11.遠くに行ったらどうしよっかねー
夜になって夕飯を食べて自室に戻ると、ようやく一息吐けて全身から力が抜けていく。
夕飯時も遠慮という言葉をまるで知らない未茅が次から次におかずを平らげみるみる内に無くなっていき、そこへ勝手に盛り上がった祖母が「戦争だぁ!」と叫んで本当に一種の紛争状態にまで陥ってしまった。結局今日は未茅と出会ってから一時たりとも休む間が無かったような気がする。
(昼寝したけどね)
それでも身体の疲労が取れたわけではない。
シャワーでも浴びてくるかと思って換えのシャツと下着を用意し、バスタオルにくるんだところで窓から音が鳴った。風が強いのだろうかと訝しんでいると、さらに二回、音が鳴る。
明らかに誰かが呼んでいる。
今日一日であらゆる事が起こり、あらゆる話を聞いた上で総合的に判断すると、窓からの来訪者など一人、いや一匹しか知らない。さほど警戒せずに睦はカーテンと窓を開いた。
「よう」
太り気味の猫が開いた窓の隙間からするりと中へと入り込んでくる。とん、という軽い音を立てて畳に足を着け、部屋の中央で堂々と座る。
「今日一日、どうだったよ?」
「……お前も神出鬼没っていうか、猫らしいよなぁ。ああもう大変だったよ。不法入国からネコミミ娘に、次第には猫の世界だぁ。そろそろ頭がパンクしそうだね」
最後は嫌みったらしく言ってみたが、リヒャの口から漏れてくるのはくつくつという笑いだけだった。
「そういやお前の娘っての、別になんともなかったけど」
あの境内でなにやら不穏なことを仄めかしていたので、一応警戒こそしていたのだが、実際何かがあった様子はない。
「おや、そーかよ。思ったより好意的じゃねぇんだな。そいつぁ安心だ」
前足で顔を洗っている様子は猫なのに、声はおっさんという不思議猫からは安心した雰囲気が伝わってこなかった。どうにもこの猫との会話は何かがズレているのだが、それでもいくつか訊ねたいことがある。
「かよみが言っていた猫の世界ってなんだ? お前がいないとその世界が崩壊するとか言っていたぞ。戻らなくていいのかよ」
「ああ、そのことか。まったく、あいつは俺の事を破壊神か何かだとでも思ってるんか。俺一匹いなかったぐらいで世界が崩壊するわけねぇだろうが」
「知らないっつーの。そもそも何だ、猫の世界って。まるで別世界のような言い方だが、ンなもんあるとは思えないね。あれだろ、どうせそこら辺の駐車場や公園で夜中にやってる猫の集会とかだろ」
「良いところを突くな。ガキンチョの癖になかなか侮れん奴だ。無論、お前達が考えているファンタジーではなく、もっと現実的な、いや、お前達人間と隣同士で集まっている猫の集会こそ猫の世界だ。あの娘はどうにも言い方が壮大でややこしいが、ぶっちゃけりゃぁ猫のネットワークみてぇなもんだな。猫の集会はその最たるモノなんだよ」
「それが壊れるってのはどういうことだ? 集まる場所が建設地域になっちゃったとか?」
「俺が人間と猫の世界、両方に居座ることができるからだろう。娘も同じだが、俺らぁこうして人間と直にコミュニケーションが取れてるだろうが」
「……ああ、まぁ、結構不気味なことに」
「つまりこういうことだ。本来なら具体的な意志を示せずにいる異種間のほ乳類だが、猫と人間の間を直接行き来する俺は両方の意志を的確に受け止められる。こいつぁどういうことだと思う?」
つまり、と睦は考え出す。
人間と猫は態度でこそ意志を示すことが可能だが、その実心の奥底で何を考えているか互いに確認を取ることは不可能だ。人間同士ですら心の底を覗くことが出来ないというのに、どうして猫まで理解に及ぶだろう。人間以外の動物が嘘を吐かない証明なんて出来ないように、猫が見せる態度は心からそう思っていることの証左なんていう証拠はどこにも存在しない。しかし彼らが互いにその立場を守れてきたのは、その曖昧なる態度から読み取る自分勝手な推論を真実だとし、実際に一定の不干渉領域を作る隣人として何十年、何百年、何千年と互いに上手くやってこれた。
だがここで、その曖昧だが絶対に破られることのない互いの壁を崩す者が現れたとするならばどうだろう。
「かよみの言っていることは、つまりこういうことだ。猫が腹の底で考えてることをぶちまけちまえば、いくら寛容な人間様だって我慢の限界だってぇな。具体的に言やぁ、おいこらアツ坊、てめぇみてぇなブサイクがモテるわけねぇだろ勘違いすんな糞ガキ、あの小娘がてめぇ如き眼中に入れてるわきゃぁねぇだろうがタコ」
「おいこらお前いきなり何言い出してんだよ!」
「――とまぁ、そんな感じだ。わかったか」
「……。分かったけど、今の流れだと、それお前の本心ってことにならないか?」
「……。そんなこまけぇこたぁいいじゃねぇか」
「なぜ目を逸らした! なぜ! え、みっちゃんってもしかして俺のこと眼中にもなかったりするわけ? え……?」
そこそこに打ちのめされてしまった睦の部屋を、誰かが結構勢いよく叩く音が聞こえてきた。
「おっと、これで俺は失礼するぜ。今あの小娘と鉢合わせるわけにゃいかんからな。ったく、本題に入り損ねちまったぜ」
「本題?」
「長くなるからまた今度だ。それまで達者に生きてろよ糞餓鬼」
最後にとんでもない悪口を残して、猫は窓の外へと、その体格に見合わぬ華麗な動きで消えていった。
ドン、とさらにドアが叩かれて「あっちゃーん」と呼ばれる。はいはいと呟きながらドアを開けると、目の前に雑誌が突き付けられた。
「はい!」
「はい、って、これ俺が前に買ったマンガじゃないか」
「一緒に読もう」
パジャマ姿の未茅が笑顔でそう言ってくる。ほのかに漂う女の子の香りは風呂上がりだからだろうか、身体は蒸気して柔らかそうな頬はうっすらと紅が差している。青一色のパジャマは中学生の頃に自分が着ていたもので、どうやら祖母が奥から引っ張り出して未茅に渡したものらしい。自分の服を女の子が着ているという事態にちょっと興奮を覚えてしまう年頃の男子高校生だったが、ゴンと頭を拳で殴って気持ちを落ち着かせる。
「何してるの?」
「なんでもない……。んで、さっき貸したマンガをここで読むの?」
「うん。昔みたいにしたいなって」
そう言うなり未茅はひょいと睦の脇をすり抜けて、さっそくベッドに寝っ転がり雑誌を広げる。
(風呂上がりの女の子が俺のベッドの上で……いやいや、何を考えてるんだ! 落ち着け、素数を数えろ……!)
昔通りにっていっても、今更昔に戻れるかどうかが問題だった。――いや、と睦は未茅に聞こえないように呟く。そういえば確かに昔はこうやって一つの部屋に集まって黙々とマンガを呼んでいた。未茅は少年向けだろうと少女向けだろうと面白ければ何でも読んだので、睦も揃えるマンガの種類を気にしたことはなかった。
ベッドで転がりながらマンガで笑っている少女を眺めながら、ふと笑みがこぼれる自分がいる。かつて通ったことのある懐かしい時間をまた過ごせることに喜びを感じているようだった。
「よいしょっと」
「次の貸してー!」
「……今読もうと思っていたところなのに」
しかし逆らえるわけもなく、諦めて睦は手に取った雑誌を彼女に渡す。ん、と返事をしてから未茅は仰向けに転がって雑誌を読み始めた。
なんだか平和な時間が流れている。
――未茅が引っ越してから、こうした過去の時間を振り返ることなんてしたことがあっただろうか。無い、と結論づけた。
その結論は、睦からマンガを読む気を失わせる。
(そういや俺って、みっちゃんが引っ越してから……一度でもみっちゃんのことを真面目に考えたことあるのかな)
大きく口を開けて笑っている少女の姿は確かに昔からそこまで変わっているとは思えない。もちろん成長しているところは成長しているし、精神もそれなりに大人へと近付いているだろう。
だが、ここにいるみっちゃんは昔のみっちゃんのまま。
何も変わってない。
(ほんとに変わってないか?)
なんとなく首を傾げる。
(まぁいいか……眠い)
余計なことを考えすぎた所為か、またまた今日一日で色々とありすぎたせいか、瞼がうつらうつらとし始めてきた。
「ねぇあっちゃん」
「ん~?」
「リヒャの力でさ、私だけとか、あっちゃんだけが遠くに行ったらどうしよっかねー」
「んー、連絡すりゃいいんじゃない?」
「そっかー、どうやって連絡しよっかー」
「俺が飛んだら、みっちゃんのケータイに電話するよ……あ、そういやみっちゃんのケータイ知らないや……」
「ありゃ、そうだっけ。あ、私も家のほうに置きっぱなしだった。結局連絡とれないね」
「ああ、そうだね~……」
今なにか変な会話をしなかったか。
しかし意識がその何かに気付く前で、すとんと落ちてしまったのだった。