺れる尻尾の先端をぎゅっと握る。リヒャは全身の毛をそばたたせ、さらに爪を立てて渾身の一撃を睦の顔面に食らわせた。
「何しやがんだガキンチョ! 猫の尻尾ってなぁ俺達にとっちゃ誇りでプライドで誇りだぞダボがぁ!」
「いたたた……! ちょ、ちょっと握っただけで怒るなんて、短気な猫だなくそっ……!」
「怒るに決まってんだろうが! お前は猫の尻尾ってのがどういうものか全く理解してやがらねぇ! ちょっと待ってろ、それについてこれからとくと語ってやるから――」
「……そんなことしてたらみっちゃん達が戻ってくるぞ」
「ぐぅっ……! くそったれ、また今度にしてやらぁ」
「それでもう一つ、尻尾ってなんだよ。また意味不明なこと言い出して俺を混乱させるつもりか?」
「そんな悪趣味なこたぁしねぇよ」
今度は尻尾を振らずに、むしろ庇うように睦から距離を取っている。余程触られることが嫌らしい。
「ネコマタってぇんは、尻尾が二つあるんだよ。ネットで調べなかったのか。俺達ゃぁそういうもんだってな。人をまたいで呪いをかけ、あるいは野郎の精気を持ってくんだよ。あいにく俺ぁ雄だからそいつは無いが、一般的には雌のネコマタのほうが多いとされてるな。ま、そもそもネコマタ自体がかなり数少ねぇから俺もその辺は把握しきれてねぇ。ついでにいやぁ俺ぁ知的でもあるから、仲間内からぁ猫魈とも呼ばれてるがな」
「猫から賞を受け取ったのか。なんつーかこう、なんとも言えない凄さがあるな。驚きだよ」
「……馬鹿にしてんのか? まぁいい。んで、片方の尻尾ってのは実を言うと見えねぇもんなんだ。見えるのは同じネコマタか、あるいはそういう物の怪と化した生き物に類するものだ。――意味、わかるか?」
「さぁ?」
「頭回ってねぇな、おい。もっと考えろ、今の意味をよ。俺だって偶然だと思ってたんだが、あの嬢ちゃんの願いが俺のくぐり能力に強く反応し過ぎることから気付いたんだがな、それでもわからねぇってのか?」
「……つまり、見えるのはネコマタみたいなもんってこと?」
「以前話したろ。猫には猫の世界、人間には人間の世界、他の動物にゃそれぞれの世界がある。猫にネコマタがいるんなら、なんで人間にゃそういうのがいねぇって断言できるんだよ」
「……え?」
リヒャの言いたい『結論』をそこで悟り、しかし瞬時に睦は否定した。その『結論』は大概にして受け入れがたく、そして睦にとってあり得ないことの一つである。
今までいくら不思議な現象を目にしてきたといっても、それを口に出してしまえば今まで築き上げてきた関係の一つが壊れてしまいそうになるような予感。平凡な日常から一歩離れてみて、今まで自分がどれだけ普通に守られてきたのかをたった一日程度で知る事実。くぐれば遠くに来る。猫が喋る。人間に猫の耳が生えている。どれもこれもテレビ番組に出したら大騒ぎされるレベルの現象だが、今、その現象の一つが新たな現象を語ろうとしている。
「俺ぁ、昨日から今日に掛けてちぃと調べたんよ」
「……ちょ、待てよ」
「俺の力へ必要以上に干渉してきやがるってぇところから、こういう『結論』が浮き上がってくるわけだ」
「だ、だから待ってくれよ」
「杉野未茅は、人間版のネコマタだ」
――やめろ!
聞きたくなかった一言を断言されて、睦は瞬間、茫然自失とする。
「ハッキリ言わせてもらおうか。あの小娘は、化け物だ」