『ドアマットヒロインは愛され経験値が足りません』
「アデライン・クローゼット伯爵令嬢。お前との婚約を、今ここで破棄する!」
王立貴族学院の卒業記念パーティー。
きらびやかなシャンデリアの下、第一王子エドワードの声が大広間に響いた。
その腕には、男爵令嬢のマリアが寄り添っている。潤んだ瞳でアデラインを見上げる姿は、まるで怯えた小動物のようだった。
「お前のような、従順さしか取り柄のない地味な女は王太子妃にふさわしくない! マリアに陰湿な嫌がらせをしていたことも、すべて明らかになっている。国外追放のうえ、北のヴァレンタイン公爵に身柄を預ける!」
「そんな……殿下、お許しくださいませ」と、アデラインが泣き崩れる。
エドワードは、そうなることを期待していた。
けれど、彼女の口から出たのは、か細い悲鳴ではなかった。
「……えっ。よろしいのですか?」
「何?」
「国外追放ということは、もう朝四時に起きて、殿下の課題を代筆しなくてもよいのですか?」
エドワードが眉をひそめる。アデラインは、思いついたように手を合わせた。
「マリア様に紅茶をこぼされたドレスも、自分で染み抜きしなくてよろしいのですね? それに、ヴァレンタイン公爵様は『不要な相手とは口をきかない』と伺っています。つまり、理不尽に怒鳴られることもなく、静かに放っておいていただけるのでは……?」
彼女の顔が、ぱっと明るくなった。
「天国です!」
「お、お前は何を言っている……?」
アデラインは、幼いころから実家で「家のために役立て」「お前の望みなど聞いていない」と言われて育った。エドワードにとっても、彼女は婚約者というより便利な雑用係だった。
だから彼女の「幸せの基準」は、いつしか地の底まで下がっていた。
怒鳴られない。仕事を押しつけられない。ひとりで静かに過ごせる。
それだけで、十分に恵まれた暮らしだと思っていたのだ。
「殿下、寛大なご処置に感謝いたします。公爵領の寒さに備えて、さっそく荷造りをいたしますわ!」
アデラインは深々と礼をすると、迷いなく大広間をあとにした。
残されたエドワードとマリア、そして集まった貴族たちは、あっけにとられたまま彼女の背を見送った。
◇◇◇
数日後。
アデラインを乗せた馬車は、万年雪に覆われた北の公爵領へたどり着いた。
居城の前で彼女を迎えたのは、当主のルーカス・ヴァレンタイン公爵だった。戦場で武功を挙げ、若くして爵位を継いだ男。冷徹な美貌と鋭い銀灰色の瞳から、社交界では「氷結公爵」と恐れられている。
(王家から押しつけられた令嬢か。怯えて泣き叫ぶようなら、離れに置くしかないな)
そんなことを考えながら彼が目を向けると、アデラインはその場に膝をついた。
「初めまして、公爵閣下。アデラインと申します! 皆様のお手を煩わせぬよう、食事はパンの耳を一日一度、寝床は馬小屋の藁で十分です。薪割りでも掃除でも、何でもお申しつけください!」
ルーカスは、返す言葉を失った。
目の前の令嬢はひどく痩せていて、ドレスもくたびれている。けれど、顔を上げた瞳には「ここで生き延びる」という決意が宿っていた。
「……立ちなさい。我が領民にさえ、そのような扱いはせん」
「では、屋根のある納屋をお借りできるのですか? ありがとうございます!」
「違う。お前の部屋は本館の客室だ。日当たりのよい部屋を用意させている。侍女もつけよう」
「日当たりのよい部屋……? あとで法外な請求をされるのでしょうか。それとも、奴隷鉱山に売られる前の準備ですか?」
「なぜそうなる!」
ルーカスは深く息をつき、食事を運ばせた。湯気の立つシチューに、焼きたての白パン、柔らかなローストビーフ。アデラインはしばらくそれを見つめ、ためらいがちにスプーンを手に取った。
ひと口食べると、彼女の頬を涙が伝った。
「どうした。口に合わなかったか?」
「いいえ……温かいんです。氷の入っていないスープを飲んだのは、初めてで……」
ルーカスは、何も言えなかった。
その日の夜、彼は情報部に命じた。
「クローゼット伯爵家と第一王子の身辺を調べろ。アデライン嬢が王都でどんな扱いを受けていたのか、すべてだ」
◇◇◇
公爵城での暮らしは、アデラインにとって驚きの連続だった。
侍女たちは毎朝、色とりどりのドレスを並べて尋ねてくる。
「アデライン様、本日はどちらをお召しになりますか?」
「こんなに美しい服を着たら、皮膚がただれてしまいませんか?」
「そんなことにはなりませんよ。さあ、こちらをお試しください」
料理長は食卓に肉料理を並べ、「もっと食べてください」と勧める。庭師は、彼女が庭を散歩したと聞くと、咲いたばかりの冬薔薇を届けてくれた。
誰も彼女に、働けとも、謝れとも言わない。
そのことが、かえって不思議だった。
ルーカスもまた、思っていたよりずっと頻繁に彼女のもとへやって来た。
「アデライン、紅茶を淹れてくれないか」
「はい。塩味がよろしいですか? それとも泥水でしょうか?」
「普通の紅茶を頼む。……それと、これを」
彼が差し出した小箱には、銀細工のネックレスが入っていた。
「わたくしに、ですか?」
「ああ。似合うと思った」
「重いです……! 首を絞めて暗殺するおつもりですか?」
「なぜ贈り物が暗殺になるんだ!」
ルーカスは頭を抱えた。
やがて、情報部から報告が届いた。アデラインは実家で家族の不満のはけ口にされ、エドワードの雑務まで押しつけられていたという。マリアから嫌がらせを受けても、訴える相手がいなかった。
報告書を読み終えたルーカスは、紙を握りしめた。怒りに任せて暖炉へ投げ込みかけ、寸前で手を止める。
彼女のことを、彼女のいないところで決めつけてはいけない。
そう思い直し、まずは本人に尋ねることにした。
「アデライン。少し、話をしてもいいか」
「はい。何か粗相をいたしましたか?」
「違う。……私が近くにいると、怖いか?」
アデラインは、すぐには答えなかった。
少しして、ためらいがちに口を開く。
「怒鳴られるのかと思うことはあります。でも、ルーカス様は怒鳴りません。だから……まだ、どうしていいかわからないのです」
ルーカスは、彼女に手を伸ばしかけて止めた。
「頭を撫でてもいいか?」
アデラインは驚いたように瞬きをし、それから小さくうなずいた。
「お前は何も悪くない。ここでは、何かを我慢して居場所を得る必要はないんだ」
ルーカスの手が、そっと彼女の髪に触れる。
殴られるのではないかと身をすくめた彼女は、しばらくして、その手がただ優しく撫でているのだと気づいた。
「今まで、よく耐えたな」
「閣下……」
「これからは、好きなだけ笑って、好きなものを食べて、安心して眠ればいい。お前を傷つけた者たちのことは、こちらで調べる」
アデラインの目に、涙が浮かんだ。
それは、今までのような恐怖の涙ではなかった。
胸の奥に、小さな灯がともったような気がした。
(これが……大切にされるということなの?)
うれしいのに、戸惑う。温かいのに、少し怖い。
彼女の心はまだ、受け取った優しさをどうしまえばいいのかわからなかった。
けれど、その日からアデラインは、食事を残さず食べるようになった。ドレスを着るときも、以前ほど怯えなくなった。ときには、自分から庭師に「この薔薇、とてもきれいですね」と伝えることもあった。
そのたびに、城の人々はひそかに喜んだ。
◇◇◇
半年後、王都から一通の手紙が届いた。差出人はエドワードだった。
「お前の罪を許してやる。王都へ戻ってこい」
手紙を読んだルーカスは、眉ひとつ動かさなかった。
アデラインが去ったあと、エドワードは彼女に任せきりだった政務や外交文書を放置した。隣国から抗議が届き、王宮は対応に追われているという。
マリアもまた、王室費を浪費したうえ、他国の者との密通が発覚した。窮地に陥ったエドワードは、アデラインを呼び戻して、再び面倒事を押しつけようとしているらしい。
「アデライン。王都へ戻りたいか?」
「いいえ。少しも」
彼女は、ためらわずに答えた。
以前なら、エドワードの手紙を読んだだけで、自分が悪かったのかもしれないと思っただろう。けれど今は違う。食卓に並ぶ温かな料理も、侍女たちとの穏やかな会話も、ルーカスの不器用な気遣いも知っている。
そして、自分があの人たちのために我慢し続ける必要はないのだと、少しずつわかってきた。
「私には、毎日おいしい食事をくださって、頭を撫でてくださるルーカス様がいますもの。元婚約者の顔を、もう一度見る必要はございません」
ルーカスは一瞬、目を見開いた。やがて、何か言いかけて口を閉じ、耳まで赤くなる。
「……そうか。ならば、王都にはそう伝えよう」
「はい。よろしくお願いいたします」
「ただし、手紙の内容は見過ごせない。国王陛下にも知らせる」
ルーカスは国王直通の通信魔導具を起動した。
「陛下。第一王子から、我が婚約者アデラインに戻るよう求める書状が届きました。彼女を一方的に追放しておきながら、今になって呼び戻そうとするのは、あまりに身勝手です」
通信の向こうで、国王が慌てた声を上げる。
「ヴァレンタイン公、まずは話し合いを――」
「話し合いは、王都での調査結果を確認したあとで結構です。それまで、我が領からの魔導鉱石と食糧の供給を停止します」
「待て、ルーカス!」
ルーカスは通信を切った。
◇◇◇
その後、王都では調査が進められた。
エドワードは政務の放置や王族としての不適切な行為を問われ、第一王子の座を失った。マリアは他国への情報漏洩が明らかになり、国家反逆の罪で投獄された。
クローゼット伯爵家にも、長年の不正蓄財と令嬢への虐待があった。家は取り潰され、家族は爵位と財産を失った。
護送されるエドワードが、「アデライン! 戻ってきて、僕を助けてくれ!」と叫んだという話は、北の城にも届いた。
アデラインはそれを聞いて、しばらく黙っていた。
「……昔の私なら、助けに行こうとしたでしょうか」
「そうかもしれないな」
ルーカスは、彼女の返事を急かさなかった。
「でも、今は行きません。私が助けたら、また同じことになりますから」
そう言って、アデラインは温かな紅茶をひと口飲んだ。
もう、その手は震えていなかった。
◇◇◇
冬の夜。暖炉の火が、サロンを柔らかく照らしていた。
ルーカスはアデラインの前に跪き、小箱を開いた。中には、白銀の指輪が収められている。
「アデライン。私の妻になってほしい」
彼は少しだけ息を整え、まっすぐ彼女を見つめた。
「これからも、お前を大切にする。世界で一番幸せにすると誓う」
アデラインは指輪を見つめ、それからルーカスの顔を見た。
以前の彼女なら、「私でよろしいのですか」「何かの罠ではありませんか」と尋ねていたかもしれない。けれど今は、胸に広がる喜びをそのまま言葉にできた。
「はい。喜んで!」
彼女は笑った。
「でも、ルーカス様。これ以上幸せになったら、私の許容量がいっぱいになってしまいそうです」
「なら、少しずつ広げていこう。毎日ひとつずつ、お前に幸せを覚えてもらう」
「毎日ひとつですか?」
「毎日だ」
ルーカスが指輪をはめる。アデラインはその手を取り、指輪の輝きを眺めた。
愛されることを知らなかった彼女は、北の果てで少しずつ、それを受け取ることを覚えていった。
そしていつか、幸せを疑わずに笑えるようになる。
その隣には、彼女を大切にすると誓った氷結公爵がいた。




