第3章 — 紅(くれない)の糸(いと)
キリュウ王朝の長にして、テンショウガイ国の王——
キリュウ・ハンゾウは静かに立ち尽くしていた。
知らせはすでに王の耳へ届いていた。
それでも彼は反応を示さなかった。
言葉一つ、息一つすら無駄にしないまま——
ただ、ゆっくりと背を向けた。
静かな回廊に、彼の足音だけが響く。
木の床は、彼の正式な草履の下でかすかに軋んだ。
差し込む陽光が鋭い影を刻むが、そのどれも彼の胸の奥で渦巻く嵐までは照らせなかった。
心の奥で、彼はそっと呟いた。
「——そうか。これが……我が次男。
今日から、新たな嵐が始まるというわけだ。」
彼はまだ部屋には入らなかった。
いや、入る必要はないと思っていた——その時までは。
突如、静寂を裂く声が響いた。
SFX:『うわぁぁぁぁぁぁぁ!!』
力強く、痛みを抱え、必死で、生まれ変わった魂が叫ぶような……
そんな赤子の叫びだった。
ハンゾウの瞳が大きく見開かれる。
いつもの冷静さがひび割れた。
王は迷うことなく駆け出し、扉へ向かった——。
部屋の中は、すでに静けさに包まれていた。
先ほどまで響いていた泣き声は止み、
そこには柔らかく、穏やかな空気がただ漂っていた。
空虚ではなく、温かさを含んだ静寂——愛が作り出す沈黙だった。
絹の寝具の上に、赤子が横たわっていた。
小さな身体は丁寧に包まれ、呼吸は軽く静か。
涙はすっかり乾き、表情は柔らかかった。
まるで、この世界がもう怖くないとでも言うかのように——
深く、安らかに眠っていた。
ハンゾウは静かに部屋へ足を踏み入れた。
その存在は威厳に満ちていながら、不思議と安らぎを乱すことはなかった。
彼はゆっくりと赤子へ近づき、跪き、そっと腕に抱き上げた。
赤子はわずかに身を動かしたが、泣き出すことはなかった。
むしろ、安心したように、彼の腕へ身を預けた。
どこか……懐かしさを感じるように。
ハンゾウの頬に、珍しく微笑みが浮かんだ。
「……我が息子よ。」
誰も聞いたことのないほど柔らかな声で、彼は囁いた。
「こんなにも小さいのに……もう、これほど大切なのだな。」
部屋の反対側では、母のアカネが枕にもたれ掛かっていた。
疲労が残る顔色は薄く、髪も肌に貼り付いていたが——
その瞳に宿るのは、ただ温かさだけだった。
二人は目を合わせた。
言葉のいらない沈黙が流れた。
やがてハンゾウが静かに口を開く。
「……して、我らの子に名は?」
アカネは疲れの残る微笑みを浮かべながら、優しく答えた。
「……キリュウ・リョウマと名付けました。」
その瞬間、部屋には目に見えぬ何かが満ちた。
名が与えられ、魂が再び世界に帰還し、
新たな伝承が生まれた——そんな気配が。
ハンゾウは赤子をそっと寝具に戻す。
リョウマは小さく身じろぎし、布を握りしめた。
その姿を見て、彼はまた微笑んだ。
「……リョウマ、か。重みのある名だ。」
彼はやや得意げに言った。
「名前選びなら……お前の右に出る者はいないな、アカネ。」
アカネは半目のまま微笑み、軽く息を吐いた。
「ふふ……おだてても、おむつ替えは逃げられませんよ、殿。」
ハンゾウは短く笑い、再び息子のそばに膝をついた。
「しかし……見てみろアカネ。髪は私そっくりだ。
月のない夜のように黒い。この鼻も、顎の線も……
ほら、この腕と脚の太さ——将来、この子は見事な男になるぞ。」
「……ゴホン。」
アカネが軽く咳払いし、眉を上げた。
「よく見てくださいまし、殿。」
彼女は髪をそっと指差した。
「ここ……よく見ると、赤い筋が混じっているでしょう?
私と同じ、紅の髪よ。」
ハンゾウは眉をひそめて目を細める。
「……む? あぁ……確かに……。
いや、でも黒の方が多いな。ほとんど私だ。」
二人は軽く笑い合った。
その時、赤子が小さく声を出した。
「……はい〜」
まるで両親の声に応えるように。
ゆっくりと瞼が開く。
露わになったのは——左右で色の違う瞳。
ハンゾウは目を見張る。
「……左の目が……赤?」
アカネも息を呑む。
「右の目……黒?」
二人は自然と目を合わせ、同時に言った。
「……両方、受け継いだのね。」
そしてまた、笑みがこぼれた。
静かな幸福は、扉を叩く音で中断された。
「陛下、奥方様のお食事の時間でございます。」
ハンゾウは立ち上がり、深く息を整えるように頷いた。
「アカネ……身体を大切に。息子も頼む。」
「ええ、大丈夫。心配いりません……。」
ハンゾウは最後にリョウマを見つめ、部屋を後にした。
アカネは少しずつ食事を口へ運びながら、眠る息子を見つめ続けた。
リョウマは父が去ったことも、温かなやり取りも知らぬまま、
静かに眠っていた。
前世で得られなかった温もりに包まれながら——。
ふと、アカネの背を冷たい何かが撫でた。
彼女の視線は自然と、赤子の寝る揺りかごへ向かう。
小さな胸が静かに上下している。
しかし——
彼女の眉がわずかに寄った。
「……黒と、赤……」
疲労で気づけなかっただけ——
そう思おうとするが、
「……どうしてもっと早く気づかなかったのかしら……?」
胸の奥で、言葉にならない違和感が渦巻く。
「疲れているだけよ……考えすぎ……」
そう自分に言い聞かせながらも、
心のどこかが否定していた。
その赤い色は——なぜか、
懐かしく、恐ろしく、そして不可思議だった。
アカネはその思考を振り払い、食事へ戻った。
だが、赤い光景は心から離れなかった。
そして彼女は知らない。
——リョウマが転生したその瞬間、
**その赤い目は「変化した」**ということを。
天ですら辿れぬ何かが宿ったことを。
母も、子も気づかないまま——
真実は静かに芽を出し始めていた。
アカネは食べる手を止め、もう一度息子を見る。
赤い瞳。赤い髪。
“似ている”だけでは説明できない色。
「……私は、いったい何なの……?」
小さく呟く。
リョウマは小さな手を頬の横に添え、
何も知らず眠っていた。
——そして、その頃。
王宮から遠く離れた濃霧の森。
深い暗闇に包まれた密林の奥。
ぼんやりと黒い靄が揺らぎ、木々の間を漂う。
ザワ……と葉が揺れる。
その闇の中で、ゆっくりと目が開かれた。
片方は燃えるような紅。
片方は闇より深い黒。
大気が凍りつく。
生き物の気配が全て止まった。
低く、囁くような声が闇に落ちた。
「……ついに……生まれたか。」
次の瞬間、闇は音もなく消え失せた。
まるで最初から存在しなかったかのように——。
その頃、リョウマは布団の中で小さく動き、
ふぅ、と息を漏らし——再び眠りに落ちた。
自分の誕生が、すでに“影”を揺り動かしたことなど知らぬまま。




