中編
「お加減が、悪いんですか?」
そう話しかけられたのは、春盛る花の季節。この狭間でも、幻想的な花吹雪が、ひらりひらりと舞っていた。
どれだけの話をしただろうか。積んでも積んでも、山は高くならない気がした。
説法のような抽象的で、人の生き死にの哲学。たわいもない花や自然。時折訪れる、行商たちの行く末。実際の食べ物や、外国の話もする。けれど、時代の政治や、世間を騒がすニュースなどの、世事に直結した内容は触れたことがなかった。意識して避けているのか、無意識なのか。会話の内容を振り返るのも、狭間から出た後でしかできない。
身を掻き毟るような苦しみは、一年、二年と経つうちに鎮めることがうまくなった。数えてはいけない、と思いながら、既に出会って十年近い月日が経つと、その顔を見ながら埒もなく浮かんだ。
「いいえ。どうしてですか」
「そうですか? お疲れのように見えますがねぇ。顔色が悪いせいか、五才ほどお年を召したんじゃあ、ありませんか?」
冗談であっても、少々手痛い発言だった。彼女が、全く変わったように見えない分、余計に。
「……まあ、最近忙しいせいかもしれないですね」
「忙しい……偉くなったんですか?」
単純な考えに、ふっと笑いたくなった。仕事量が増えることが、偉くなることと直結するわけではない。ことに、私のような職業では。
「偉くなったから忙しい、のではありませんが……偉くはなったんですよ。坊主にも、階級がありますからね」
「それはおめでとうございます」
「ありがとうございます」
「じゃあ、なぜ忙しいんですか?」
疑問は、そこに行きつくようだ。顔色の悪さを、仕事のせいにしたから。心配されている――気遣いは、時折身に痛い。
「……なかなか、色んなことが上手くいかなくて」
「はい」
「山向こうにある寺が、住職をなくされて廃寺になったんです。それで、こちらの方に檀家さんやご先祖さんを引き継いだのですが。いかんせん、少々遠いですからね」
「……」
「亡くなる直前まで、さまざまなことを精力的にご奉仕する、良い方でした。ご親族の来ない無縁仏さんや、近くの山でなくなって身内も分からないような人たちを、丁寧に弔って。登山の名所がありまして、毎年少なくない御仏が見つかるんですが……月日がたっていると、もうご遺体も……」
はっとなって、私はそこで口をつぐんだ。あの死を告げた顔を、思い出したから。沈めよう、沈めようととしていたせいで、話を聞いた経緯までも忘れていた。つばをのんでから、隣を向く。
彼女は、煙管を燻らせたままだった。そこには、どんな心の片鱗も見られなかった。
「御坊様も、大変ですな」
「ええ。そうかもしれません」
黙り込んだ。不用意に、もう傷つけないように。沈黙は、重くない。煙管の煙が上るのを、ただ見つめるのも、心地いいとさえ感じる時もある。
けれど今は、気まずかった。
ふいに、彼女が立ちあがった。おおい、と声を張り上げる。その先には、まだ青年になりきっていない、少年が歩いていた。金髪で、あっちこっちをはねさせている。
「そっち行ったら、回り道だぞー」
「うっせぇババァ! 俺ん勝手だろうがよ」
「だぁけど、道がなかったら引き帰せねぇぞ! そっでも行くんかい!」
「道ねえだ、なぁであんたが知ってっと!」
「だぁから、止めとけい、言っとるがっ。こんのばぁか餓鬼!」
最後の言葉に、少年は目を丸くした。ぱちぱちを瞬いて――やがて、破顔した。
「わがったぁ! ありがとなあ、ばっちゃん」
そして、違う道を選んだ。それは時折、私に頼まれる仕事だ。送ってほしいと、また戻してほしいと請われて。驚いたままとなりを見上げて、もっと驚いた。そこにいたのは、たしかに「ばっちゃん」と呼ばれるにふさわしい、背の小さな白髪の老婆だった。
今度は私の方が、目を瞬かせ、さらにこすってしまう。
ふっと力を抜いて岩場に座った時、そこにいたのは彼女だった。
「な、んですか、今のは」
「さあ」
「さあ!?」
「でも時々なるんですよ。窓口みたいに使われるっていうか、代弁するっていうか」
ほら、と指差した先に、ほの白い影が空に溶けていくところだった。垣間見えた顔は、確かにあのおばあさんだ。
「憑代、ですか」
「よく知りませんが。こうやってぼうっと座っているだけの私でも、ここでは役に立つみたいですから」
あんまり、力を入れなくていいんじゃないですか? 向けられた小さな微笑みが、そう言っている。
「姿かたちも、結構簡単に変わるんですよ。ここは……確か、狭間っておっしゃいましたよね? 気を楽にして、シャキッとしてたら、五才どころか十才くらい戻るのも、夢じゃありませんね」
私はついに吹き出してしまった。ずいぶんと、久しぶりに。不器用な軽口に――たぶん、照れ隠しも入っている――心はふっと軽くなった。五歳、若返っただろうか。
その時は、たまたま遠くから彼女を見ていた。私の立つ「位置」が、少々彼女から離れていたからだ。それだけだが、そばに行くのに苦労する「位置」だった。
「いよう、久しぶりだな、こわっぱ」
軽く声をかけていたのは、人ならぬ、耳の長い動物。ウサギだ。ただし、大きさは十才の子供ほど。こわっぱ、などと呼ばれても、彼女が不快そうに眉を顰めたりはしなかった。いつも通り、平坦な声音だ。
「ええ。旦那さんも、お元気そうで」
「口ばっかうまくなりやがって。どうよ、最近」
「さあ。変わりなく、恙なく、ですかねぇ」
「その割にゃあ、相変わらずのんべんだらり、として締まらねえな。ちっとそん煙管寄越せよ。磨いてやらぁ」
背中の荷を下ろし、ウサギはお店を広げた。だまって彼女は煙管を渡す。あれこれと作業をしながら、とりとめのない会話が続いた。
最後に、きゅきゅ、と布で全体を磨き上げて、綺麗になった煙管を渡す。あちこちを検分してから、彼女はウサギに笑みを向けた。ウサギも、ニヤッと笑ったような顔になる。
「ま、せいぜい精進しろ。来年の夏にゃあ、あんたも祭りに加われるかもしれん」
「ありがたいお話ですな」
「じゃ、俺ぁ、これでな」
その時、私は信じられなかった。
ウサギの手――前足、かもしれない――が、ぽん、と軽くその腕を叩いたのが。
少しずつ、少しずつ距離が近くなる。磨いたばかりの煙管から、今日も紫煙が上った。ふと顔を上げた彼女と、目が合った。
「こんにちは、御坊様」
「……ええ。こんにちは」
私としては、ひと月会えなかったのだから、久しぶり、が正しい気持ちだった。だが挨拶は決まっているように、こんにちは、を交わす。朝や夜は、この世界に存在しない。
「ウサギと、話をしていましたね」
「ああ。人もいいが、腕もいい。口ぁ、悪いのがちょいと……っと、うつりました。あの人と話すといつもこうです。どうも耳に残るというか」
「なんだか新鮮ですね。いつもの話し方も、独特だと前から思っていましたが」
「そうですか。たぶん、ここにいる時だけですな。これもうつったんですよ。前にいたでしょう? 獺です。あのおしゃべりには、閉口しました。間延びしてるくせに、しゃべるしゃべる。延々聞いていて、起きたら病院です。二度と聞くものかと思っていましたが……それっきりですな」
饒舌なのは、ではあのウサギのせいだろうか。紫煙を揺らすのは、いつも通り。だが今日は、その煙管から目が離せなかった。
隣に腰を下ろす。普段よりも近く。目を閉じる。さわさわと風の音が聞こえるばかり。気配は、ない。伝わってくる熱もなく、息する音もない。
「前から思っていたのですが、美しい煙管ですね」
「ああ。嬉しいお言葉ですね」
「拝見しても?」
手を広げると、すい、と差し出されて、細い管の部分をつまむように持った。
そして。
顔を上げた時に、そこに彼女はいなかった。
それから、一週間たっても、ひと月経っても、一年の時が流れても、狭間の世界で彼女に会うことはなかった。
夢を見ていると、良くわかっていた。
背中を見せる男を、追いかける。大きな荷が、男の背を覆っていた。赤いリュック。登山靴で、ザクザクと土を踏みしめながら、進んでいく。見失わないように、その後ろ姿を追いかける。どこまでも。どこまでも。
不意に、前を行く男が止まった。振り返って、何事かを叫ぶ。
聞こえなかった。それでも、男ははっきりとわかる笑顔になった。
――わかっていた。それは、いわば予兆。
予知夢ともいえる、前触れ。
目覚めた後、鳴り響いた電話の音に、私はしばし取るのをためらった。結局、鳴りやまぬ音に根負けして、受話器を取った。
警察からの電話も、それほど珍しいことではない。ただ、ずいぶんと遠い場所からかけてきたのが、意外だった。
用件はシンプルだった。以前、廃寺になった山向こうの住職が、行っていた活動の一つに、遺体のない遭難者の供養事業があった。誰に頼まれて、というのではなく、月日がたっても見つからなかった人たちの、発見された道具などを弔う。それはいわば、生きている人間のための区切りだ。
そのうちの一つの、片割れのような部品とともに、白骨が見つかったという。確認の意味もあり、持ってきてもらえないか、という問い合わせだった。
日時を聞き、予定と照らし合わせて調整をする。二時間ほどかかる山向こうまで、出向くことになった。
予感は、それからずっと胸にあった。
訪れた狭間で、長い間見かけなかったその姿を認めた時にも。
珍しく、彼女は煙管を吸ってはいなかった。どこか遠くを見たまま、その細い管を持っていた。煙管が彼女の手にあることに、取り立てて疑問は覚えなかった。
「お久しぶりです」
いつもは向こうから挨拶がされるのに、今日に限って彼女は黙ったままだ。戸惑いを浮かべて、私を見上げた。そういえば、立ったままなのも珍しい。身長差が、十センチほどだったのを、初めて知った。
「あなたは、会えるかもしれません……もう一度」
あえて、誰に、とは告げなかった。え、と首をかしげるその人の、頬をかすめるように手を伸ばす。
「だから、ここに来てください。この、狭間の世界に。お願いします。会えないのは……とても辛い」
触れたと思った指先は、やっぱり熱を感じないままだった。
広げられた遺品。ほとんどは、土にまみれ、風化が激しかった。リュック、テント、縄のついた金具。食料などはとうに腐りはて、洗ったはずの入れ物からは、まだ異臭がしていた。
私の持って行ったものは、変わった形をしたゴーグルだった。ただし、ほぼ真っ二つに割れている。今回山で見つかった道具の一つと、見事に一致した。
ゴーグルにより、弔われたのは、須藤進士。彼は一年前、春先に登頂し、そして季節外れの雪崩に巻き込まれて、遭難した。当初より、生存は絶望視されていた。そして、その体が見つかることも。
なだれた場所より、はるか下方で、須藤進士は発見された。
運がいい。そう、誰もが思っているだろう。
遺品を前に、泣き崩れているのは母親だ。その背を、支えているのは、姉。そこから、少し離れた場所に。
彼女が、いた。
その姿も、顔も、狭間で見ていたひとと、全く変わりなかった。
目に涙はなかった。ただ、いつも通り淡々としている。警察との事後交渉や、今後の予定などを立てているのだろう。
けれど。
私には、そのグレイの瞳の下に、揺れる感情が透けて見える気がした。説明を受ける彼女が、警官から示された方向を見た。私が、その先にいた。おそらくは、遺品を持ってきた人間だと言われたのだろう。
双眸が、私を捉えた。
目が合ったのは、一秒にも満たない。
ゆっくりと目礼をしてから、彼女は再び警官の方へ向き直った。
忘れては、いけなかった。
あの場所は、狭間であると。
淀みのようにあいまいで、雪原のように静かな世界。
いかなる時を重ねようと、「共に有る」ことは、かなわない世界だと。




