7月11日 AM10:22 『彼方彩乃の苦しみを』
今日が終われば、来るのは明日だ。
でもその明日が来たとき、それは今日になる。
明日という時間を過ごすことは永遠に出来ないのだろう。
ここまでつまらない思想をさせるのは、この退屈な授業のせいだ。
相変わらず、これから先の未来でいつ使うかもわからない知識を教師達は教えてくれる。
学ぶことは楽しいことだ。
そんな風に思えるほど、僕はまだ大人ではなかった。
ただ、この世界が素晴らしく、自分の人生は輝かしいのだとはしゃぐほど子供でもなかった。
午前中の国語の授業。
教科書に綴られた文章を一節ずつ音読している生徒達は、今日も一生懸命だ。
その姿は、尊いと思う。素晴らしいと思う。
だけど決して真似をしたいとは思わなかった。
こんな世界は必要ないと、それだけを思って今まで生きてきた僕にとって、それはどこまでも無価値なものでしかなかった。
僕には何も必要ない。
どうして僕は、こんなにも生きることがつまらないんだろう。
そんなこと、理由は僕が一番良く知っているけれど、そんな事実さえも今すぐ記憶から消し去りたかった。
後ろの方で、彼方彩乃が教科書を読み上げている。
その度に教室のあちこちから堪えた笑い声がし、本人もそれが聞こえているのだろう。
彼女の出す声は、少しずつ小さくなっていった。
「なぁ、みんな彼方に酷いと思わないか?」
僕が顔をしかめていたのを見られたのだろうか。
一節を読み終え、座り込んだ彼方彩乃を見つめながら、陽人がそんなことを呟いてきた。
確かにそう思う。
みんながしていることは、ただの嫌がらせだ。
でも、だからといって僕らに出来ることは何もない。
それを告げると、陽人は困ったように笑った。
「そういうことじゃねぇだろ」
口調は悪いが、彼が実は正義感の強い善人であることを僕は知っている。
だからといって、陽人に手を貸すつもりもないけれど。
「どうにかしてあの女共懲らしめられないかな?」
「余計なことに首を突っ込むのはよせよ」
めんどくさいことに関わりたくはない。
正義感の強い陽人は進んで彼女を助けようとするのだろうが、僕はそんな気にはなれなかった。
「やるなら1人でやってくれ、僕はパス」
「そう言うなって、俺1人じゃ出来ないこともあんだろ」
「じゃあ他の人に協力してもらえばいいだろ」
後ろの席から聞こえるのは、蔵町の声だろうか。
「ちょっと、白髪また増えたんじゃない?ダッサ」
「これは、あの、生まれつきこの髪色で…」
蔵町に髪の色をとやかく言う権利なんてないと思ったけれど、そんな蔵町に彼方彩乃が言い返せるはずもなく、彼女は困った顔をしながら怯えたように答えている。
彼方彩乃の髪色は、周りの人間と少しだけ違う。
銀髪、というのだろうか。
色素が抜けた髪は雪のように白く、鈍い光沢を放っている。
爆弾は人間と遜色ない容姿をしているが、人間との唯一の違いは髪色なのかもしれない。
「あいつら…」
陽人がイラついた様子で蔵町達を睨み付けている。
彼方彩乃が気の毒だとは思う。
昨日見せてくれたあの笑顔が消えるのは心苦しくもある。
だけど、僕が彼女に出来ることは何もない。
そのはずだったのだけれど…。
数時間後、僕は知ることになる。
彼方彩乃の心の叫びを。
彼女が胸に秘めた、消えることのない思いを。
それは、昼食の時間が終わる頃、喧騒に包まれた教室で起こった。