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後編

「いいか小僧。忘れんじゃねえぞ」

 かつて、そういって、まだ子供だった私を怒鳴った人間が、狭間にはいた。

「あすこには何が見える」

 自分の答えは覚えていない。だが、相手は一つ頷いて、だがな、と先を続けた。

「俺にゃ見えねえ。なんもねえよ」

 その言葉の意味を、飲み込むのにしばらく時間がかかった。

「そういう世界だ。見えているもんが、隣に座ってたって違う。時間もだ。流れてねえ。現実戻って、そこで初めて何時間って感覚が戻る。忘れんな。同じじゃねえ。たとえ、人間同士でもな」

 鋭い警告を、幼い心は確かに刻み込んだ。

 だが、時の中で埋没してしまったことは、否定できない。

 そして、忘れた対価を、今――私は支払っている。

 目の前にいる彼女は、遺品を指さして一つ一つ語る、死んだ男の母に寄り添っている。

 その目に、私は映らない。

 時の長さの分だけ、積み重ねたはずの記憶は、彼女の中には存在しない。

 それが、はっきりと。

 分かる。

「これ、これは……」

 母親の、震える手が小さな道具一つ一つを取り上げていく。私は黙ったまま、悔やみの言葉も述べられずにいた。

 もしかしたら、と今なら思う。

 あの名も覚えていない男も、過去に同じ想いを抱え込んだのかもしれない、と。

 無意識に彼女を追いかけていて、ふとその視線の先にあった、小さな金属のかたまりが目についた。細長い形が、対になっているように、二つ。それがなんなのか、私はすぐに察した。

「――煙管だ」

 囁きにしかならなかった。だが、さっと顔を上げた彼女と、一瞬だけ目が合う。私は、つかの間の期待と、すぐに深い失望を味わった。

 葬式は現地で。そう告げられ、私は故人の遺物をお返しすることになった。終始、警官が恐縮し、足を運んだことに対してお礼を述べていたが、あまり耳に入らなかった。これもまた仕事のうちである。なによりも、私は彼女に会えた。

 それを喜ぶべきだった。事実、心の一部は歓喜でふるえている。

 しかし。

 相反する痛みを訴える心を、どうにかなだめて鎮めるのに、かなり精神を疲労させられた。それは意地のようなものだったかもしれないし、己の馬鹿さ加減を知っていたからかもしれなかった。

 結局、彼女の名前は分からなかった。

 一通りの挨拶を述べ、私は一足先に彼らに背を向けた。そうするのが、妥当のタイミングだった。何事にも流れがある。それを見失うほど、まだ私は崩壊してはいなかった。

 戸口から一歩踏み出した、その時までは。

「進士が、二年ぶりにあなたのところへ帰ってきたわよ……」


 追い打ちのような、一言を聞くまでは。



 どうやって帰ったのか、覚えていない。気が付けばえらく恐ろしい顔つきの孝敏が目の前にいた。会社帰りか、スーツにネクタイを締めている。そして……ぶん殴られた。

「……な、にをしてんだ、お前は」

 怒りを孕んだ声だった。強く殴られて、痛みのおかげではっきりした思考を取り戻した。

 三日だ。三日経っていた。

 彼女に初めて出会ってから、三日。その間のことを、私はほとんど覚えていない。見回したそこは、自室である離れだった。

「物も食わねえ、酒もやらねえ、仕事だけを淡々とこなす。坊主にあるまじき姿だって親父さんはかんかんだ。死ぬ気かお前は。ぶっ飛ばすぞ」

 すでに一発殴った後だ。孝敏が我を忘れている。ようやく、ようやく私は自我を取り戻した。

「……すまん」

「謝るぐらいなら、最初から腹ん中に抱えたものを吐き出しとけ、馬鹿野郎」

 腐れ縁の親友に連絡が行くほど、両親には心配をかけたようだった。一目見て、孝敏も私がおかしいと気付くほどだったのか、と思ったが、事態はさらに深刻だった。

「呼ぼうが叫ぼうが、生返事ばかりでちっともこっちを向きゃしない。昨日と今日で、俺がどれだけ苦労したと思ってんだ、まったく」

「わ、悪かった……」

 殴ったのは、さすがに最終手段だったようだ。

 それから、ぽつりぽつりと孝敏に話した。順序良く、とはいかなかった。夕暮れ時から、夜遅くまで付き合わせて、私のささやかな、だが積み重なった歳月が孝敏の耳に消えていった。途中からは、日本酒の手酌がついてきた。

 ただ黙っていてくれたのは、本当にありがたかった。

 まったく、子供じみたことだ。あの場の特殊性も、異常性も理解しながら。

 止められずに重ねた一方的な思いだけに、出口のない苦しみが伴って――なお。

 私はまだ、後悔していない。

 彼女を……諦めていない。

 忘れようとさえ、していないのだ。

 全く馬鹿だと、笑いたくなった。孝敏に止められて、乾いた笑いは納めたが。

 時の流れの違いは、私を打ちのめした要因の一つだ。

 そして、「進士」が、彼女の特別であったことも。

 だが、どちらも彼女との時の中で、十分に思い当たる節があった。

 山にのまれたのは、言うまでもなく須藤進士だ。彼が見つかったのなら、あの「死」の苦しみは彼女をもう苛むことはない。

 だからそう、いわば、これが私にとっての終着点。そう、話した。

 だが。

 行けよ、と孝敏がけしかけた。

「本物がいるんだろうが。現実なんだろが。会いに行けよ」

 孝敏は、そう受け取らなかった。

 しかし……と躊躇うと、片眉をはね上げて睨まれる。酒が入っている分、凄味が増していた。

「覚えていない? だからどうした。警察に行って住所訊けよ。嘘だろうが屁理屈だろうが並べて聞き出せ」

「お前な。仮にも仏に仕える仕事を持つ奴に、嘘をつけとそそのかすなよ」

 口調が砕けたのは、私にも酔いが回っていたからか。

「んなことた、後だ後。会いに行け。そうじゃなきゃ、終われんだろ」

 断言されて、苦い顔になった。

「終わるのが、前提か」

 そう尋ねると、はっと鼻で笑われた。

「お前の中じゃ、もうとっくに始まってる。だから、あるとすれば、終わりだけだ。だが……相手はそうじゃねえんだろ?」

 言葉がない。だが、確かにその通りかもしれなかった。私はずっと見ていた。話していたし、聞いていた……では、記憶のない彼女にとっては?

 床に大の字になってつぶれた孝敏。持つべきものは友だなどと、古い言い回しが頭をよぎった。

 おそらく、明日仕事にならないのは、孝敏の方になるだろう。

 何か胃に良さそうなものでも作るかと、母屋の方へ足を向けた。


 

 己から動けと、友人というか腐れ縁の悪友のようにせっつかれたが、三日間仕事をほとんど放り出していた状態で、いきなりまた抜け出すわけにはいかなかった。さらに、暦の上では仏事が詰まっていた。法要や葬式など、手をこまねいていた分だけ仕事は溜まっていた。

 あっという間に、ひと月。

 この世はまったく忙しなかった。狭間に足を向ける時もなく、ひと月。その間に季節は巡り、おそらく彼女の中にかすかに留まった私の記憶は埋もれているだろうと、そう考えた。

 ゆえに、檀家を回って帰宅した時、本堂の前に彼女がいた時には、知らぬうちに狭間に迷い込んだかと錯覚した。もちろん、はっきりした景色のため、ほんの一瞬のことだったが。

 一礼をして、彼女は私を見た。

「……先日は、大変お世話になりました」

「ご供養は、終わりましたか」

 この一言を絞り出すために、わたしは震えを抑えて唾を飲まねばならなかった。静かな灰色の瞳が、肯定の色になる。

「はい。お陰様をもちまして、恙なく」

「……それはなによりです」

 区切りのついた「生」の終わりは、もう彼女を苦しめていないのは明白だった。当然、次に浮かぶのは疑問だった。

「……では、なにか?」

 具体的に尋ねることもできず、あいまいに問いかけた。なぜか、彼女にも困惑した雰囲気があった。

「その……少々、お伺いしたく……お時間を、いただけないでしょうか」

 遠慮がちにそういわれた私に、断る選択肢はない。客間扱いの一室に案内し、座卓を前に向き合った。

 彼女は、小さな風呂敷に包まれた細長い桐の箱を取り出した。

 中に入っていたのは――煙管……が、二本。

 一方は、赤。もう一方は、黒。

 切り出しを迷う彼女には、狭間では見ることのなかった、やや幼い表情が浮かんでいた。あの、やや老成したともいえる口調や仕草は、かつての宣言通り、現実ではどこにも見当たらない。

 どうしても気になったんです、と彼女は切り出した。

「なぜ、と。御坊様は、黒くなって割れた欠片だけの吸い口を見ただけで、どうして煙管だとおっしゃったのか……」

 あまり一般的ではありませんから、と伏せたまま、彼女は続ける。

「些細な事です。けれど、どうしても気になって……これは、私の収集品だったものを、戻ってくるようにと願掛けのつもりで渡したんです。色違いの揃い物で、一方を進士に、他方を私が持っていました。結局形見になってしまったけれど、修復して。羅宇も取り付けて。それで終わって気持ちが落ち着くと思っていたのに、余計に気になってしまって……」

 すみません、と頭をさらに深く下げる。私には、言葉もなかった。

 これは、どんな巡り合わせだろうか。

 奇跡と呼ぶには、あまりにもささやかだ。

 だが、間違いなく、私にとっては奇跡に近い。

 話せばよいのだ、と理性は冷静に答えをはじき出している。順序良く、きっちりと。それをしようと、ずっと考えていたのだから。

 けれど、感情はそれを否定する。どうやって、と問いかけるのだ。

 普通ではない力。普通ではない場所。恐れる心が、言葉にすることで、疑われ、傷つくことを予見させる。

 ふと、煙管に目を落とした。現実に見るとは、思いもよらなかった。だからだろうか、どうしても目が離せなくなった。

「……こちらを、拝見しても?」

 迷いの中で、私は惹かれるままに問いかけた。彼女が頷く。赤い羅宇は、つやつやと輝き、蛍光灯の下でもその美しさが損なわれることはなかった。あの場所で見たものとは、同じだ。けれど、あの時手を触れた感覚とは、まるで違っている。質感や重量感。現実とあの狭間とでは、五感さえつながらない。

 そっと手渡して返すと、彼女は両の手で受け取った。細い指で支えながら、しばし、じっと煙管を見下ろす。そしてゆっくりと一つ、瞬いた後に……すい、と縁側の向こうを見つめた。つられて、私もそちらを見やった。すでに日が沈み、月光の世界へと変わっている。

 庭は、父が趣味で手入れをする。今はまだ、緑の鮮やかな季節で、敷かれた石の道と砂利との対比が、淡い光に浮かび上がって美しかった。

 それはまるで、一瞬の幻のように。

「そういえば」

 唐突に開かれた口。たゆたっていた無言の織り成す雰囲気を、あっけなく消し去った。

 目が、合う。わずかに揺れる、灰色の双眸。

 そこに、光が宿っていた。月の色を、映したかのような光が。

『私』を、捕らえていた。

「以前、名前をお聞きになりましたよね?」

「――」

「桧村万季、と申します」


 これが、はじまりだった。






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