あずき洗い
次の日、僕はあずき洗い先生に人間界に行かないことを伝えるために早めに家を出た。
あずき洗い先生は、この時間いつも職員室の奥にある部屋で読書をしているはずだ。
あずき洗い先生の部屋の前に立って、僕はドアをノックした。
しばらくするとドアが開いて、ドアの隙間からあずき洗い先生が顔を覗かせた。
「先生、おはようございます」
先生に頭を下げた。
「おー、一つ目小僧くんですか、こんな早い時間にどうしたんですか」
あずき洗い先生は曲がった腰を少しだけ伸ばして、僕の顔を見上げた。
「先生に少しお話があります」
僕は背筋を伸ばした。
「そうですか。まあ入りなさいよ」
あずき洗い先生がそう言ってドアを大きく開けて部屋の中に僕を招いてくれた。
「失礼します」
部屋に入ると机の上に本が伏せて置いてあった。その本の背表紙を覗くと、『人間の煩悩』と書いてあった。
あずき洗い先生はいつも人間について学んでいる。本当にすごい先生だ。
「『人間の心得』についてわからないことでもありましたか」
「いえ、そうではありません。先生、実は人間界に行くのをやめることにしたんです」
「ほほお、どうしましたか。あれほど人間になりたがっていたのに」
「それがですね」
僕が言いかけると、あずき洗い先生が右手を出して制した。
「まあ、ゆっくり腰掛けて話しましょうよ」
あずき洗い先生はそう言って机の椅子に腰を下ろした。
「はい」
僕も先生の机の前にある椅子に腰をおろした。
「それでは、一つ目小僧くんのお話をうかがいましょうかね」
あずき洗い先生は机の上で両手を組んで僕の顔をじっと見つめた。
「実は昨日人間界に行って来たんです。勝手なことをして申し訳ありません」
僕は椅子から立ち上がり頭を下げた。
「そうですか」
あずき洗い先生はゆっくりと何度も頷いた。
「本当に申し訳ありませんでした」
「何度も謝らなくていいですよ。人間界へ行くことを特に禁止しているわけではないですからね。行ってもいいんですけど、危険な場所ですからね」
あずき洗い先生はニコニコと柔らかい笑みを僕に向けた。
「はじめて見た人間界はどうでしたか」
あずき洗い先生が僕の目をじっと見てきた。その瞳は湖面のように深く穏やかだった。
「昨日、人間界を見て、僕には合っていないかなと思ったんです。それで人間界に行くことはやめた方がいいかなと思いました」
「なるほど、そうでしたか」
先生は深く頷いた。
「先生はどう思いますか」
あずき洗い先生がどう思っているのかが気になった。
「私は良い選択だと思いますよ」
あずき洗い先生は僕が人間界に行った事を叱ることはなくずっと笑みを浮かべ、どちらかと言うと嬉しそうだった。
「もし、あなたが妖怪の世界に残ってくれれば、妖怪の世界の宝になる方だと思っていますからね。過去に『人間の心得』をこれだけ真剣に学んでくれた生徒を私は知りません。あなたにはこれから先、私に代わって『人間の心得』を妖怪の世界に広めてもらえたらなと思っていました。そして、あなたの力で妖怪の世界をもっと住みよい世界にしてほしい。私はそう願っていましたから」
あずき洗い先生はずっとおだやかで優しい口調だった。
「人間の心得を妖怪の世界で広める活動をしている先生を僕は尊敬しています。僕もいつか先生のようになりたいです」
「嬉しいことを言ってくれますね。でも、私はそんな大した妖怪ではありませんよ」
あずき洗い先生は顔を少し赤くして照れた様子だった。
「先生は人間界に行ったことはあるのですか」
「人間界ですか。そうですねー」
あずき洗い先生は、そう言って宙に視線を向けた。何か昔を思い出しているようすだった。
「行ったことがあるんですね」
僕はもう一度訊いた。
「そうですね。まあ、行ったことがあるというより、私の場合は過去に人間界にいたと言った方がいいですかね」
「人間界にいたですか」
僕は首を傾げた。
「実は私はもとは人間だったんですよ」
「先生は人間だったんですか」
僕は驚いて立ち上がった。
「そんなに驚かないでください。まあ、座ってこれを見てください」
あずき洗い先生が引き出しから何かを取り出して僕の方に滑らせた。一枚の写真だった。
僕はそれを手に取ってから座った。写真に視線を落とす。それには坊主頭の可愛らしい一人の少年が映っていた。
「これは誰ですか」
僕は写真から顔を上げて、あずき洗い先生に訊いた。
「それが私です。私が人間だった頃の写真です」
僕は「えっ」と言ってから、写真に映る少年とあずき洗い先生を何度も見比べた。
「まったく似てないから、信じられませんよね」
あずき洗い先生が苦笑いを浮かべた。
「確かに似てないですけど、本当なんですか」
あずき洗い先生が僕に嘘をつく理由もないので、本当なんだろうとは思ったが、僕はすごくビックリした。
「嘘のような本当の話なんです」
あずき洗い先生がニコリと笑った。
「先生が人間だったなんて、全然知らなかったです」
「誰にも話したことがないですからね」
「なぜ、人間から妖怪になってしまったんですか」
「知りたいですか」
「はい、差し支えなければ」
「あなたにならお話してもいいでしょう」
あずき洗い先生はそう言ってから、「フゥー」と息を吐いた。
「当時、私は『日顕』という僧侶でした。そして私は住職からすごく可愛がってもらいました。それである時、住職から後を継いでほしいと頼まれたんです。それを聞いた時、私は住職に認めてもらえたと思い、すごく嬉しかった」
あずき洗い先生は宙に視線を向けて、昔を懐かしんでいるようすだった。口元が少し綻んでいた。
「しかし、それを知った他の僧侶たちはその事をすごく妬んでいたようでした。そして彼らは私をいじめるようになりました。日に日に酷くなっていく彼らのいじめに耐えられなくなった私はカッとなってしまい、彼らと殴りあいの喧嘩をしてしまいました。さほど喧嘩の強くない私が体の大きかった三人の僧侶相手に勝てるはずもなく、私は彼らに井戸に落とされ殺されてしまったんです」
僕は「えっ」と声が出た。
あずき洗い先生は、過去の悲惨な話をしているにも関わらず、優しい笑みを浮かべたまま話を続けた。
「死んでしまった私は、その後今のこの姿のあずき洗いとなって、こうして妖怪の世界で暮らしているというわけです」
あずき洗い先生は話し終えると、立ち上がり窓の外を眺めていた。
辛い過去を思い出させてしまったと、僕は申し訳ない気持ちになった。
「先生は人間界でそんな酷い目にあってたんですか」
「まあ、私の方から喧嘩をしかけたわけですから、私も悪かったんですけどもね」
「それなのに先生は人間界を嫌いにならなかったわけですか」
「そうですね、人間界のことは嫌いにはなりませんでした。しかし、人間界は難しい世界だなと思いました」
「昨日、人間界を見てきたので、僕もなんとなくわかる気がします」
「私は人間界と妖怪の世界のどちらにも妬みや憎しみが無くなれば良いなと思っています。でも、なかなか簡単には無くならない。だから『人間の心得』のような戒めが必要なのかもしれません」
「人間界も妖怪の世界も妬みや憎しみがあるから『人間の心得』を学ぶことが必要ということですね」
「そういうことです。私は妖怪の世界にはびこる妬みや憎しみを少しでも無くそうと思って『人間の心得』をあなた方のような若い妖怪に伝授しようと取り組んでいるんです」
「先生が妖怪の世界に『人間の心得』を広めてくれているおかげで、僕はすごく勉強になりました」
「そうですか、それは良かったです。でも、本当は人間界でやるべきことだったのかもしれませんが、私には人間界は少し複雑過ぎて難しいです」
「先生はやっぱり凄いです。僕は先生を尊敬しています」
「あなたにそう言ってもらえて、すごく嬉しいです」
それから僕は人間になることはやめて、妖怪の世界であずき洗い先生といっしょに『人間の心得』を妖怪の世界に広める活動に取り組むことにした。
カラ傘小僧や、のっぺらぼうも僕を応援してくれた。
それから人間界も良くしたいので、あれ以来ずっと僕とカラ傘小僧とのっぺらぼう三人で人間界に行って、イタズラを繰り返している。
イタズラと言っても『人間の心得』が出来ていない人間を見つけては脅かして反省してもらおうとしているのだ。
誰にでもある、ちょっとした悪魔の心、それが出てきた時に、僕たちが脅かすことで人間の本来持っている綺麗な心を引き出すようにしている。
「一つ目小僧よ、次は、あの少学校に行ってみようか」
カラ傘小僧がピョンピョンと走っていった。
「今、あの学校でいじめが起こってるみたいだから、ちょっといじめっこを懲らしめに行くぞ」
「カラ傘小僧、ちょっと待ってよ。あまり過激な脅かし方はやめてよ。相手は子供なんだからね」
僕は息を切らしながら、カラ傘小僧を追いかけた。
「おーい、ハァハァハァ、ちょっと待ってよ」
頭が重くてなかなか速く走れない。カラ傘小僧との距離は開く一方だ。
「のっぺらぼう、走りづらいから、僕の頭から降りてよ。少しでも早く人間たちにも『人間の心得』を広めなければならないんだから」