10.ねこまんまは立派な料理なのよ!
「ただいまー」
「――っちゃぁぁぁん!」
玄関を開いたと同時に襟首に凄まじい圧力がかかり、睦は投げ飛ばされる寸前にビニールを未茅の顔の前に突きつけた。
「ん?」
すんすん、とそれこそ猫のように鼻を鳴らしてビニールの中の匂いを嗅ぐ。
「無臭だよ」
むすっとして自分が出した結論を言ってくる。
「バニラです」
「え、ほんとっ?」
いきなり顔を明るくさせて早速ビニールを奪い取る。
「わ、三つもあるよ。ねぇねぇ全部食べていいの?」
「俺とばーちゃんの分もあるから、一人だけってわけじゃないっつーの。ほら、居間で食べよう」
「うん」
満面の笑顔を目の前で拝見すると、自分の選択が間違っていなかった安堵に包まれる。
ビニール袋を持ったまま居間に駆け込んだ未茅は早速大きな声で「ねぇかよみちゃん! あっちゃんがアイス買ってきたよ!」
ぶぅっ、と盛大に噴き出した睦は急いで靴を脱いで居間へと駆ける。廊下を滑りながら辿り着くと、そこには――
「おじゃましてます」
そこには本当にリヒャの娘である神月かみよがちょこんと正座し、麦茶の注がれたコップを持ってぺこりと頭を下げていた。頭を動かすと耳も一緒に動く。あの耳は本当に本物なんだと改めて認識させられた。
「トミ子さんがいないから今の内だよ。さ、食べちゃおうよ」
「いやちょっと待って、なんで君ら二人ここにいるわけ?」
「友達だから」
「友達だからよ」
異口同音、中身内容まったく同じだった。
「いや、えっと、いつから友達?」
「一時間ぐらい前から?」
という曖昧な返事をしてくる。
「あっちゃんが逃げ出した後、ちょっとこの子と話ししてみたんだよ。うん、良い子だね。リヒャの子だけあって素直だよ」
「……リヒャが素直ってタマか、ありゃ?」
かよみに抱き着いて頬ずりする姿を見るとそんなことはどうだって良くなってくる。とりあえずアイスと付属してきたスプーンの入った紙袋をビニールから一つずつ取り、アイスの蓋を開ける。
甘い味が口の中に広がる感覚を楽しみながら、じぃっと神月かみよを眺めてみた。今は未茅の指が頬をぐりぐりしてくるのを首を振って嫌がっている様子だが、未茅そのものを嫌っている様子はない。そもそもだ、どうして彼女は自分の父親を捜しているのかその理由も分からない。糖尿の危険性があるから父親を捜してる? だからリヒャは会おうとしない? ――先程リヒャと話した限りでは、どうにも娘を溺愛しているようだったが。
(わっかんねぇもんはわからねーな)
あの未茅の事だから半ば強引に話を聞き出したのだろうが、神月かよみも神月かみよだ。どうしてこう知らない人間にほいほいとついていってしまうのだろうか。
(……猫を手懐けるなら餌とか顎を撫でたりとか。って、このアイスも餌付けの一種だってか?)
いつの間にかアイスを平らげている二人の少女を眺めながら、もしかしたら自分は二人とも餌付けしてしまったのかもしれない、なんて恐ろしい想像が浮かんでくる。
「なぁ、神月」
「ひゃぅっ!」
ずさり、と数歩分下がったかよみに、睦と未茅の両方が言葉を失う。
「な、なななによ何なのよ」
「いや……むしろ俺が訊ねたい」
「い、いきなり名前呼ぶ方が悪いのよ。なんでわたしの苗字知ってるの? 超能力? 道具?」
「道具ってなんだよ道具って。それに超能力なんて」
「使えたんだ! すごいね!」
きらきらと純真無垢に目を全力全開で輝かせながらずいっと迫ってくる未茅の顔を押して引き離し、こほんと咳払いをする。
「さっきリヒャ――ああ、お前の父親に会ってきたんだよ。そこで名前を聞いた。どうやら間違いじゃないみたいだし、今度から神月って呼ぶけどいいよな。あ、それとも下の名前のほうがいい?」
「……かよみ、でいい。そっちのほうが慣れてる」
手をスカートの上でもじもじさせながらそう呟いてくるかよみ。
「んじゃ、かよみでいっか。でさ、なんで父親を捜してるの? 俺に近寄ってきたのって、ぶっちゃけそれだろ?」
「うん。パパ様を探してるのよ」
リヒャの話題を出すと、途端にかよみは落ち着いてきたようだった。変顔から猫のように凜とした美少女然の表情を取り戻す。
「パパ様がいないと大変なのよ。猫の世界が壊れてしまう。だからパパ様を戻しに来たの。糖尿の件もあるし」
「さて、みっちゃん。ここまで聞いた俺はどういうリアクションを取れば良いんでしょうか」
「まずはあれだよあれ、猫の世界の主食はねこまんまかどうかを質問してみよーよ。私昔からねこまんまって気になってたんだよね」
「あれってただの人間の余り物を一つのお椀にぶちこんだだけじゃないのかなぁって気がしてるんだけどさ、どうなんだろ。もしかしてちゃんとねこまんまっていう食べ物が存在してて、俺達の認識が間違ってるとか」
「ねこまんまは立派な料理なのよ!」
かよみは上半身を起こしてバン! と座卓を思いっきり叩き、睦と未茅の二人の口を見事に止めた。
「ねこまんまっていうのは猫の世界にとっちゃ凄くすごーい御馳走なんだよ! 人間のステーキに並ぶぐらいの御馳走なんだよ! わかるこの意味わかるのッ?」
「わ、わからない……でもないかな」
妙な迫力に二人して押されて思わず頷いてしまうとそこで気でも済んだのか、かよみは大人しくなって座り直した。
「んでね、猫の世界というのがあるのなんて人間が知ってるわけがないの。だって、このこと知ってるなんて『パパ様』かわたしぐらいなんだもん」
「……どういうことだ?」
猫の世界というのがいまいち把握しきれない。いきなりそんなファンタジーの世界をもちだされても、さすがに対応が追いつかなかった。
「人間は人間の世界、猫は猫の世界。互いに不干渉、互いに近寄らず離れず、それを維持するのは互いに無知でいること。無知は最大の防御であり、最高の無干渉。知ったところで行く術無く、知らないところで行くこと能わず。これが人間と猫の世界。探せば猿の世界も犬の世界もあるかもしれない、そういう種による世界の隔たり。その壁を眺め通し、行き来すること可能なのがネコマタの雄なのよ」
「んん? ん~?」
今の説明は、果たして説明になっていたのだろうか。睦はかよみの言葉を思い出して反芻し、意味を再考してみるが、やはりいまいち掴みきれない。
「猫の世界を行き来する能力って、もしかしてドアとかくぐったりするあの能力のことかな?」
「――あっ」
未茅のツッコミに思わず手を叩く。何かをくぐることで遠いところに行ける能力があの猫にはある。あれは猫の世界とやらすらも行き来可能とするものだったのだろうか。
「でも、雄のネコマタはパパ様のみ。あらゆる世界を行き来するなんてパパ様だけが持つ不思議な力なのよ。だからパパ様を見つけて世界の崩壊を止めないとならない。そこで見つけたのがキミ。パパ様の匂いをさせてるキミを見つけた」
「なんかそれ、すっげー臭ってそうで嫌だなぁ」
既に猫屋敷に近い我が家だったので猫の匂いが付いていても仕方ないのだが、見た目中学生の女の子に指差されてそう言われるのはそれなりに衝撃的だった。
「パパ様が臭くなんかないのよ。下手をするとねこまんまより良い香りをさせて戻ってくる時もあるんだから!」
(それはねこまんまより旨いモンを食べてるんじゃなかろーか……?)
そうは思ったが、黙っておくことにした。
「なるほどー、世界の危機か。そりゃ大変だね」
未茅がまたもやかよみに抱き着く。
「それってすぐさま起こっちゃうような事なの?」
「す、すぐじゃないけど、長く放っておくこともできないのよ」
「じゃあさ、もう暗くなってきたし今日はこのまま一緒にお風呂に入って泊まっちゃおう! トミ子さんには私から話を通しておくからね。ほら」
「いいっ?」
それはさすがに止めてくれ、と未茅を止めるべく立ち上がった睦だったが、それよりも先にかよみが首を横に振る。
「わたしはこう見えてこっちでは人間。人間らしく人間の家族もいるのよ。だから家に帰るわ」
おおう、なんて常識的な返答だ……てゆか家族ってなんだ、と話す度に解決する疑問もあればそれ以上に湧き出す問いに睦の頭はそろそろパンクしかかってきていた。
「本当にそろそろ暗くなってきた。だから帰るね。明日は学校だから昼からだけど、二人休みでしょ」
「あ、ああ、試験休みだ。一応まぁ出掛ける予定はないけど……」
「あれ、試験休みだったんだ」
「みっちゃん……さっき説明したじゃんか」
「ほほう、なんだいその目は。まるで私がボケてるみたいな言い方だねぇ」
「わ、わ、待て待った落ち着けって!」
はぁ、と大きく息を吐く声の後にかよみが「明日、もう一度来るのよ」と告げる。
「ここにはパパ様の匂いが強く残ってる。だからここに来るのよ。それとパパ様を見かけたらわたしのところに来るように伝言もお願いしたいのよ」
「りょーかいだよ」
それに応えたのは未茅だった。
――だが何故だろうか。
あの猫は、どちらかといえば未茅よりも自分の所に来る……そういう予感が睦の中にわだかまるようにして存在していた。