朝幻
何かがわからないのはよくあることで
自分の気持ちがわからないのは初めてで
でも本当はよくわかっている
石垣の隙間から伸びた草が風に揺れる。じわじわと屋敷の裏道を侵食し始めた雑草。崖の上から垂れ下がる木々には若い葉がのぞき、一際目立つ老木には咲き始めの白い花の姿があった。
そんなものに春という言葉を使う人間もいるが、ジルは嘘だと知っていた。
本物の春は、どこか暖かいものだ。この、肌を突き刺す風や、感覚を失いそうなほどの水温に触れれば周りの風景はもどかしい偽物だとわかる。
かごの中に積み上げられた洗濯物の一枚を水につけ、ジルは震える息を吐いた。
ジルは、この屋敷で働く住み込みの女中だった。やって来たのはほんの三月前のことだ。貴族である老齢の当主が側を流れる滝に心を打たれ、この山中に建てたものであった。
年頃の娘が山中で住み込みを望むこと自体稀であったため、ジルは使用人達の中で一番若かった。よくある事にして熟年の家政婦達は、笑顔で親切に迎えてくれたものの、結局上手い具合に面倒な仕事を全て回した。
だから凍える早朝に一人きりで洗濯をするのがジルの日課になっている。
ジルは水に落ちた白い花びらが布に絡まるのを見て、軽く唇をかんだ。
かつての戦争で王に仕えて活躍し、地位と名声を得た当主を、馬車越しに一目見たことがある。
ここへは気が向いた時に訪れるだけで、その際にも部屋にこもってしまうという。幸か不幸か、ジルと入れ替わるように彼は町へ戻り、今は使用人だけが屋敷の管理をしていた。
主人が戻ってくる気配がないのをいいことに大半の者は手を抜き、ジルは埋め合わせに余計多忙だった。けれど、不満はなかった。嫌気がさしたところで、行く所も帰る場所もないのは、よくわかっていた。
そんな風に過ぎ行く、老木が白い花を咲かせ始めて数日目の早朝。
ジルはいつものように屋敷の裏側に位置する水場を訪れる。
滝の側だけあって水は豊富でいくらでも使用出来、衛生面に関しては都市とは比べ物にならないほど素晴らしい。ただ、周囲は人の管理が届いておらず、古い石垣のみがかろうじて森との同化を拒んでくれていた。長い間ジル以外は通っていないのだろう。
凍傷を起こしそうな水に、思わず眉をしかめる。
漂う花片をすくい上げ、彼女は朝の静寂の中で小さなため息を吐き、
「──おはよう」
その唐突な声に身を強張らせた。
こんな所に、人が? 驚愕に言葉も出ず、顔だけがとっさに振り返り───そこで、声を失う理由が一変した。
この風景に、あまりに不釣合いだったから。
全く飾り気がないのに上品な服装と、素直な茶髪、同色の優しげな瞳、神話の彫刻のように完璧な容姿が。
朝の光が、そこだけ柔らかに祝福しているように見えた。
鳥肌が立った。
これが、もしかすると、幻というものなのだろうか……
ジルは無意識に一歩後ずさり、しかし人影は、あっさりと実在を証明してみせる。
顔に浮かんだのは、ひどく人間らしい申し訳なさそうな微笑。
「ごめん、驚かせましたか?」
「……はい」
想像に反して、ずっと気軽な調子だった。緊張が緩み、ジルはまだ夢心地なのを抜け出そうと試みる。
「あなた様は?」
「誰だと思う?」
そんな切り返し。青年は簡単には答えを与えてくれず、面白がって目を細めている。
吸い込まれそうな、不思議な輝きを持った瞳。見つめたまま答えた。
「わかりません。だからお尋ねしました」
彼女の指摘は、時に的確すぎるのかもしれない。
反応は様々だが、案の定彼はぽかんとして数回まばたきをした。
それから次の瞬間には、堪えきれないといった風に、笑い出していた。
「なるほど、確かにそうだ。あなたは正しい」
大笑いする青年に対して、ジルは首をひねる。
こうして会話をしていても、どうにも現実感がわかない……。
「それで、返答の方はいただけないのでしょうか?」
「どうしても知りたい?」
「いえ。ただ部外者だと、泥棒の可能性もありますから、私は他の方に知らせなければいけません」
微かな風が景色を揺らし、朝の静けさに二度目の笑い声が響く。
全く非現実感をぬぐえなかった、これがジルと、当主の息子であるケイ・ハワードとの出会いだった。
「ねぇちょっとあなた見た? 聞いた? ハワード様の息子さん! 昨日夜中のうちにやって来たそうよー」
その日はもう彼の話題しかなかった。変化のない毎日を過ごす使用人達はここぞとばかりに騒ぎあう。
神の子という表現がぴたりと当てはまる美貌。
それなのに妙に気安く愛想のよい人柄。
よほど美人な奥様だったのだとか、どんな育ち方をすればああなるんだという話から、手の込んだ泥棒だったら? 実は女なんじゃないかという妄想にまで話は発展する。
ジルは食事をしながら考え事にふけってほぼ聞き流し、隣の女性が声をかけてきた時我に返った。
「私はまだなのだけど、あなたはもう拝見した?」
……あの朝の、息が詰まりそうな光景。
ジルは一瞬ためらい、すぐにいつも通りの微笑を返した。
「はい、少しだけ……」
簡単な羨みの言葉が述べられ、特に追求はされないまま関心は逸れていく。
ジルは誰にも気づかれないほどの息を吐いていた。
翌日も、その光景に出会うこととなった。
ケイは、あの白い花を見に来たのだと言った。
「父がぽつりと言ったのを思い出したんだ。屋敷の裏に、珍しい白い花の咲く老木があると」
「気に入ったのですか?」
「そうかもしれないな。あなたは?」
洗濯の手を止め、視線を上げる。そこにいるだけで全てが絵になる人。思ったままを口にした。
「美しいと思います。しかし、好きではありません。洗う邪魔になるからです」
返ってきたのは嫌な気にさせない笑い声。彼は子供のような表情をして続けた。
「もしかすると、僕も同じなのかな?」
ジルは出来るだけ素っ気なく答える。
「そうかもしれませんね」
もちろん、そう単純なことではないけれど。あえて否定せずに反応を試したくなった。
すぐにひどく楽しそうな、反省の欠片も伝わらない謝罪が耳に届いた。
一月に一度姉からの手紙を受け取る。
だからジルも、それに返事を出すのが習慣になりつつあった。
優しかった姉が幸せそうな様子をしているとジルは嬉しくなったし、心配されると少し心が痛んだ。この人里離れた場所で唯一の楽しみと呼べるものだ。
その分、返事には悩まされてしまった。
単調な毎日に繰り返される孤独な仕事……書けない。嘘などとてもつけない。
ジルは悩んだ末、短い近況報告に詩をつけることにした。それは姉自身が詩人に憧れ、よく書いては見せてくれたからだった。
どうやら才能は無いようで、いくら考えても上手くはできないけれど、姉は喜んでくれたらしい。いつか一緒に詩集を作ろう。そんな姉らしい言葉に自然と笑みが浮かんだものだ。
──今日はもう書けない。止めなければならない。
夜、狭い部屋の窓辺でジルは手を止めて外を見つめた。
目に映るのは、まばたきのたびに消えていきそうな星々と月。
手でつかんでも、溶けて水になってしまうのだろう。紙を一度見返した。
何かがわからないのはよくあることで
自分の気持ちがわからないのは初めてで
でも本当はよくわかっている
近くにいる
それだけで月のように遠い
花は満開になり、やはり美しい人はふらりとやって来る。
そして花片に苦心するジルに、さりげなく話をこぼした。
「どうしても、一つの所に留まれないんだ。だからここへ流れてきた。家へは滅多に帰らないし行く所も決めない。おかげで母の死に目に会えなかったよ」
この場所に、一人きりでいるようだった。老木に話をしているように思えた。
ジルはそっと声をかける。
神が彼を奪ってしまわぬために。
「悲しいのですか。あなたは御自分の性質が。世界を回って、綺麗にまぎれこめる場所を探しているのですか」
振り返り、浮かべたその完璧な微笑。ジルは一枚の絵の中に答えを知った。少しでも綻びれば、崩れていく脆さだった。
「あなたはなぜこんな所に働きに? まだずいぶん若いのに、退屈だろう」
不意にそう尋ねられる。
ジルは洗いものを再開して、淡々と事実を述べた。
「どこでもよかったのです」
彼女は病弱な子供だった。それゆえお金のない貧しい家族にとって、迷惑な存在でしかなかった。毎日顔を合わせる度に繰り返されたため息。お前さえいなければ。声に出さずとも視線がそう言っていた。
それでも家にいられたのは、唯一姉がかばってくれたからだった。
──ねぇジル。あなたは本当にいい子だわ。心の綺麗な子。
そんな彼女もついに結婚し、家から去っていった。居場所を失くしたジルは、初めに見つかった住み込みの仕事、つまりこの屋敷へと逃げるようにやってきた。
「少しでも多くのお金をもらって、家族が幸せになってくれればいいと思います」
「家族が憎いとは思わない?」
変わらない、穏やかな口調がそう聞く。同じように答えた。
「憎いですよ。でも、それだけです。彼らが私を生かしてくれたことが一番重要だと思いました」
ケイは曖昧に頷いた。何を考えているのか、少しも理解出来ない。
「あなたは、正直な人だ」
感心した風な手ごたえの無い声も、本心だったのだろうか。
自然と手を休め、ぽつりと呟いた。
「嘘を吐くのが、怖いだけかもしれません」
「怖い?」
「はい……」
ケイは説明を聞きたがった。こういう時彼は、ひどく蠱惑的な表情をした。知らず知らず、実は思惑通りに口を開いていた。
「自分が嘘を吐いた分だけ、相手も嘘を言う気がして……いずれ全てが疑わしくなるでしょう。私は、何かを信じたいのです。いえ、最終的に、信用して欲しいのです」
ケイはなるほど、と何度か頷き、思いつきの疑問を投げかける。
「でも、言わない方がいい本音もあるだろうに」
洗濯物の最後の一枚を洗い終える。ジルは息をついて、受け流した。
「私は嘘を言わないだけで、答えないという選択肢は捨てていませんよ」
エレノア・ライナッハが来る!
昼、ジルが食事の席に着くと、皆が一斉に興奮してそう騒いでいた。
「ねぇすごいわ幸運だわ。そう思わない?」
「そう、かもしれませんね」
隣の席の女性に同意を求められ、ジルは微かな困惑を胸の内に飲み込んだ。
エレノア・ライナッハ──今もっともこの地方で勢力を持つ大貴族の末娘。父親の自慢と数々の噂が手伝って、この辺りで知らぬ者はないだろう有名人だ。美しいと評判で、華やかな着飾りは人々の憧れの的だった。
そんな高貴なお方がこんな所へ来る。
使用人達が驚き喜ぶのも無理はなかった。
「やっぱり、ハワード様にお会いしに来るのでしょうねぇ。どんな方が求婚してもお断りしたと噂の方が」
「まあ、ハワード様なら無理もない。一目見るために、どこへでも行こうと思えるね」
「私は始めて拝見したとき、息が止まりそうでしたもの。どんな間柄なのかしら?」
「ハワード様は訪問のことをご存知ないのでは」
耳に、そんな会話が否応なしに飛び込む。ここを抜け出したいのと留まりたい気持ちが混ざり合い、ジルに眩暈のような感覚を与えた。
彼女を特別見たいとも、見ることになろうとも思わなかった。けれど気付けば見物の輪の中へ入っていた。午後の清掃に出掛けようとしたジルを、他の使用人が呼び止めたのだ。
「ほら、あなたも行かないと! こんな機会もう無いわよ? 掃除なんていいから、いいから」
「あの、私は」
「大丈夫よ、皆共犯なんだからー」
連れてこられたのは遠く屋敷の正門まで望める二階の大窓。
やがて広い庭園をゆっくり進む美しい馬車が姿を現した。フットマンがケイと共にそれを出迎える。
エレノア・ライナッハが青年の手を借りて地に足をつける。
ジルの周りは静かなざわめきで満ちた。
金色の髪を華やかに結い上げ、優美な衣装を着こなした艶のある女性を目の当たりにして。
「なんて素晴らしいのでしょう……」
「ハワード様ほどではないが、目も覚めるようだ……」
小声の感嘆が耳をすり抜けていく。ジルにはただ、彼女の姿があの白い花と重なって見えた。
透明感のある肌に、白を基調とした上品な服装。
そしてなにより、どうしても好きにはなれない所が。
翌日の早朝、彼は何事もなかったかのようにジルの前に現れた。
同じようにあいさつをして、花を散らす木を眺める。昨日の景色を、思い出さずにはいられなかった。
「美しいお方を、一目見ました」
声にケイは振り返り、軽く微笑する。
「エレノア嬢か。確かに美しく、少々気高すぎる。どうにも落ち着かなかったよ」
その言葉は妙に緊張をほどいていった。けれどそれは意図されたもののような気がして、表情を隠した。
「あなたは大分気さく過ぎます。どうにも不安ですよ」
苦笑も誤魔化しも聞こえない。人を惑わす柔らかな声が言う。
「あなたは全く正直すぎる。どうにも、素敵だね」
ケイの心は見えない。しかし自分の心は見透かされているような気がして。
自分でさえよくわかっていないのに。ああ、だから余計人には見えてしまうのだろうか?
ジルは胸に苦しさを感じ、眉をしかめた。
「面白くない冗談は、好きではありません」
「──ああ。同意見だ」
言葉が切れ、沈黙が降りる。寒さは、感覚が麻痺したように感じなかった。二度と顔を上げたくなかった。一体、何を考えて───
それでもしばらくすると乱れた気持ちは落ち着き、正常を取り戻す。急に不安になり、手元からゆっくり視線を上げ、消えていきそうな背を細い声で確かめた。
「……いつも、早起きなのですね」
ケイはいや、と首を振った。普段はこんな時間には起きないのだと。ジルが何も言わずとも、彼は理由をおどけた口調でしゃべっていた。
「少し変わった、早起きの女性をぜひ笑わせてみたいと思ったんだ。これがなかなか難しくてね」
さらさらと木の葉が揺れる音がする。その中で、
「それはまた……くだらないですね」
ジルは小さく微笑んでいた。
花が散ってしまうのはずいぶん早い。
あれほど邪魔だったのに、白が少なくなると不思議と寂しさに襲われた。
いや花、ではないのかもしれない。その下にたたずむあの姿を、眺めていたかったのだろうか。それともケイの残念そうな口調が、そう思わせたのか。
次の朝、彼は相変わらず盛りを過ぎた木を見上げていた。
今日いつになくとりとめのない話は、気付けば別の話題に移っている。ジルがあまり聞いていないのにも構わずケイはしゃべり続け、そのうち独り言に飽きたのかこちらへ尋ねてきた。
「僕を初めて見たとき、どう思った?」
何ですか急に、と迷惑な目で訴えたのが失敗だった。視線を合わせるだけでこれほど調子が狂う人間も滅多にいない。
ジルは冷たい水に手をつけたまま、一瞬回想をしていた。
「あなたは、……朝の、幻だと思いました」
「幻? なぜ」
問いかけに息苦しくなる。初めて見たときだけじゃない。いつも、今日だってそう、いくら話をしていても側にはいない……。
「近づきがたい程美しいのに、全く気軽で、愛想がありすぎるからです。今でも現実感がわきません……」
ケイは笑わなかった。代わりに、言った。
「なるほど、聞いてよかった。他は構わないが、あなたには認識されたいから」
意味を理解するより先に、強い風が吹く。
思わず髪に手をやり、髪を纏めていたピンが指に絡まる。地面に落ちる。
ほどけてしまったそれを反射的にかがんで拾い、
「綺麗な、髪だ」
──本当に、すぐ後ろで声が聞こえた。
髪に触れた微かな感触。
間を置かず、背に伝わった体温と柔らかく回された腕の意味。
考えるより先に、感じ取っていた。痛いくらい克明に。
振り返らなかった。代わりに、言葉を紡いだ。
「……あなたは、立派で地位の高い高貴なお方です。私は、ただの貧しい女中です。そうですね?」
「ジル、」
「そうですね?」
声をかき消す。沈黙の中に、続いたはずの言葉の幻が弱々しく浮かぶ。
それもゆっくり、朝の底に沈んだ。
「……そうだよ」
声は、やけにはっきりと耳に届いた。近くにあった気配は緩やかに遠ざかっていった。
小さくなる足音と共に、現実が濃度を増していく。本当は、こんなにもはっきりとしていたはずの景色。
たとえ幻でも、決して隣に行けなくても、ささやかな夢を見ていたかっただけ?
浮かんだ問いかけは、嘘に溶ける。そんな、綺麗なことなど思っていなかった。私は、私は本当は、
振り返りたかった。振り返ってあの人の腕の中で、あの人を犠牲にして、二度と抜け出せない朝の底へ消えてしまいたかった――
花びらが水面に落ちて、小さな波紋をつくる。
今日こぼれ落ちた花片はなぜか透明で、水に溶けてすぐに見えなくなった。
真夜中、そこだけ薄明るい窓辺で、ジルは手紙の残りを書いた。
読み返せば失敗作の、自分にしかわかりようのない本音がそこにある。
姉はこれを読んだとき何を思うだろうか。笑うのか、それとも心配するのだろうか。
……思考を止めて紙を封筒にしまい、寝台へと向かった。
明日、誰かに頼んでおけばいい。
窓の外で青白い月が、消える寸前のように木々を照らしていた。
何かがわからないのはよくあることで
自分の気持ちがわからないのは初めてで
でも本当はよくわかっている
近くにいる
それだけで月のように遠い
この距離が縮まることはない
それでも
それでも側にいたいと思ったのは
きっと私が愚かだから