清めの贄水
久々に会った母の様子がおかしい。
母の誕生日にお祝いがてら電話をしたとき、こんなことを言っていた。
「お水を飲むようになってから調子がいいの。優ちゃんにも送っておくから飲んでね」
ちゃんと水分補給をするようにと私の健康を気遣ってくれたのだろう。仕送りまでしてくれるとはありがたい。
しかし後日母から送られてきた"水"は飲料水メーカーのものじゃなかった。
シンプルなラベルには"清めの贄水"の文字。
「お母さんなんか変な宗教に入ってない⁉︎」
あの水が届いてすぐ、車を飛ばして実家に来た。
正月以来に会う母に一見おかしな様子はない。
「いきなり帰って来たと思ったらなぁに? こんな時間に大きな声出して……」
でもどこか変だ。
「宗教? 入ってないわよ」
微笑む母に違和感を覚える。
母が母でないような……。
「父さんはもう寝ちゃったよ。遅いから泊まっていく?」
いつもの母と変わりない。
「すぐに帰る……ん? 何この匂い」
「やだ匂う? にんにく切ったからかな」
「違う。なんか甘い香りがするような……鼻の調子が悪いだけかな」
「風邪でもひいてるの? これ飲みなさい」
目の前に差し出されたのはあの水。
「これだよこれ! なんなの"清めの贄水"って! 一体どこで買ったの?」
「チラシに載ってたの。安いから買ってみたんだけどすごく良くて〜」
母が水について饒舌に語る。
こんなにおしゃべりだっただろうか。
「まさかこの水のことでわざわざ来たの? 明日も仕事でしょうに」
母がテーブルに置かれたマグカップにあの水を注ぐ。
「ほら飲んでみて。名前は確かに変わってるけど、味は普通のお水だよ。よく眠れるから健康に……」
「いらない。私は飲まない」
ネットで検索しても"清めの贄水"は一件もヒットしなかった。
「この怪しい水のチラシはどれ? どこにあるの?」
「捨てちゃったよ。定期購入にしたからもう必要ないし」
ああ……もう……。
どうしたものかと頭を抱える。
「ご飯はもう食べた? 残り物でよければ出すけど」
「何もいらない。……ねえ母さんよく聞いて」
"これから真剣な話をする"という空気は苦手だ。
でもちゃんと伝えないと、手遅れになってしまうかもしれない。
「どこの会社が作ってるか分からない水なんて危ないよ。私お母さんが心配で……」
ゴンッと音を立てて清めの贄水が注がれたマグカップが私の前に乱暴に置かれる。
水が少し溢れた。
「あなたは飲んでないから分からないの。飲んだら見える。ほら」
見える? 何が?
意味が分からないけど聞ける雰囲気ではない。
「私は飲まないから」
静かにそう呟くことが精一杯だった。
一瞬の間の後、母が黙ってキッチンに向かう。
会わない間に母は変わってしまったようだ。
悲しい気持ちを誤魔化そうと溢れた水を拭いているとき、気がついた。
かすかに甘い香りがする。
果物やお菓子とかとは違う。
少し嫌な甘ったるさ。
マグカップに鼻を近づけて確信する。
……水の匂いだ。
この水、やっぱり普通の水じゃない。
あの怪しい水に関連する物がないかリビングを探る。
お札や数珠などのあからさまなグッズがないかと心配したけど、そういうものはなさそうだ。
編みかけのマフラーとかぎ針がソファの隅で埃を被っている。
長年の趣味をやめてしまったのだろうか。
テレビ台には物が乱雑に置かれている。
前までは大きい順に真っ直ぐ並べていて少し神経質なところがあったのに。
それに部屋をよく見ると所々にカビが生えている。
換気がされていないのだろう、空気が少し湿っぽい。
掃除をしなくなったのか、それともできなくなったのか。
母はあの水のせいで変わってしまったのだろうか。
不安に思っているとキッチンからいい匂いが漂ってきた。
「冷めないうちに食べな」
冷たい声で母が言う。
いらないって言ったのに……。
「ありがとう。食べたら片して帰るから」
米と味噌汁にはあの水が使われてるかもしれない。
比較的安全そうなサラダに箸を伸ばすも、向かい側から視線を感じる。
「早く寝なよ。見られながらじゃ食べづらいんだけど……」
母に目を向けると思わず箸を落としてしまった。
テーブルの上を転がる箸のコロコロという音が不吉に響く。
母はニヤニヤしながら私を見つめている。
真っ黒な瞳で光が一切ない。
紛れもない母の顔が、まるで別人のようでゾッとする。
「ねぇ……なに……?」
恐る恐る尋ねると母はニヤニヤをやめて、でも真っ黒な瞳のまま答える。
「早く食べて。早く飲んで」
こんな怪しいものを口にできるかと思いつつ、視線を食事に向ける。
ふわっと、またあの甘い香りがした。
「あなたにも分かる。見えるはず」
意味不明な言葉に気味の悪さを感じる。
「どういう意味? すごく美味しいってこと?」
「より健康になって、より相応しくなるの」
食い気味に答える母の顔が溶けたように歪む。
「今朝、啓示を受けたのよ」
あぁ、もうだめだ。
もう既に手遅れなんだ。
「わかった。わかったからもうあっちに行って」
母の背中を寝室の方に押す。
これ以上見てられない、聞いてられない。
母ではない。
「ちょっと何するの、待って、寝る前にちゃんと清めないと……」
怖い。
母が母でないことが。
恐ろしくて涙が出る。
「あなたは一体誰? お母さんはどこなの……?」
ゆっくり私の方に振り返る母を、もう母とは認識できなかった。
顔も身体もドロドロに溶けて歪んで見える。
「あなたこそ誰?」
抑揚のない母の声が頭の中で反響する。
家も私も歪み始めた。
溶けているのは母ではない。
私の視界だ。
「ああ、あなたも見えて来たのね。新しい世界が」
母だったものが嬉々として言う。
なんで?
なんで私までおかしくなっているの?
部屋を出ようとドアの方に目をやると、白い煙が目に入る。
甘い匂いが強くなった。
煙じゃない、蒸気か。
あの見覚えのある四角い箱、あれは加湿器だ。
「ね、分かってきたでしょう?」
見えないけれど、母がニヤニヤしているのが分かる。
「違う、違う、何も分かってない見えない知らない」
白く甘い蒸気が私たちを包む。
分かりたくなんかないのに。
あ、お母さん。
頭の中まで蒸気が充満しているような気がする。
だけど啓示を受けるにはまだ足りないようだ。
喉を潤す冷たい感覚が気持ちいい。
お母さんが近くにいる。
私はどこにいるんだろう。
あなたに清い精神を捧げます。




