第5章:静かなる嵐
ジャングルの野営地の空気は静まり返っていた。
焚き木のはぜる音だけが、濃い葉の天蓋に包まれた空間に響く。
生存が全てを支配し、快適さなど贅沢にすぎないその場所で、
女はまるで野に鍛え上げられた戦士のように立っていた。
大地にしっかりと根を下ろす強靭な脚。
手にはまだ、解体した猪の血が生々しく残っている。
その背後──草葉が微かに揺れた。
警戒はしたが、驚きはしない。
若い兵士が姿を現したのだ。
彼は大地を踏む足取りすら重く感じるほど緊張し、
野営地の主の領域へと踏み込むと、
恭しく目を伏せた。
標準的な軍装。
胸には王都の紋章。
忠誠がどこにあるか、一目で分かる。
彼は片膝を地に落とし、
その姿勢は鋼のように固かった。
拳を太腿に置き、声を張る。
「お、お方……
三夫人さまのお子が……お生まれになりました。
……男子でございます。」
その言葉は焚き火の音に溶け、野営地の原始の空気に吸い込まれていく。
兵士は恐る恐る目を上げた。
見えたのは──
血の味を含んだまま、無表情の横顔だけ。
女は振り向かない。
背を向けたまま、わずかな体重移動だけで
聞いていることを示す。
苛立ちの色を帯びた声が、
鋭く、それでいて抑えられた調子で落ちた。
「……あの愚かな夫は、
今度の子に何という名をつけた?」
兵士の姿勢はさらに深く沈み込んだ。
空気の張りつめた中でも、彼の声は乱れない。
「若君のお名前は──
桐生リョウマ。
ご主人さまと三夫人さまが、お決めになったそうです。」
女は動かない。
返事も、息づかいすらも変わらない。
ただ、沈黙。
深く、深く沈む沈黙。
兵士は恐れながらも、礼儀として声を発した。
「……サヤカ様。
退下してよろしいでしょうか?」
静寂が一瞬延びた。
そして、底の水から浮かぶような微かな声。
「……行け。」
それだけで十分だった。
兵士は深く頭を下げ、
女の領域──視界すら遮断される不気味な境界線──を離れた。
その瞬間だった。
「……あそこを出た途端──」
得体の知れない悪寒が、 背骨を舐めるように走った。
視界が震え、呼吸が浅くなる。
目に見えない“何か”が剥がれ落ちた感覚。
「……あの中では、
何も見えなかった。
闇でもない。
光が奪われたわけでもない。
ただ──視覚そのものが消えたんだ。」
兵士は喉を鳴らす。
「声だけ……
音だけが存在していた。」
隣で待機していた別の兵士が歩み寄る。
「おい、どうした?
サヤカ様の“領域”ってそんなにヤバいのか?」
最初の兵士はすぐには答えない。
振り返りたくもないというように、
境界線を睨みつけたままつぶやく。
「……お前には分からない。」
「話してみろよ。」
ゆっくりと彼は言葉を落とした。
「中に踏み込んだ瞬間──
視界が完全に途絶える。
暗闇じゃない。
彼女の“気”が視覚を奪うんだ。
彼女が許さない限り、
お前は“彼女を見ることすらできない”。」
短い沈黙。
兵士の肩が震える。
「音だけが生きている世界。
あの圧力……あの威圧……
あれは、人間のものじゃない。」
「……どういう意味だ?」
問いかけに、兵士は答えず、ただ震えを飲み込む。
「立ってみれば分かる……
あの“領域”は──」
息を吸う。
「生きていた。」
「お前……脅かすつもりかよ。」
二人目の兵士は肩をつつくが、
返ってくるのは薄い笑いだけ。
二人は黙って歩き去った。
その頃。
サヤカはゆっくり目を開いた。
すべてを見通すような、
静かで遠い視線。
白い外套を揺らしながら、
野営地の奥へと歩き始める。
その足取りには一切の痕跡が残らない。
大地が彼女の通行を恐れているかのように。
やがて、彼女のテントに足を踏み入れた瞬間──
領域が霧散した。
音もなく、光もなく、ただ消えた。
“領域”は空気から抜け落ちたのではない。
本来あるべき場所──
彼女の身体へ戻ったのだ。
場面は変わる。
二人の兵士が指揮官用の大きな天幕へ進み、
かしこまって姿勢を正した。
「報告します、司令。
三夫人さまご出産の報は、
サヤカ様へ無事お届けしました。」
机の奥に座る男が顔を上げる。
青く流れる長髪。
湖面のように静かな瞳。
青白い光がほのかに身体を包む。
王国軍司令官──
神崎ライコウ。
“雷光の嵐(Thunderlight Storm)”と呼ばれる男。
「……良い。」
だが次の瞬間。
──ガシャァン!!
外で重いものが砕ける音。
布の壁が震え、兵士たちは身を固くした。
ライコウは目を閉じ、
眉間を押さえ、静かにため息をつく。
「……また始まったか。
まったく、どうしたものか……。」
悲鳴が響いた。
三人は急いで外へ飛び出す。
声の主は──
サヤカのテント。
怒号が内部から轟き、
空気が震えるほどの殺気が漏れ出ている。
「ひ、ひぃ……
今の、サヤカ様の……声……?」
ライコウは動じない。
むしろ諦めたように肩を落とす。
「予想通りだ。」
テントの幕を押し上げると──
そこには怒りに染まったサヤカの顔があった。
灰色の髪が乱れ、
琥珀色の瞳が烈火のように揺れている。
足元には叩きつけられ砕けた銀の花瓶。
その破片が光る。
怯える侍女が声を絞った。
「サ、サヤカ様……
どうかお落ち着きください……!
ものを壊しても……何の御利益にも……」
しかしサヤカは鋭く睨みつけ、一喝する。
「……ミサキ。黙れ。」
侍女ミサキは震えながら一歩下がり、
ゆっくりと頭を垂れた。




