7月11日 PM12:36 『彼方彩乃の慟哭』
午前と午後を結ぶ間の45分間、昼食時間。
弁当を持ってきていない僕と陽人は、購買でパンと飲み物を買い、屋上へと向かった。
1週間前、屋上の扉を閉めている南京錠の鍵を陽人が拾ってから、僕たちの昼食場所は屋上になっていた。
ここは人がいない。
元々、人混みを嫌う僕と陽人にとってこの場所は天国に等しかった。
屋上なら、寝ていようが騒いでいようが誰にも咎められることはない。
「なぁ、枷。最近、蔵町達のやってること度が過ぎてると思わないか?」
「…まあ、そうかもな」
入学当初から、彼方彩乃は注目の的だった。
不発弾というだけでも生徒達のインパクトは相当なものだ。
それに加えて、あの容姿。
無口で孤独を好む彼女だが、その姿は嫌でも目立ってしまう。
整った顔立ちをしていることも、蔵町達にとっては面白くないことだったのだろう。
やがて彼方彩乃は、見えない好奇心から目に見える女子達の敵意の対象になる。
最初は、教科書を隠したり、上履きを隠したりすることから始まった。
誰が主犯か特定出来ないような陰湿ないじめ。
それでも、彼方彩乃は反抗することも、学校に来なくなることもなかった。
彼女の心が強かったのか、反抗する勇気が無かったのか、その真意はわからないが、反応が無いことがつまらなかったのだろうか。
気が付けば、いじめはエスカレートしていった。
精神的な暴力から、肉体的な暴力へ。
彼方彩乃の頬に痣が出来たことも1度や2度じゃない。
爆発することが出来ないのを良いことに、彼方彩乃へのいじめの手が緩むことはなかった。
クラスメートは、その事実を知っている。
みんな臆病者だ。
口では正義感の強い言葉を放つが、彼女を助ける勇気は持ち合わせていない。
結局人は、どこまでも自分が愛おしいのだろう。
彼方彩乃が誰かに助けを求めることをしなかったように、他の誰かが彼女を助けようとすることもなかった。
目の前にいる、この男以外は。
「なぁ、どうにかしてあいつを助けてやろうぜ」
今、俺の前で真剣な目をして話す陽人は、本気で彼女を救うつもりだ。
彼に手を貸すのも、悪くないのかもしれない。
すべてを諦め、誰かに期待することをしなかった僕だけど、彼だけは信じてみる価値があるのかもしれない。
「…どうすんだよ」
僕の問いを聞き、陽人は声をあげて笑った。
「とりあえず飯に誘おうぜ、この屋上に男2人でいるのはもったいない」
「爆弾は飯を食べないぞ」
「比喩だよ、ばか野郎」
屋上を後にし、3階にある僕たちの教室を目指す。
無駄に広い造りになっているこの校舎のせいで、歩くだけで疲れてしまう。
陽人の言葉を信じてみよう。
彼ならば、手を貸す価値があるかもしれない。
それからようやく教室の近くまで戻ってきた時、何かが割れた音が廊下中に響き渡った。
その音はどうやら僕らの教室から鳴ったらしく、嫌な予感が胸の辺りにじわりと広がった。
いつも以上にクラスが騒がしい。
誰かの怒鳴り声と叫び声が聞こえる。
…一体何があったのだろう。
陽人が眉間にシワを寄せながら、木製のドアを開いた。
「…なにしてんの」
「枷くん、陽人くん、彼方さんが…!」
名前もよく覚えていないクラスの女子が、慌てた様子で何かを叫んでいた。
その言葉の意味を理解するよりも早く、僕の目に写りこんできたのは…。
「来ないで!…来ないでよ!」
教室の窓からその身を投げ出そうとする、彼方彩乃の姿だった。
どうして彼女が今、ここから飛び降りようとしているのか。
それは、床に散らばった花瓶を見れば容易に想像できる。
彩乃の机の上に、花瓶が置かれていたようだ。
生きている者どころか、死んでいる者の冒涜にもなるその行為にとうとう我慢の限界が来たのだろう。
「死ぬ!あなたたちみんな巻き込んで、爆発してやる!」
目に、涙を溜め込んで、彩乃は慟哭した。
その姿を見て、僕は痛いくらいに気付いてしまう。
彼女は今、確かに力強く息をしていた。
その呼吸は、決して無意味なものではないのだと。
それはきっと、生きることを諦めた僕よりも、ずっと意味のあるものだ。
「どいて!!」
彼方彩乃が飛び降りないよう、ベランダの前に立つクラスメートに向けて、彼女が叫んだ。
怒鳴り散らし、そばにあった机を蹴り飛ばす。
「もういっそ、こんな世界なくなればいいのよ!」
そんな言葉と共に彩乃が窓に向かって駆け出した。
まずい。このままじゃ彼女は…。
「コラッ!何してるんだ!」
次の瞬間、僕の隣を教師達が抜けていき、そのまま彼方彩乃を押さえ込んだ。
彼女は唸りながら身体をくねらせたが、さすがに大人の男3人がかりでは動けないのだろう。
しばらくして諦めたように、大人しくなった。
静まり返った教室に彼女の啜り泣く声だけが響く。
そうして彼方彩乃は、教師に連れられ教室を出ていった。
昨日、僕は彼女の笑顔を見たんだ。
あの時の笑顔は、曇りひとつ無かったように見えたのに。
きっと、今の僕の顔は恐ろしく歪んでいることだろう。
隣を見ると、陽人は苦悶の表情と共に拳を固く握りしめている。
そしてそのまま床に散らばった花瓶の前に屈み、落ちたガラスを拾い始めた。
素手のまま、手が怪我することさえ気にせずに、陽人は黙々と砕けたガラスの破片を集めている。
それから、何人かが思い出したように陽人の周りに駆け寄った。
蔵町達は自分達のしたことに後悔しているのだろうか。
教室の隅で、ばつの悪そうな顔のまま、ただ静かに立ち尽くしている。
「わり、枷。ちょっと彼方の様子見に行ってやってくれ」
僕も手伝おうと陽人の隣まで行くと、こちらを振り返ることなく彼はそう言った。
僕が行ったところで、彼女が喜ぶとも思えないのだけれど…。
それでも、偽善だろうか。
彼方彩乃のことを助けたいと思った。
「早く様子見に行ってくれ」
「あぁ、わかった」
気が付けば、僕は彼女が向かったであろう保健室に向けて駆け出していた。