第6章:誓いと命令
豪奢な天幕の内側の空気は、音もなく震えていた。
ミサキが一歩退き、拳を強く握りしめ、唇を閉ざしたその瞬間――
レディ・サヤカの怒りは、再び堰を切ったように溢れ出した。
彼女は勢いよく手を伸ばし、繊細な磁器の壺を掴むと、室内へ叩きつける。
――ガシャァン!!
激しい音が響き渡り、破片が木製の柱にぶつかって砕け散った。
その直後、入口の幕が乱暴に引き剥がされ、
司令官ライコウが踏み込んできた。
「サヤカ様!
一体、今度は何事ですか!?」
苛立ちを隠そうともせず、彼は声を荒げた。
「今回は何が、そんなにお気に召さなかったのです?」
サヤカは一瞬、動きを止めた。
そして、ゆっくりと顔を向ける。
琥珀色の瞳が細まり、真っ直ぐにライコウを射抜いた。
「……ライコウ。」
低く、しかし鋭い声。
「なぜ、この遠征はこんなにも時間がかかった?
すぐ終わると言ったのは、あなたでしょう。
“結果を出す”と、約束したはずよ。」
彼女は一歩前に出る。
絹の衣の裾が、砕けた破片の上を静かに引きずった。
「……あの愚かな半蔵は、また私に嘘をついた。」
その声は震えていた。
恐怖ではない。
抑えきれない怒りによる震えだった。
「第三夫人アカネの子が生まれた時の“証拠”を掴んでいると言ったのよ。
私が欲しているものを理解していると……。
なのに、渡されたのは曖昧な話と、役にも立たない古文書ばかり。」
ライコウの表情が曇る。
これは単なる癇癪ではない。
権力、裏切り、秘された真実――
それらが煮えたぎる“嵐”だと悟った。
彼は顎を引き締め、視線をわずかに逸らした。
サヤカの燃えるような視線から逃れるように。
こめかみを汗が伝う。
「……それは……。」
声を落とし、慎重に言葉を選ぶ。
「サヤカ様……仕方のないことでもありました。
北方、黒谷の密林は、魔獣の数が異常です。
遠征は決して、安全な行軍ではなかった。」
一拍置き、彼女の言葉をそっと修正する。
「それと……“愚か者”などとお呼びになるのは……。
半蔵様は、我らが主君です。
そのような呼び方は、少々……無礼かと。」
サヤカの目が細くなる。
唇がかすかに歪んだが、まだ言葉は出ない。
真実と権威。
その狭間の緊張が、天幕の空気を重く満たしていた。
――その微細な揺らぎを、サヤカは見逃さなかった。
「……ああ、なるほど。」
声が鋭く跳ね上がる。
「また、そういうことね?
私をアカネから引き離すために、結託したのでしょう?」
彼女はミサキの方を向き、嘲るように指を差す。
「見なさい、ミサキ。
また裏で話をつけていたのよ。
あの半蔵……私に“権利がある”ことを、分かっていたくせに。」
彼女は一気に詰め寄り、ミサキの肩を掴む。
まるで、今にも泣き出しそうな子どものように。
「私は、アカネの子を最初に抱くって約束されたのよ!
そう言ったの!
なのに、この馬鹿げた遠征に私を追いやって……
その間に、あいつが全部持っていった……!」
ミサキはそっと、サヤカの手に自分の手を重ねた。
「サヤカ様……どうか、お気持ちを鎮めてください。
起きてしまったことは、もう変えられません……。」
サヤカは歯を食いしばり、視線を逸らす。
やがて、ゆっくりと呼吸が落ち着いていった。
その様子を、ライコウは黙って見ていた。
(……いつも通りだ。
思い通りにならないと、子どものように爆発する。)
(……だが、それでも……
主の命令は絶対だ。
真実を話せるわけがない……。)
彼は視線を伏せ、罪悪感を押し殺した。
そのとき――
サヤカが、再び彼を見た。
琥珀の瞳が鋭く細められ、
声は低く、冷たい。
「……それで?
半蔵は、あなたに“何を”言ったの?」
刃のような言葉。
ライコウの身体が強張る。
冷や汗が背を伝う。
「……大したことでは……。」
「本当に?」
抑えた皮肉が滲む。
逃げ場はなかった。
「……分かりました。」
彼は観念したように息を吐く。
「半蔵様は……
アカネ様と、二人きりの時間を望まれていました。
あなたが側にいては、それが叶わない。
だから……あなたを遠ざけるため、この遠征を。」
サヤカは、何も言わない。
沈黙が、嵐よりも重くのしかかる。
「サヤカ様……
あなたは、屋敷に留まることを望まなかった。
武の道を選び、ついには“大武術宗師”となられた。
ですが……宗師であっても、変えられないことはあります。」
彼は慎重に言葉を続けた。
「第一夫人レイナ様は、政と財で主君を支え、
第三夫人アカネ様は、屋敷と使用人をすべて取り仕切っている。
では……あなたは?」
沈黙。
サヤカの唇が、わずかに動いた。
怒りではない。
諦念だった。
「……もういい。」
低く、疲れた声。
「それ以上、言わなくていい。」
しばしの静寂。
(……たぶん、ライコウの言うことは正しい。
私が、ずっと目を背けてきただけ。)
彼女は小さく息を吐き、肩の力を抜いた。
「……分かったわ。」
顔を上げ、彼を見据える。
「明日から、遠征を再開する。
それでいい。」
ライコウは一瞬驚いたが、すぐに深く頷いた。
やがて彼は一礼し、何も言わず天幕を出ていく。
幕が静かに落ち、サヤカは一人になった。
沈黙。
彼女は天幕の隅を見つめる。
そこには誰もいない。
だが、心は空ではなかった。
――アカネ。
胸の奥で、長く封じていた痛みが微かに疼く。
「……リョウマ。」
囁いた瞬間、
琥珀の瞳が淡く光り、やがて金色に燃え上がった。
ドン……。
深い蒼のオーラが、彼女の身体から噴き出す。
炎のように揺らめき、空気そのものを歪ませる。
荘厳で、危険な気配。
「……試してみましょう。」
声は静か。
だが、内に嵐を秘めている。
「その名に、ふさわしい力を持つかどうか……
リョウマ。」
蒼い気が天幕を震わせた後、
彼女は深く息を吸い、すべてを体内へ引き戻した。
静寂だけが、残った。




