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絵本というものは、遠いようで意外と近い。
ロングセラーと呼ばれる絵本の奥付を見ればそれを理解出来るかも知れない。
今の親達が産まれる以前に発行された物が、児童書売場の一等地を陣取り、何度も何度も版を重ね、今でも売上上位に位置している。
産まれたばかりの赤ん坊がかじりつく絵本は、親が数十年前にそうした物と同じなのだ。
幼い頃に馴れ親しんだそれらを生み出した絵本作家自身は、意外と知られていない。
絵本作家とは、近いようで意外と遠い。
真っ青な空と、真っ白な入道雲。
白と青のコントラスト。
その爽やかなコントラストとは対称的に、アスファルトの地面はまだ午前中だというのにゆらゆらと揺らめきを産んだ。
今日も激しい夕立があるかもしれない。
そこをぶつぶつとごちながら歩く少女は、この辺りでは有名な進学校の制服に身を包んでいた。
高く結い上げた癖のある栗色の髪は長く、ふわりとふわりと揺れている。背をピンと伸ばし足を目一杯広げながら歩く様は凛としていた。
小柄な身体に小作りな顔。
高校の制服を着込んでいなければ中学生に間違われる事も少なくない彼女は、確かに幼い顔立ちながらも、茶の双眸に浮かぶ光がどこか大人びて見えた。
「暑い…」
ぽつり、と零して彼女は頭を振った。
何を言ったところでこの暑さが和らぐ訳ではないが、それでもせめて愚痴ぐらいは、と息を吐く。
趣味か自由研究のためか、蝉を追い回す子供たちの元気な姿に若いっていいわねと、年齢が気になる女性が聞けば激怒しそうな愚痴を零して足を進めた。
もうじき夏休みも終わろうとしている。
文化祭の話し合いの為、せっかくの夏休みだというのに学校に集合した生徒たちはぐったりと机に突っ伏していた。
会議室の空調は二十度に設定され、凍えるような空気を吐き出しているが、それでも先程まで熱射に曝されていた生徒達には温いくらいである。
「実行委員長はまだですか?」
「電車に一本乗り遅れて、後5分掛かるそうです」
ぐったりと返した副委員長に少女は鼻を鳴らした。
横に座る生徒会長は他の生徒とは対称的にしゃんと背を伸ばし椅子に付いている。
きっちりと切り揃えられた黒髪が、さらさらと冷気に揺らされていた。
その会長がこちらを向いてぺこりと頭を下げて、心苦しいと言わんばかりに眉根を寄せる。
「わざわざ出て来てもらったのにすみません、会長」
「んー昼には帰らせてもらうから良いわよ」
ぱたぱたとけだるげに手を振り、それから、と少女は続けた。
「会長は有岡、あんたでしょ。あたしは引退した身よ」
「あ、はい」
それはそうなのだが、と会長に成り立ての少女は肩を竦めた。
任期中に強烈なまでの存在感を与えた前会長である、この少女、河野真奈。
一度口にした事は全て実行に移し、それを成功させ、歯向かう者を黙らせるだけの実力を持っている。
全国模試で上位に付ける学力の持ち主である彼女は、それはそれは滑らかに動く口と頭脳を持ち、それで勝てる者がたかだか高校生で居るはずがない。
それでは、と華奢な少女を腕尽くでというのに躊躇しない連中も、正統な武術から護身術まで、端は暗殺に使われるらしいものまで叩き込まれた彼女に、あっさりとその細腕で捻り上げられた。
彼女は、この学校で敵に回したくない、回してはいけない人物だと、全校生徒だけでなく教師にも認識された人物である。
受験生だからとその役職を退いた今でさえ、こうして後輩たちが彼女を頼る。
後輩たちは彼女の手腕を少しでも盗めればと彼女に甘え、それに文句を言いながらも困った人間は放っておけない面倒見の良い彼女。
彼女が殆どの生徒から支持されていたのは、そういう面を持っているからだろう。
ちらり、と腕の時計を見遣ると彼女はうーんと唸り声を上げた。
次の約束まで三時間。
文化祭の最終打ち合わせがこの三時間で終わるとは思えない。
「すみ、ま…せん!!」
荒い息使いで現れた実行委員長に、生徒たちに『悪魔の微笑み』と呼ばれるそれを向け、さあ始めましょう、と前会長は腕まくりをした。
それまでだらけていた生徒たちは一斉にぴんしゃんと背を伸ばす。
後に、会議室に居た前会長を除く全員が、あの笑顔で会議室全体が凍り付いたと語ったという。
彼女には、家族以外に打ち明けていない秘密がある。
昔から、本を読むのが好きだった。
自分で絵本を読みたいが為に、小学生の姉に読み書きを習ったのは二歳の頃だ。
(思い出したくもない程のスパルタだった。あれ以降、分からない事があれば自分で辞書を引き、図書館に通い詰める事が当然となる)
児童文学だけでなく、古典や文芸書、手当たり次第に本を読んだ彼女の夢は、絵本作家になることであった。
だが残念な事に絵の才能は無かったので、児童文学や絵本の原作を書き、賞に出したところ、最優秀を取ったのは去年の事である。
彼女のデビュー作は、愛らしいキャラクターを描く人気イラストレーターの手で色鮮やかな絵本となり、彼女は名前を僅かに捩り『かわの まな』と言う名で一躍有名絵本作家の一人となった。
現役高校生という触れ書きは利用したが、素顔を明かす事を躊躇われた彼女の情報といえば『かわの まな』と言う名と高校生というだけ。
元々作家の素顔に興味のない読者たちはさして気にしていないようであるが。
絵本作家『かわの まな』が、女子高生河野真奈のもう一つの顔。
そこらに溢れるコーヒーショップより、こじんまりとした喫茶店のほうが彼女は好きだ。
彼女が指定した訳ではないが、一年の付き合いになる編集者は、このこじんまりした喫茶店を毎回、打ち合わせ場所として利用していた。
綺麗な黒髪の、ともすれば冷たいとさえ感じるような美人が彼女、児童書では老舗の出版社で編集を勤める吉野緑である。
昼時の空腹に加え激しい会議も手伝ってか、食べ盛りの男子学生でも残してしまう大盛りランチを細身の少女がぺろりと平らげたというのに、顔色一つ変えない彼女は、職場でクールビューティと呼ばれていた。
(いや、流石に初めて彼女の大食いを目にした時は、この美人も頬を引き攣らせていたように思う。領収書は忘れずに貰っていたが)
「次のお話ですが…絵は『みやびゆう』さんにお願いすることになりました」
「嘘?!」
喉を潤そうと持ち上げたコップが、がしゃんと音を立てて下ろされた。
この一年で二冊の絵本を世に送り出した少女は、次回作用にと絵本の原作三本と読物一本を美人に渡した。
その中から今回はこれをと手直しを要求されたのが『魔法使いと金の猫』である。
あまのじゃくの魔法使いが不思議な金の猫と出会い、少しずつ人と打ち解けてゆくストーリーだ。
その話をイメージした時、真っ先に辿り着いたのが絵本や挿絵で人気の作家『みやびゆう』。
色鮮やかな色彩と繊細で柔らかなタッチ。
絵本も原作付きの作品しかないが全てに透明感漂う、純粋ささえ感じる人気作家だ。
初めてその作品を目にした彼女は、その細やかな色彩の表現に激しい衝撃を受け、いつかこの絵で自分の本が出せたらと夢見たものだ。
この作家も素顔は明らかにされていないが、誰もが耳にした事があるドラマの原作になるような作家でなければそんなものかも知れない。
「夢みたい…」
呆然と零した彼女に美人はくすりと笑う。
「プロットを読んで頂いて是非にとおしゃってましたよ」
「あぎゃあぁぁぁあ…」
何だか恥ずかしくて仕方ない。
確かにいつかはと憧れた作家だが、こんな早くとは思ってもいなかった。もっと経験を積んでからと。
未熟なままの作品を見られたかと思うと顔から火が出る気さえする。
栗色の少女は頬を両手で包み込んで、それが熱く変化していく様を感じていた。
その反応を微笑ましく眺めながら美人は涼やかな笑みを零す。
「真奈さん、みやび先生の絵、好きだって言ってましたね」
「そ…そうなんだけど…」
「編集部でもクリスマス前には推して行きたいとの事なので、今月中には絵コンテをお願いします」
「うー…解った。頑張るわ」
少女は真っ赤になった顔を隠すよう、テーブルに突っ伏した。どんな女性なんだろう、と小さく呟いて目を閉じる。
「綺麗な方らしいですよ」
「吉野さんも知らないの?」
いくらメディアへの露出が無いと言っても、編集である彼女なら顔くらい見知っていてもおかしくはない。
彼女は肩を竦めて頷いた。
「ええ。担当と部長以外はお会いしたことがないんですよ。ただ、美人だって聞きました」
「へぇー逢ってみたいけどなぁ」
「そうですね。打ち合わせは文面かマネージャーさんだけなんですよ。一応、お会い出来ないか打診してみます」
「あ、無理には言わないから、ね?」
「はい」
直ぐにこちらを気遣う少女に好感を抱きつつ、彼女は冷えたコーヒーを飲み干した。




