1.にゅっとくぐってみた
猫を追っかけて土管をくぐったらにゅっと出てきた。
三年ほど前に遠くへ引っ越したはずの幼馴染の言葉は、東條睦にとってすぐさま理解に及ぶものではなかった。それでも眉をぎゅっと押さえて必死に頭を回転させたのは事実そこに幼馴染がいたからだ。遠くに行ってしまった彼女がどうして目の前にいるのか、猫を抱えてそこに立っているのか、睦は結論に至らない自分の頭に、夏の暑さも相まって少々イライラとする。
高校生になって初めてとなる夏休み直前の期末テスト終了時、その帰り道。不思議なことに期末テストから開放されたばかりだというのに友人達と遊ぶ気にもならずストレートで電車に乗って駅を降りて後は家までの道を歩いていく、まさにその途中だった。
――杉野未茅、彼女の名前。その名を呼ばなくなって一体何日が経過したかわからない、幼馴染みのフルネーム。
帰り道に近道とばかりに通る公園で彼女の姿を発見してしまう。
照り付ける猛暑の中、睦が見た彼女の姿は驚愕すべきものがあり、どうしてこんなところにいるのかと問い詰める言葉すら見失ってしまっていた。とにかく三年ぶりに出会った幼馴染の初めての言葉が「猫を追っかけて土管をくぐったらにゅっと出てきた」だったので、それに関する返答というかリアクションを取らなければならない、気がする。しかし猛烈にぶっ飛んだ言葉は正常な思考を取り戻させる時間を容易くは与えてくれない。
そもそも「土管をくぐってにゅっと出てきた」だけでも飲み込んで意味を理解するのに時間がかかるのに「猫を追いかけて土管をくぐる」なんて高校生にもなってやることだろうか。猫を追いかけて土管に入っていく女子高生なんて今まで見たことも聞いたこともないぞと呟いてみたら、彼女の腕に抱えられた猫が大きくあくびをした。
いまだ混乱しているが、睦は首を回して猫から彼女へと視線を戻す。
「よ、よぉ、久しぶり。いつ戻ってきたんだ?」
結局口をついで出たのはそれが精一杯だった。
「……戻ったつもりはないんだけどさ」
その腕に猫を抱えながら、自分の言葉を一向に理解しようとしない睦にちょっとむすっとして頬を膨らませる。やはり暑いのか、自分同様彼女の頬に汗が伝っていった。
「あっちゃん、拾った猫はどうすればいいのかな」
かなり太り気味ではあるが、見ればどこにでもいるような白黒ブチ柄の猫だった。この猫を追いかけてこんなところまで来た、というのはいささか非常識が過ぎる事態なので、やはり彼女が冗談を言っているという結論が一番分かり易い。
そして三年前と変わらぬ呼び方に、睦は心の奥がじぃんと熱くなるのを感じて頬が緩む。
「どうしたの、あっちゃん」
彼女が首をかしげると、その柔らかいストレートの髪が柔らかい頬を撫でて流れる。前髪は揃えてあるが腰まで伸びている黒い髪は、まさに記憶の通りだ。
「あ、やっ……そのな」
けど、声だけは三年前と変わらない。背丈と顔は少し大人へと近づいたあとがある。まだまだこれからだろうけど、そこにぼんやり時の流れを感じずにはいられなかった。以前は後ろで一つにまとめられていたその長い髪はよく悪戯されてたが、その主犯となった男子生徒達は逆にこの幼馴染みの手によって必ずボコボコにされていた。あの時の活発な少女は、少々大人びたことによって見た目通り落ち着いただろうか。
「あっちゃん?」
「あ、ああ、すまん。……ええっと」
どうしたものだろうか。彼女の言うとおり土管をくぐってここまで来たというのを鵜呑みにするわけじゃないが、この幼馴染みが記憶通りならばそんな変な嘘は吐かない。まさかこのまま去ってしまうのも人として忍びないし睦としても久しぶりに出会った幼馴染みと何か色々話したい欲求がある。
「そうだな、詳しく事情を聞きたいので、ちとウチに来ない……か?」
三年前はどうってことのなかったこの誘いは、二人の間にある空白の時間によって少々照れ臭い感情が混じってしまったようだ。とはいえ、彼女が自分と同じ感情を抱いているかどうかは定かではない。
「それはいいけど、猫大丈夫? この子連れていかないとお話にならないよ」
「まじ? あっと、そうだな……猫をどうするか、だろ。まぁばーちゃんなら問題ないだろうし。何よりここへ来た理由が知りたいさ」
「だから土管をくぐったらにゅっと出てきたんだって」
「……果たして馬鹿にされてるんだろうか」
しかし彼女の目は真剣だった。
三年前と同じ彼女のままならば、その顔が一切嘘を吐いていないことを睦は理解している。三年前のままの彼女を信じるか、あるいは三年間遠い地で暮らしてしまい、思い出として固まってしまった記憶との差異を考慮すべきか。しかしここで変に嘘を吐くメリットなんてどこにもない気がして、敦は頭を悩ませる。悩んでも結果は出てこないが。
「まずは家に戻ってから、か」
都会へ引っ越したと彼女からすれば、今この空気は久しぶりであり、たった三年前とはいえ子供の頃の思い出が甦ってきたのか、顔を明るくさせて猫を抱く腕に力が入る。ついでに猫が苦しそうに「にゃぁ」と鳴く。
「久しぶりだねー、あっちゃん家。楽しみだよ」
とにもかくにも家に戻ってからじっくりと話を聞くべきだ。
彼女が本当に「土管からにゅっと出てきた」だけならば、確かにこれ以上話を聞いても仕方ないのだが。