前編
狭間、というものを、知っているだろうか。
行き交い、通り過ぎ、留まり。流れの創る、淀みのようにあいまいで、平原のように静まっている。
誰も知らない場所にあり、誰もが必ず通る場所。
たとえ酒を酌み交わそうと、同じ時を過ごそうと、決して共有することのできないところ。
そこにいるのは人でない、ありとあらゆるモノたちである。
「待ち人ですか」
「ええ。今日は、少々厄介な待ち人、です」
なるほど、と微笑んだのはその人の隣に、腰を下ろす。岩場の上で、手を付いたまま、のんびりと煙管をふかす人は、相変わらずだった。
「待ち人は、多いんですか?」
「今回は一人ですよ」
「それなのに、厄介?」
「ええ。ちょっと言うことを訊いてくれそうにないんです」
「だったら、それでもいいんじゃありませんか? 皆が皆、同じ道を行きたいわけじゃない」
「そうかも知れません。ですが、今回はまだ、行くべき道は全く違う場所にある人ですから」
「……生きるべき、という訳ですね」
無言でうなずくと、それ以上の言葉は重ねられない。だが独り言のように、私は続けていた。
「生ある者なら、その道を精いっぱい生きてから、こちらに来てほしいのです。何人も、何人もいましたから。引き帰したくて、迷ってしまう人たちを」
「……」
「本人の意思を、という考えもあります。ですが、それが間違っていないと、どうして言えるでしょう。ほかの可能性があると、どうして言い切れないのでしょうか。私には……言えません。好きにしろ、などとは」
「……」
紫煙が揺れた。赤い煙管。目の前に掲げられて、すい、と動かされる。その先にいたのは、まだ若い金髪の男性だ。流石に、よくわかっている。立ち上がって、つい癖で作務衣を払う仕草をしてしまう。なにも付いていない。付くわけないと知っているのに、習慣は無意識に同じことをしてしまう。
「説教臭くてすみません。あなたには何の関係もないのに」
「構いませんよ。有意義だと思ってます」
「そんな。癖みたいなものです」
いいんじゃないですか、とその人はどこまでも平坦に言う。感情が見えないのではない。声は、優しい。そう感じずにはいられない。声色ではなく、告げられる言葉が、なによりも丁寧に選ばれているから。
「あなたの仕事でしょう、御坊様。『教えを説く』――先人の教えは、人を救ってくれると信じているんでしょう?」
「なんとも……これこそ、説教を聞いた気分です」
「それはいい。坊さんに説教する機会は、あまりありませんからな」
笑ったように揺れながら、煙がかって消えていったその人が戻れたことを安堵する。私は示されたあの若者に向かって、近づいて行った。
その人に出会ったのは、まだ私が二十代のころだ。
「にん、げんっ……」
驚きで、のどに息が詰まった。何気なく通り過ぎようとした、岩の横。その上に、茫洋と座ってキセルをふかしていたのは、間違いなく人だった。
「まあ、人間ですわな」
大して動じた様子もない。普通は混乱したり、パニックになっている人が多いが、全くそんな素振りはなかった。年は多分、いくつか上だろう。二十七か、八か。三十になってない気がする。髪の長い、女。眼鏡をかけている。
「どうしてこんなところに……」
「さあ、どうしてでしょうな。知らんので、答えようがありません」
どうにも呑気だ。それに、しゃべり方がなんとなく変だし、ふかしているのは今どき煙草でもなければ葉巻でもなく、煙管だ。なに時代だよ、と訊きたいが、来ている服はジーンズにポロシャツ。シンプルだ。
「あんた、大丈夫なのか?」
「なにがです?」
「こんなところにいて、大丈夫なのかって訊いてんだ。ここは――」
言葉が、言いさしで途切れた。上手く説明できるほど、こちらも詳しいわけじゃない。
「ここは、普通じゃないだろ」
結局あいまいに逃げた。これじゃあ、何の説得力もない。が、相手はふっと笑った。
「たしかに、普通ではありませんな。でもまあ、今日のところはお気になさらず。行きなされ」
なんだそりゃ、と思いながら、結局はそれ以上構わずに通り過ぎた。台詞なんて、ほとんど耳に入っていなかった。それを後悔できるほど、記憶の端にすらとどめなかった。最初の出会いをしっかり覚えておけばよかった、と思ったのは――もっと後になってから。
二度目に出会った時も、似たような場所に座っていた。苔むした、岩の上。煙管を燻らしながら。
はあ、とため息が出る。
「あんた、いいのかよ」
「はあ?」
顔が上がった。準日本人の顔立ち。ハーフか、それともクオーター的な?
「こんなとこにいて、いいのかってんだよ。言っとくけど、ここは人間が長くいられない場所だ」
「……よく御存じですな」
「つか、その口ぶりだと、アンタだって全く無知ってわけじゃなさそうだけど」
「一応、経験がありますから」
「経験?」
「ええ。七日ほど寝倒したらしく、病院に担ぎ込まれました」
「死ぬよね、それって」
「はあ。でも、死人じゃありません」
「見りゃ分かるよ」
「それは、奇特な人ですな」
他人のこと言えないだろ、とは心の中でつぶやいた。試しに同じ岩に腰かけてみる。以外にも、ごつごつした感触より、柔らかい苔が当たるため、痛くなかった。
目の前に広がっているのは、現実よりも小説やおとぎ話に近い風景だ。
霧がかった川辺。野の花が色とりどりにさき、穏やかな空気を醸している。細い川は、このあたりだけで何度も蛇行している。浅い川は、足首よりも少し深いだけ。落ちたことがあるから知っている。
そこここで、釣りや川遊びを楽しむ影がある。ここが現実じゃないって証拠の一つ――そいつら全員、人間じゃない。二足歩行のカワウソ、明らかに大きすぎる猫、着流しを着てほっかむりした犬。動物に譬えられるのはましな方で。おっかない顔もしてないけど、明らかにオニとしか表現しようのない連中もいる。
人間はいない。ここに常時いるのは、絶対に人間ではない。
なぜなら、ここは人の世から外れた、狭間の世界だから。
誰がそう呼んだのか。誰がそう呼ぶのか。
とにかく、名のない世界は、俺みたいなちょっと特殊な人間に、狭間と呼ばれる場所だった。
そこはいつでも穏やかだ。争いはない。苦しみもない。楽しげに遊ぶ影があるだけ。時々、行商がやってきて、魚やら握り飯やら、食い物を売っていく。買ったことはない。ここで、腹は空かないから。
「帰らなくて、よろしいので?」
「別に今日は急いでるわけじゃない。あんたこそいいのか」
俺はちょっとばかし「力」みたいなのを持っている。そのおかげで幽霊は見えるし、森の中で動物以外のヤツと話すこともできる。気心知れた犬猫なら、ちょっとした意思疎通が可能。ついでに、こんな変な場所を通ってあらぬ場所から場所へ移動も出来る。この前は、その途中だった。
「いいのか、と訊かれましても。残念ながら、自分の意思で行ったり来たりしてるわけでもないので」
「あー。それってまずくないの?」
いきなり目の前で消えたりしたら、騒ぎになるだろう。仕事とか大丈夫なのか?
「いえ。言葉が足りませんでした。ここに来るのは、必ず眠った後です。最初はただの夢だと思ってました。病院に行く羽目になってからは、さすがに違うのだと悟りましたが」
いわゆる、魂だけってやつね。じゃあ触れないな。
別に透けちゃいない。が、すぐ近くにあった手に、そっと掠めるように指を動かしても、何の感触もしない。ついでに、そばに座っていても、体温も息遣いも感じない。人間だけど、そこだけが少し違う。
「仕事は、自宅で一人が基本なので。大して迷惑にはなりませんな」
「むしろ一人だとまずいんじゃない?」
「いえ。病院で『一回寝ると起きない病』みたいな診断されてからは、三日に一回電話がかかってくるようになったんで。あと、携帯に五日以上触らない時は、警告メールが飛ぶように設定されてます」
そんな変な病気ってあるんだ、と俺は妙なところで感心した。まあ、迷惑っちゃ迷惑なんですが。とその人は締めながら、ちら、とこちらに目線を寄越す。
「お時間のようですねえ」
その通り。頭の中で、俺を呼ぶ声がこだましている。大きくなる。そして、引っ張られる。
「――き、輝秋、てーるーあーき!」
「うるっさい、聞こえてる!」
「なんだよ。二時になったら呼べっつったの、おまえだろ」
部屋のドアを開けると、腐れ縁の孝敏が不機嫌そうに立っていた。手には高そうな和菓子を持っている。大方、母さんが檀家さんにもらったものを、こいつに出したんだろう。前から孝敏に、母親は甘い。
「なにしてたんだよ、一体」
「……」
幼馴染だけあって、こいつはおれの妙な力を知っている。ついでに、そういう物を見えなくても使えなくても、否定したりせず、ある程度理解してくれる。
だからと言って、今のことを説明できるかと迫られたら――答えは、ノーだ。
「ちょっと野暮用」
「あっそ。おばさん呼んでたぞ。仕事があるって。親父さん、良くならないのか?」
倒れた親父の代わりに、今はなんとか未熟な俺が、この奥まった田舎にある山寺の業務を引き継いでいる。別に病気になったんじゃない。ただのぎっくり腰だ。悲鳴を聞いたときは、何事かと思ったけどな。
手を見ていた。掠めたはずの指先を。あの人は人間だ。人間だから……だから、なんだってンだよ?
「輝秋?」
「なんでもね。行くわ」
作務衣をはらってしわを伸ばしてから、俺は階段を下りて行った。
狭間で、何度も会った。会話だけが思い出の、些細な記憶。積み重ねて積み重ねて。一年、二年。狭間に行って、必ず見かけるわけでもなかった。留まることを、許さない時もあった。それでも、出会いは重なっていく。
どこから来たのか、名前は何と言うのか。そんな一番最初に訊くような、自己紹介を求めたのは、出会って数年もたってから。週に一度から、月に二、三度の割合で顔を会せていたのにも拘らず、聞けずじまいで過ごしていた。どんなに時を重ねても、変わらないその人がいたせいかもしれない。とっくに、こちらは俺から私に変貌し、無鉄砲よりは慎重さを、勢いよりは綿密さを求められるようになっていた。
煙管を揺らす姿は、いつも変わらない。
「名前、ですか」
「ええ。名前です」
呆然とするのは珍しかった。眼鏡の奥が丸くなると、黒ではなくグレーの虹彩だったのだと気付いた。困ったように額に手を当てる。
「すみませんがその……わからない、ですね」
「わからない。では、どちらにお住まいですか?」
「それもちょっと……思い出せません」
「そうですか」
ここは、夢の世界でもある。忘れてしまうことが、ないわけではない。しかし肩が落ちるのを止められなかった。
「ご自分のことは、全く?」
「いえ。友人がいたことや、これからしなきゃならないことは山積みなのは、分かっています。今は……寝ていて、たぶん、半分現実逃避のように夢を見ていることも。ただ、固有名詞というか。自分の名前とか、職業みたいな細かいプロフィールの部分と、町名などのことになると、さっぱりです」
「だから、現実逃避だと?」
「そうですね」
固い口調が、なにか逃げざるを得なかった深刻な事態が起こったのだと、告げていた。聞きだすことは、不可能だろう。
「思い出はあるんです。故郷を考えると、山が見えます。緑で……勢いのある、美しい緑です。よく知っている気がします。きっと案内もできますよ。お好きですか?」
「山が、ですか? そうですね。私の寺は、山に囲まれた場所にあるので、好きかと訊かれれば、好きですよ」
「それほど標高は高くありません。ちょっとしたハイキングですね」
「それなら、気軽でかけられますね」
「ええ。友人に一人、自然に詳しい人間がいますから、予定が合えば……」
ふっと真顔になって、饒舌だった言葉が途切れた。クルリ、と一度煙管をもてあそんでから、申し訳ありません、と謝った。
「忘れていました。そいつは……もう、いません。高い山を登りに行って――死にました」
これほど苦しい『死』の告白は、久しぶりだった。
死を告げる時、苦しみを伴うのはどんなときか。
愛する人がなくなったときか。突然、逝ってしまったときか。いついかなる時も、別れは苦しい。
だが、納得のできないことを、受け入れざるを得ない時が、おそらく一番苦しい。
山で友人が死んだ、と彼女は言った。おそらく遭難し、その体は山に呑まれてしまったのだ。人の手の及ばぬ、広大な自然の中で、土に還っていく。
また静かに前を向いて、煙管を吸う人の、名を呼べないことが――辛かった。手を伸ばそうと、触れられないことが――歯がゆかった。
夢だ。彼女にとって、そこは夢の中。
ならば、私にとっては?
現実? それとも幻?
だが、縁側に夏の日差しを浴びながら、庭の景色を眺めれば、あの場所が決して「現」であるなどとは言えなかった。あの場所は、五感のすべてがあいまいだ。だからこそ、苦しみは遠のき、緩やかで穏やかな場所になる。
「輝秋、写真見る?」
「悪いな、わざわざ」
「いいって、どうせ全部ついでだから」
「その台詞は余計だな」
変わらぬやり取りをしながらも、孝敏は結婚し、二歳の娘を溺愛する父親になっている。プリントを頼んだ写真を受け取り、ぱらぱらとめくっていく。父はそろそろ、引退を考えているという。つまりは私に、この寺を譲りたいのだ。写真の顔は、少し老けたな、と思わずにいられない。
「結婚、しないのかよ?」
見合いの写真を孝敏にも見せたな、と母の圧力を感じる。寺を継ぐ前に、家庭を持ってほしいのが、親心らしいが。
「したくない、わけじゃない」
「でも見合いは駄目なのか?」
「……そうだな」
「別に付き合っている女が、住職駄目っていう理由じゃあ、なさそうだけど」
「ちょっと待て。お前の中の俺は、いつ彼女持ちになったんだ」
つい昔の口調に戻ると、にやっと孝敏の方も若い頃よく浮かべた、意地の悪い笑みを作った。
「いやぁ。モテないわけじゃないのに、女のうわさがないのは、家の事情が絡んだ諸々があるのかと」
「そんなのはない。というか、相手はいないぞ」
「あれ、違った? お前、時々あらぬ方見ながら妄想してるから、てっきり彼女で遊んでんのかと、」
「それ以上、言うなよ」
不快さに、気分と機嫌が最低になった。孝敏の目が丸くなった。呆気にとられたように瞬いてから、存外こちらの様子が深刻だと悟ったらしい。すまん、と両手を切った。
わかっている。孝敏は、いつもの軽口を言っただけだ。過剰に反応したのは、こちら。
わかっている。怒りがわいたのは、的を射た部分があったからだと。
死を告げた彼女の横顔が、何度振り払っても消えない幻になった。苦しみを抑え込んで、平然と、飄々としながら、決して表に出ない感情を想う。
助けになりたいと、手を伸ばしたいと、救ってやりたいと。
そう、願うように思うのに。
抱き潰したいと。閉じ込めたいと。逃げないように、繋げておきたいと。
あらぬことを、考える己もいて。
――手を伸ばしたところで、決して届かないと知りながら。
俺はもう、ずっと。
苦しんでいる。




