7月10日 PM4:43 『プロローグであり、エピローグ』
無価値だった数学の授業も終わり、それぞれがそれぞれの帰途につく。
時刻は既に4時半をまわっていた。
僕は数学の問題をノートに書いていなかったことが平塚にバレてしまい、ひとり教室で居残りをすることになってしまった。
いや、もうひとり。この教室には彼方彩乃がいる。
蔵町達のせいで、勉強どころではなかったのだろう。
彼女の机の上にも、僕と同じ真っ白なノートが開かれていた。
胸に渦巻くこの感情は、罪悪感だろうか。
彼女がいじめに肩を震わせていたことを僕は知っている。
正義感の強い人間ならば、あの時、きっと彼女を助けたのだろう。
無駄なことをしようとは思わない性分の僕は、彼女を救うことも蔵町達を注意することもなかった。
そのせいか、どうにも気まずい。
さっさと黒板の文字をノートに書き写して帰ろう。
そんなことを考えていると…
「消しゴム」
彼方彩乃が声をかけてきた。
咄嗟の出来事に驚き、思わず彼女を見つめる。
今、何て言ったんだ?消しゴム?
数秒前のセリフを思いだそうとする前に、もう一度同じ言葉が繰り返された。
「消しゴム」
「…は?」
「消しゴム、貸してくれない?」
どうやら彼女は消しゴムを貸してほしいらしい。
僕の席からだいぶ離れた場所に腰かけている彼方彩乃が、こちらに手の平を向けている。
それにしても、ずうずうしくはないだろうか。
せめて僕の席まで来れば…
「ねぇ、早く消しゴム貸して」
なおも、彼方彩乃は苛立った様子で催促してくる。
その仕草に若干の苛立ちを覚えながら、仕方なく消しゴムを彼女に向かって投げた。
その消しゴムを上手くキャッチし、こちらに片手をあげる。
「ありがとう」
なんだ、ちゃんと礼を言えるじゃないか。
いつもクラスで無口な彼女とは、少しだけ違う印象を受けた。
よく見れば、彼方彩乃はなかなか整った顔立ちをしている。
せわしなく右手を動かして文字を消しているその姿が、なんとなく可愛らしい。気がしないでもない。
…まあ、そんなこと今はどうでもいい、早く終わらせよう。
窓の外からオレンジ色の光が教室を照らしている。
その明かりが眩しくて、思わず外を眺めた僕の目には、なんとも形容し難い空が写り込んでいた。
雲の隙間から一線の光が射し込んでいる。
遠くの空には紫色の雲が霞み、手前の空は橙色で塗りつぶされている。
雨も、いつの間にか止んでいたらしい
まだ夏の始まりを感じることさえない、涼しい初夏の夕暮れのこと。
「空、綺麗だね」
後ろから小さな声がして。
「…うん」
僕は、その言葉に同意するように振り返った。
そこには、太陽の柔らかい光に照らされながら微笑む彼女の姿があって。
その笑顔があまりにも眩しくて。
そうして僕はこの日、彼方彩乃の笑顔を知った。
この物語はきっと、プロローグであり、エピローグなのだと思う。
思えばこの時から、僕たちの未来は決まっていたのかもしれない。