第8章:平和が崩れ落ちる前に
部屋は広大だった――広く、しかし重苦しい静寂に包まれ、ひと呼吸ごとにその重さが絡みつく。頭上の木梁には影がしがみつくように残り、空気の圧に耐えかねて逃げ場を探しているかのようだった。滑らかで傷ひとつない畳の床には、吊るされた灯籠の金色の光が淡く映り込んでいる。広間の奥には、祖先の書が記された巻物と、ハンゾウ一族の誇り高き紋章が壁を飾っていた――それは代々受け継がれてきた支配と鉄の規律の証だった。
低い会議卓の中央に座していたのは、領主ハンゾウ――リョウマの父である。
背筋は真っ直ぐで、微動だにしない。片手をもう一方に重ね、静かに置かれているが、その沈黙すら圧倒的な存在感を放っていた。視線は伏せられている。しかし、それを柔らかさと誤解する者はいない。否――その沈黙は、いかなる叱責よりも雄弁であり、その佇まいは空気すら重く感じさせた。
静水の下に潜む嵐。
彼を囲むように、半円を描いて一族の長老たち、上級将軍、そして二名の政務顧問が座していた。王国の二人の近衛司令官のうち、ここにいるのは一人だけ――もう一人、雷光の司令官ライコウは、黒谷の密林にて遠征任務を遂行中である。空いたその席は、誰も座らぬまま、かえって冷たく感じられた。他の者たちは席の後ろに静かに立つか、わずかに頭を垂れ――規律と恐怖の狭間に囚われていた。
誰も口を開かない。
誰一人として、開けるはずもなかった。
この沈黙は礼儀ではない。
それは恐怖であり、畏敬であり、血に濡れた戦場を幾度も越え、微笑みの裏に潜む裏切りを見抜いてきた男だけが放てる圧だった。
(長老・内心) 「……この御方の存在だけで、弱き者は押し潰される……」
誇張ではなかった。全員が、それを肌で感じていた。
やがて、ハンゾウの瞳がゆっくりと持ち上がる。
その瞬間、部屋全体が身構えたかのように張り詰めた。
だが――彼はまだ語らない。
まるで、この広間そのものが、嵐の言葉を待ち、息を止めているかのようだった。
天照街高評議会の大広間。その空気は、戦略を練る場というより、息を奪う深淵に近かった。香炉の灯りは淡く揺らいでいたが、肩にのしかかる重圧を和らげるにはあまりに弱い。磨き上げられた木造建築、伝統的な和の造り――本来は神聖なる裁きを下す場であるはずが、今は清算の神殿と化していた。
ハンゾウの前に立つ者たちは、誰一人として凡人ではない。
それでも全員が、わずかに頭を垂れ、背を強張らせ、呼吸を整えていた。
敬意だけではない。
恐怖ゆえに。
誰もハンゾウの視線を正面から受け止めようとはしない。その存在が放つ支配の圧はあまりにも強大だった。影のようなオーラが床を這い、墨を流したかのように部屋の輪郭を歪める。黒く、静かに光るその瞳は、言葉よりも深く人を射抜いた。空気そのものが、抑え込まれた力に震えていた。
(長老・沈黙の思考) 「……もし“力”に声があるとしたら――それは沈黙だ。今、この沈黙のように……」
列の先頭に立つのは、第一長老・月原玄明。
“静月の賢者”の名で知られる人物だ。重なり合う法衣を纏い、落葉のように静かな威厳を漂わせていた。
その隣には、第二長老・猪神清子。
“神牙の巫女”。かつて北方の荒野を震え上がらせた狩人巫女である。抑えられてはいるが、その気配には熟練の戦士の本能が脈打っていた。
第三長老・伏見連暁。
“蓮智の翁”。策士の静けさを纏い、腕を組み、卓上の巻物に視線を落としながらも、ハンゾウの指先のわずかな動きすら見逃さない。
四人目――大金凛子。
“風渡りの巫女”。部族を渡り歩く使者であり、世界を繋ぐ存在。しかし今、この場では風さえも彼女の周囲で息を潜めていた。
その背後には、第二近衛司令官・沢渡剣心。
“流麗の剣”。長髪を整え、背筋を正しながらも、拳には緊張が走っていた。かつて訓練でハンゾウと刃を交え、生き延びた数少ない男――だが、今日の彼も沈黙していた。
さらに、天照街四支部を率いる四将――
星垣五郎、“鉄壁の熊”。
腕を組み、山が地震を抑え込むかのような呼吸。
源陸、“嵐鷲”。
急降下する鷹のような鋭い眼差し。
橘俊、“影断ち”。
気配すら希薄で、音なき死を司る者。
鏡蓮、“炎牙”。
外套の縁が、戦の残り火を宿すかのように微かに揺れていた。
そして、二人の政務顧問――
御門哲也、“千眼の智”。
扇を半ば掲げ、思考を隠すかのように。
来栖綾女、“氷狐”。
表情は読めぬが、袖の内で手がわずかに震えていた。
彼らは一つにまとまっていた。
だが、その心は静かに揺れていた。
この瞬間、影色のオーラが嵐のように溜まり、ハンゾウの静かな視線が前方を射抜く中、全員の脳裏に同じ思いがよぎる。
――もし、この男が大陸全土を治めようと望んだなら……
――我々は、理由を問う前に滅んでいただろう。
ハンゾウは玉座のような椅子に座したまま、影のオーラを微かに揺らしていた。沈黙は窒息するほど重く、誰も長くその瞳を見つめることはできない。
やがて、右手に座す第一長老・月原玄明――静月の賢者が、わずかに頭を下げ、外交的な微笑を浮かべた。
「殿下、この度のお子の御誕生、誠におめでとうございます」
ハンゾウの視線は前を向いたまま、低く抑えた声が返る。
「……構わぬ」
沈黙が、さらに重く沈殿した。
オーラは一瞬弱まったが、不安はむしろ増していく。
玄明は言葉を選びながら、慎重に続けた。
「しかし……恐れながら申し上げます。
その御子は――庶子。
まさか、後継の一人としてお考えではありますまいな?」
その言葉は、硝子に刃を落とすように、広間へと響いた。
ハンゾウの瞳が、静かに光を宿す。
怒りではない。
それよりも、遥かに危険な何か。
空間が歪むほどの圧が、静かに満ちていく。
長老たちは視線を交わし、将軍たちでさえ落ち着かない。誰も口を挟まない。
――踏み込んではならぬ領域に、足を置いた。
「子」という言葉が、鋼より冷たく宙に残った。
それは言い回しではない。
拒絶の宣言だった。
ハンゾウは理解していた。
彼らは“若君”とは呼ばなかった。
リョウマを、血族として認める気はない。
顔色一つ変えず、力を放つこともなく――それでも、皮膚の下で熱が脈打つ。
玉座の獅子彫刻の肘掛けに添えられた指が、わずかに食い込み、乾いた亀裂が走った。
――線を引いた、というわけか。
怒りは爆発しない。
待つ炎だ。
だが、ここは戦場ではない。
ここは仮面の劇場。
ハンゾウは剣を鞘に納める皇帝のごとく、怒りを飲み込んだ。
表情は冷たく、読み取れぬまま――深海に嵐を抱えた静寂。
彼は、答えなかった。
その沈黙は、どんな怒声よりも雄弁だった。
長老たちは動かぬまま、しかし内心では悟っていた。
――殿下は忘れていない。
――記憶したのだ。
そして、そうした“負債”は――
必ず、返済される。




