第1話 空白の名前
放課後の風は、いつだってどこか他人事だ。
僕じゃない誰かの記憶の切れ端みたいな匂いが、校舎の角を曲がるたび足元に落ちている。
歩道橋の上で足を止めた瞬間だ。
鉄柵に手をかける——ひやりとした感触が、耳の奥で一拍、街の息を抜く。
次の瞬間、視界の端に音が浮かび上がった。
——「泣き声」。
細いガラスをこすったような透明な震え。
——「割れる音」。
白い破片がスローモーションで宙を舞う。
——「制服のボタン」。
小さな金属の円が、階段をコロコロと転がる映像。
そして——
“名前のないブランク”。
そこだけ真っ黒な四角が、世界の音を呑み込んでいた。
なぜ、名前がない?
「……見つけたんだね」
背中から声。振り向くと、如月天音がノートPCを抱えて立っていた。笑っている。僕の秘密を最初から知っていたみたいに。
「興奮してる?」天音は問う。
僕は答えない。安易に言葉を与えたら、残響は形を変えてしまう。
天音は歩道橋の柵にもたれ、僕の肩越しに街を覗く。
「消えた、ってことだよ。誰かが、その名前を街ごと消した——」
口の中が乾く。
この街では、ときどき“残響”に人工的なノイズが混じることがある。紫がかった波形の歪み。人の心から自然に生まれた音じゃない。
つまり——誰かが手を加えた。
何のために?
僕は視線を残響に戻す。
破片も泣き声も、その空白の四角に吸い込まれ、淡く滲んで消えていく。まるで証拠隠滅だ。
「……調べる」
気づけばそう口にしていた。
天音がにやりと笑う。
「いいね。特ダネの匂いがする。」
こうして、放課後の調査は始まった。
でもこのときはまだ知らなかった。
残響を並べ間違えたら、それが本物の“真実”よりも残酷になるなんて——。