陰口
カラ傘小僧の背中を追いかけていくと、カラ傘小僧は、僕がこれまでに見たことないくらいものすごく高い建物の前で立ち止まった。
「これ、すごいだろ」
カラ傘小僧が建物を見上げながら僕に言った。
「うん、すごく高いね」
僕も建物を見上げた。
「ここにはバカな人間たちがたくさん住んどるんじゃ。建物は一流でも中にいる奴らは三流じゃ」
のっぺらぼうも建物を見上げながら言った。
「へぇー、そうなんだ」
のっぺらぼうが三流というのは人間のことを言ってるのだろうか。
「中に入ってみるか」
カラ傘小僧がガラスの自動ドアをすり抜けて建物の中に入って行った。
僕とのっぺらぼうも後に続いた。
中に入ると焦げ茶色のドアが四つ並んでいた。
「これがエレベーターっていうんだ。人間はこの中に入って、この建物の上に上がるんだ」
「このドアの中に入ると、上に上がれるって凄いね」
僕はそう言って、不思議なドアに手を触れてみた。するとドアに触れた瞬間に急にドアが開いた。ビックリしてドアから慌てて手を引いた。
「これに乗って上まで行ってみるか」
カラ傘小僧がエレベーターに乗り込んだ。
「乗ってみるかな」
のっぺらぼうも乗り込んだので、僕も乗り込んだ。こんなすごい乗り物まで人間は作っているんだとエレベーターの中を上下左右に視線を走らせた。思ったより狭い空間だけど、上に上がるだけならこれで充分だなと思った。
エレベーターのドアが閉まりかけた時に二人の人間の女性が走って僕たちの乗ったエレベーターに乗り込んできた。
乗り込んできた二人は「ハァー、ハァー」と息を切らしていた。
女性の年齢はどちらも四十歳位だろうか。二人共、身長が高くてモデルのように美しかった。やっぱり人間は美しい。猫娘や砂かけばばあとはえらい違いだ。
切れ長な目をした女性とクリクリと黒目の大きい女性の姿に僕は見惚れた。二人とも鼻は高くてすっとしていて、唇は赤くキラキラと輝いていた。
「何じろじろ見てんだよ。このスケベ野郎」
カラ傘小僧に気づかれ後頭部をパシンと叩かれた。
「へへへ」
僕は叩かれた後頭部を右手でさすりながら笑った。
「一五〇三号室の佐伯さんの息子だけどさあ、金泉中学に行くらしいわよ」
切れ長目の女性が気だるそうな声で言った。
「えーっ、あのボンクラ息子が有名私立中学のお坊っちゃま学校に入学するわけ。あそこは勉強ができないと入れないはずよ」
もう一人の女性がクリクリした大きな目を一段と大きくした。
女性たちはエレベーターの中で二人っきりなのに、ヒソヒソ話をするようにお互い顔を近づけて話していた。
「あの息子、どう見ても勉強出来そうには見えないでしょ。だからお金の力じゃないの」
「あたしもそう思う。あの息子、あたしに会っても挨拶も出来ないからね。親のしつけがなってないわ」
「佐伯さんのところは奥さんも旦那さんも挨拶しないし、ゴミ出しのルールは守らない。その上に不正入学なんて、最低な家族ね」
「それからさー、水口さんとこだけどさー、あそこの家族も酷いわよ。この間、最悪でさー」
切れ長目の女性が口元を歪めていた。
「えっ、何かあったの?」
クリクリ黒目の女性が興味深そうに目を輝かせた。
「あのね」
切れ長目の女性がクリクリ黒目の女性の耳元に口を近づけた。
「聞いてらんねえや」
カラ傘小僧がそう言って、エレベーターの非常ボタンに手を伸ばした。
「何するつもり?」
僕が訊くと、カラ傘小僧はニヤリと笑って、非常ボタンを押した。エレベーターはガクンと止まった。
「あら、何、急に止まったわよー」
切れ長目の女性が悲鳴のような声をあげた。
「故障かしら」
クリクリ黒目の女性がエレベーターの『開』のボタンを連打した。
「たすけてー」
エレベーターの中に切れ長目の女性の声が響いた。
「妬むんじゃねえよ。陰口ばかり言うな。てめえらはバカか」
カラ傘小僧がドスの効いた低い声を出した。
「今、なんか変な声しなかった?」
切れ長な目の女性がクリクリ黒目の女性の二の腕を掴んだ。
「うん、聞こえたわ。どこから聞こえたのかしら」
クリクリ黒目の女性はエレベーターの中に視線を走らせた。
のっぺらぼうがエレベーターの照明を消した。
「キャー」
エレベーターの中に悲鳴が響いた。
「他人の陰口ばっかり言う奴は許せねえー。お前たちを一生恨んでやるうー」
のっぺらぼうが喚いた、
「誰か助けてー」
二人の女性は悲鳴を上げ、人差し指で耳に栓をしてその場にしゃがみこんだ。
「行こうぜ」
カラ傘小僧がエレベーターのドアをすり抜けて出て行った。
「おお」
のっぺらぼうも続いて出て行った。
「ちょっと待ってよー」
僕は二人の女性の怯えている様子を見て、そのままにしていいものか悩みながらも結局二人に続いて出て行った。
「ハッハッハッ」
「ヒッヒッヒッ」
建物から出てきて、カラ傘小僧は楽しそうにピョンピョンと跳ねていた。のっぺらぼうの表情はわからないけど、笑い声が聞こえるし、スキップしてるから楽しいんだろう。
二人を見ていると、僕までなんだか楽しくなってきた。いつも、この二人といると楽しいんだけど、今日は特に楽しい気がする。
カラ傘小僧は、車のボンネットの上をピョンピョンと跳ねて道路を渡り、今度は向かいの建物に入っていった。