王女シルビアは身代わりを探していた
薄暗い洞窟の奥、不規則に滴り落ちる水。うずくまらなければ大人は入れない空間だ。耳に涼やかで心が洗われるような音がする。その音だけが聞こえる場所で、白い夜着一枚で震える令嬢がいた。
歳の頃は、16、7。令嬢は四つん這いになっている。湿った岩の上にきめの細かい黒布を広げて、小刻みに振動する唇から何事か呪文のようなものを紡ぎ出していた。布には扉のような絵が刺繍されている。使われているのは灰色の陰気な糸である。
令嬢の言葉が止まった時、刺繍の模様に点のような光が現れた。点は刺繍の線を辿って、扉の形をなぞってゆく。線が全て繋がると、布から刺繍が立ち上がる。令嬢は四つん這いのまま後退りした。少し開けた場所にまで下がると、そのまま顔だけあげてじっとしていた。
令嬢が居る場所では、魔法の力を持つ緑色の透明な結晶が、僅かな範囲を仄かな光で満たす。結晶は先の尖った柱のような形を束ねて、花のように壁面から生えている。
お化けのように乱れた髪は、癖のない繊細な金髪だ。癖がないのに乱れているため、厩の前に散らばった藁クズのような有様である。緑色の光が不気味に染めている。スダレ髪の隙間から突き出す薄く高い鼻と、大きな青い瞳が病的な容貌を予想させる。
布のある空間からは眩い光が放たれた。
「ぎゃーっ、っ、てぇーい!」
姿は見えないが、光の奥から聞こえる高めの声は、若者だろう。令嬢はただでさえ大きな目をさらに大きく見開いた。
「ぐおー!」
時々雄叫びが聞こえては、また澄んだ金属のような音のみが響く。令嬢の瞼が徐々に下がって、怪訝な様子を見せる。
やがて叫びがすっかり収まって、光も消えた。令嬢は用心深く空間へと這い寄った。
「うおぉっ?」
這い出して来たガリヒョロの長身少年が、顔を上げて叫び声をあげた。先程までの雄叫びは、どうやらこの人のようだ。
根元がオレンジ寄りの赤毛だが、肩あたりまで伸ばしたスダレ髪は青黒い。言葉は令嬢と同じ国の言葉である。すっきりとした顔立ちで、緑色の瞳が結晶の光で深みを帯びていた。
「え、え、え」
令嬢がか細い声で戸惑っている。2人は互いを凝視する。
「そんな。失敗した」
絶望に染まる令嬢に、少年はズルズルと近づいた。令嬢は恐怖に慄き動けない。ほど近いところで少年は、後頭部を押さえてそろそろと膝立ちになる。
「何に失敗したのか知らんけど、元気出しなよ」
能天気そうな口調に、令嬢は眼を血走らせて叫ぶ。
「元気なんか出ません!出るはずないでしょう?」
「うう、そうですか」
少年は怯んだ。
「ようやく、ようやくこの地獄から抜け出せると思ったのに!」
恐ろしい見た目からは想像が出来ないような、美しく通る声だ。洞窟の中で跳ね返り、幾重にも響きあう。
「おおー。水琴窟に天使の歌声」
「何ですって?」
嬉しそうに上を向く少年に、令嬢は掴み掛かった。細くたおやかな指先には、桜貝のような形の良い爪を飾る。
「え、綺麗な声、ですね」
「綺麗な声?」
髪もおどろな令嬢は、毒気を抜かれたように身体を起こした。
「ええ。心が洗われるようです」
緑色の薄明かりは、闇へと誘う邪霊のように、優しげな少年の細面を照らす。
「あら」
令嬢は恥ずかしそうに手櫛で身繕いをする。少年は、ニコッとわらった。彼は乱れた髪のままである。令嬢は頬を染めて、上目遣いに少年を見る。
「あの」
少年は自分の頭をさすりながら、わずかに目の下を赤くした。
「何?」
「痛いですか」
「え?ああ、はい。痛いです」
「天井に頭をぶつけたの?」
「はい。扉を通ったら、いきなり天井が低くて」
「その」
2人はもじもじと見つめ合う。
「はい」
「ごめんなさい」
「え?なんで?」
少年には分からない。令嬢は困ったように柳眉を寄せる。少年の瞳には恋の灯が点った。
「悪霊に身体を明け渡す邪法を行なったのです」
「ん?」
恋の炎は鎮火した。
「わたくし、リモナ王国の第三王女シルビア・クラウディア・ローレン・カルディナーレと申します。リモナのシルビアとお見知りおきを」
令嬢は、すっと立ち上がり奇妙な動作を伴い名乗る。クネクネと身体を捩り、一音ごとに腕を上下しながら、顔を上左右にカクカクと動かす。緑の光と水琴窟の硬い音に彩られ、魑魅魍魎もかくやと蠢く様相だ。
「はあ」
少年はどうして良いか分からない。令嬢改めリモナのシルビア第三王女は、スカートをパタパタと払って口を開く。
「緑豊かに天高く、土は肥え川には魚、民は満ち足り道端の小鳥さえ丸く、わが王家では上も下も兄弟姉妹はみな麗しく、一芸に秀で、父母は賢い人格者」
立板に水のお国自慢は、何故か苦悶の表情で語られる。
「貴女もお美しいですよ」
少年は何となく慰めてみた。シルビアは一瞬嫌そうな顔をして、話を続ける。
「わたくしにあるものは、美しさのみ」
「自覚してんのかよ」
「それしかない」
「それもない奴もいんだよ」
「貴方もお美しくていらっしゃいましてよ?」
「え、ほんと?」
少年は思わず伸び上がる。まだ立ち上がってはいない。水琴窟は不規則な音を送ってくる。
「ええ。なぜ闇の色に染めなさるのか分かりかねますが、ダオーレンの髪にエメップの瞳、朝焼けの神そのものではありませぬか」
「だお?何のこと?」
聞き慣れない表現に少年が顔をしかめた。
「え?」
シルビアが表情を消す。
「え?」
少年の眉間には縦皺が寄る。
「時に少年」
「はい」
「そは、いずくより来たりしものぞ?」
「いず?いや、違いますよ、俺、百人町」
「ヒャクニンチョー国?聞かぬ国よの?」
「突然、難しいこと言い出してどうしました?」
「リモナ語があまりにも自然でらしたから、気安く話してしまいました」
「気安くて良いですよ」
「しかし、異国よりのお客人であれば」
少年はじっと姫を見る。シルビア姫は首を傾げた。さらり、と金の髪が流れる。少年の鼓動が速くなる。
「異国というか、多分、異世界ですね」
「異世界?では、そなた、悪霊か?」
シルビアの眼がキラキラと輝く。
「え、違いますよ。普通の高校生です」
「コーコーセーとは何か?」
「え?学校って解る?」
少年は動揺しているので、言葉遣いはめちゃくちゃである。シルビアは気にしない。
「学校なら分かる」
「俺のいた国では、だいたい18歳くらいまでの3年間通う学校があるんだよ」
「なるほど」
「ちゃんと生きてる人間の学校だからな?」
少年は念を押す。
「はぁ、左様でございますの?」
シルビアも言葉遣いが安定しなくなる。対応を決めかねているようだ。
「あの、でしたら、やはり失敗したのですわ」
「そうだろうよ。俺は悪霊じゃないからな」
「困ったわ。詰みだわ。詰められちゃったんだわ」
シルビアが口を尖らせる。今は洞窟の光で緑がかってはいるが、赤く可愛らしい唇だと予想される。少年の視線は吸い寄せられた。
「あのね」
「はい」
「体は要らないのよ?」
「え、ちょっと」
少年が青ざめた。
「わたくしの代わりにこの身体を動かして下さる魂なら、悪霊でも動物霊でも何だってよかったのよ」
「ちょっと聞きたいんだけど」
少年はおずおずと聞く。
「何かしら」
「成功してたら、シルビア王女様の魂は?どうなっていたんです?」
「悪霊になるか、消えるかしてたと思うわ」
投げやりになったからなのか、王女は砕けた口調に決めたようだ。少年もつられて気安くなる。足をやや広げて、洞窟の床に座り直した。王女は立ったままだ。
「魂の抜けた身体を動かしておくのは、どうして?」
「そりゃあなた、家族も国民も、悲しませたくはないでしょう?」
「いや。悪霊に成り代わられるほうが悲しむよ!」
「気づかれなければ?」
「気づくでしょ。家族は。仲良かったんでしょ?」
シルビアは、お国自慢とお家自慢をしていた。悲しませたくない家族がいる。
「ええ」
「悲しませたくねぇんなら、悪霊なんかと交代しちゃダメでしょうが」
「そんなことないわ!わたくしよりは、よっぽど」
王女は唇を噛んで言葉尻を飲み込んだ。
「よっぽど、なに?」
「王女らしく振る舞えるわよ」
「悪霊や動物霊が?」
王女はうっ、と唸って押し黙る。目を閉じて、瞑想スタイルをとった。
「そうやって誤魔化し続けて行き着いたのが悪霊召喚か」
「身体ごと転移してきたから、失敗ですけど」
「うん、まあ、身体ごとっていうより、そもそも悪霊じゃあねぇんだけどな」
シルビア王女は眼を開けた。充血が少しおさまっていた。
「あ、召喚の扉を回収しなくちゃ」
「そう言えば、ずいぶんと頑丈そうな扉だったけど、ひとりで運んだの?」
「用が済んだら布に戻りますのよ」
「ふうん?便利だね。じゃ、俺が帰ったら片付けるんだね」
「えっ?帰る?」
シルビアが狐につままれたような顔をする。
「いや、帰るけど」
「でも、喚ぶ扉なのよ?旅立つ扉じゃないわ」
「じゃあ、そっち出してよ」
「出来ないわ」
「ん?」
「え?」
シルビアは大きく息を吐き出した。
「出来るとしたら、リモナ王城の禁書庫に忍び込んで、禁術記録書から探し出して、材料を集めて、」
「ちょっと!ええっ?なんだよ!」
少年は不機嫌を露わにした。
「寿命が来るまでには、帰れるかしらね?」
「シルビアーっ!王女!さま!」
少年は思わず叫ぶ。シルビアは疲れた視線をチラリと少年に寄越すと、水琴窟へと這い込んだ。
「あら?」
完全に姿が隠れたすぐ後に、戸惑う声が漏れてきた。
「今度は何?」
少年は呆れ顔で狭い空間を覗き込む。
「おっ?消えてねぇ」
「変ね。まだ出てくるのかしら?」
薄い夜着一枚の少女が、四つん這いで扉を見ている。少年は、王女の臀部を見ないように眼を逸らす。
「今度こそ悪霊よね?」
「やめてくれよ!けど、こっから帰れるんじゃね」
「そういう扉じゃないのよ」
その時、かちゃりと音がして、扉が開いた。まずは標準的な少年らしい腕が見えて、次第に黒い短髪の少年の全身が現れた。
「リクちゃん?」
黒髪の少年が言う。
「え?なにこれ?俺の部屋洞窟?てか美少女」
少年はTシャツに短パンで、戸口に留まっていた。リクと呼ばれた緑目の少年は、黒髪の少年を凝視する。
「ヒャクニンチョー?」
「いや、鶴巻町だな」
「違う場所なの?」
「違う」
シルビアがごそごそと場所を空ける。リク少年は姫の隣に這い込む。
「キョーくん?久しぶり。小さくなった?」
「は?リクちゃんこそ、巨大化した?」
こちら側からは、扉は大人の膝くらいの高さである。向こう側は全身が見えている。この差により、無防備に扉を潜ったリク少年は、水琴窟の天井に頭をぶつけたのである。
「じゃあ、帰るよ」
この機を逃す手はない。
「まあっ、帰るの?」
シルビアは涙目だ。
「帰るよ。ここですることもねぇし」
「そ、それはそうよね?」
「じゃあ、諦めて頑張れよ」
「嫌よ!」
キョー少年は目をぱちくりしている。
「わたくしが王女なんて、荷が重すぎます!」
「何?愁嘆場?」
キョー少年が閉口する。
「我儘やめなよ」
リク少年は諭すように言う。
「王家の皆に肩を並べる能力もないのに、民からはシルビア姫は何の才能があるのだろう、って期待されて」
「仕方ないだろ、何もねぇなら」
「家族は腫れ物に触るような扱いをしてくるし」
「堂々としてろよ」
「何のために?わたくしが国や王家にできることなどないのですよ」
リク少年は、憐れむような眼を向けた。
「でもさ、家族はシルビア王女様が大事だし、シルビア王女様は家族を悲しませたくはねぇんでしょ」
「そうですけど」
「そしたら、もうそれだけでいいんじゃねぇかな」
「そんなこと」
シルビアは不服そうだ。
「悪霊召喚も失敗したんだろ?」
「そうよ。そうなのよ」
「だからさ、もう諦めなよ」
シルビアは下唇を突き出した。その幼児的な行動に、リクは思わず笑ってしまう。すると、シルビアはその呑気な笑顔に突然曇天が晴れたような衝撃を受けた。
励ましと期待と、気休めと。家族の笑顔も民の歓声も、緊張を孕むものだった。
「何かあるわよ」
「これからだぞ」
「その美しさなら、良い縁談が来るだろう」
「シルビア王女様は、努力家でいらっしゃる」
どうせダメだと、実際には成功しないと、愛情はあれども見放されているような。
「いっそ、嫌われていたら良かったのよ」
キョー少年は扉を閉めようとした。
「めんどくせえ」
ぼそりと吐き出されるキョーの悪態に、リク少年は慌てて扉を掴む。
「待てよ!」
「リクちゃん、早くこっちもどれよ」
「うん、ちょっとだけ待って」
リク少年はシルビア王女の言葉に、もう自虐の響きが含まれ無くなったことを感じ取っていた。嫌われていれば気楽だったのだ。愛されているから、不甲斐ない我が身に苦しんでいたのである。
「シルビア王女様は、むしろ頑張らなければよかったんだよ」
「ふふっ」
リクの言葉を聞いて、シルビアは憑き物が落ちたかのように微笑んだ。キョー少年の家から漏れるLEDの明かりで、金の髪は女神のようだ。くっきりと見えるその姿に、リク少年は見惚れてしまう。
「そうね。出来ることして、生きて見ます」
「うん、それがいいよ」
「ふふ」
「へへ」
2人は恥ずかしそうに視線を交わす。キョー少年は、再び扉を閉めようとした。無表情になっている。
「俺さ」
「ええ、なに?」
「母さんが俺の住んでる国の人じゃねぇんだ」
「あら、そうなの」
「うん。そういう人も増えてきてるけど、やっぱり少なくてね」
「まあ」
「俺の住んでる国は、みんな黒髪黒目でさ」
「あ、それで」
シルビアはリクの生え際を見る。赤毛だ。眉も見る。眉まで染めているようだ。まつ毛も黒くしている。
「うん」
沈黙が落ちた。リクは穏やかに笑っている。
「自分じゃどうしようもないことって、あるわね」
「ある」
「元の色、素敵よ」
「黒も似合うだろ?」
正面ではキョー少年がじわじわと扉を閉めようとしている。リクの手は扉を押さえて抵抗する。
「そうね、言われて見れば」
「あとさ」
「なあに」
リクは俯き、両手を片目に当てた。扉は足で押さえた。
それからリクは、おもむろに顔をあげる。
「んんっ?」
シルビアはリクに顔を近づけた。リクは前髪を掻き分ける。指先には円くて緑色の何かが載っていた。
「リク、あなた、目の色が」
「カラコンて言うんだ」
「黒い」
リクは赤毛黒目のハーフだったのである。緑目も黒髪もファッションだ。
「ちょっとあなた」
シルビア王女の声が尖る。
「待って、待って、怒るなよ。ホントに虐めてくる奴もいるし」
「いるから何」
「ま、気にはなるけどさ」
リクはまたニコリと笑った。シルビアは不満げに黒い瞳と緑色のカラコンを見比べている。
「どうにもならんことに気を取られるのは、無駄だろ」
「そうね」
「シルビア王女様だって、そうだろ?」
「ええ」
「大事な人たちもいるよな?」
「いるわ」
「俺もさ」
シルビア王女は盛大に溜め息をつく。
「はーっ、呆れちゃうわね!」
「よく言われる」
「生きてて楽しそうだわ」
「それも良く言われる」
「まあ、嫌なひと」
シルビアは優しく笑った。リクは息を呑み、キョーは力を込めて扉を閉め始める。
「お前、もうそっちにいろよ!おばさん達には言っとくからさあ!」
「止めろよ!帰るから!」
リクは上半身をあちら側に捩じ込んだ。
「待って!もう少し」
リクが着ているTシャツの裾をシルビアは掴む。
「あっ、伸びるからやめて」
「不思議な布ね?」
シルビアの目が好奇心に輝く。リクの瞳に恋の炎が戻ってきた。
「こっちにはねぇの?」
上半身を向こうに残して這いつくばったまま、リクは顔をこちら側に向けた。髪は耳にかけて、緩やかに首の後ろへと流れていた。シルビアはぼおっとその姿を見つめる。
「ないわ」
声は夢見心地である。
「いい加減にしてくれ」
キョーが冷たい声でいう。
「じゃあさ、扉を開けたままにしといたら」
「おい、俺の部屋はどうなるんだよ」
「うっ」
2人の間に気まずい静寂が訪れた。
「ねえ」
口を開いたのはシルビア王女だ。
「もう一つ、予備があるの」
夜着の隠しポケットから、ひらりと黒い布を取り出す。真ん中には、灰色の糸で扉が刺繍されていた。
「えっ、ここにもう一つは無理だよ」
「そうねえ」
「それに、また俺が住んでる国に繋がるとは限らんだろ」
「試す価値はあるわ」
リクはゴクリと唾を呑む。
「ええと」
「リクちゃん、俺もそう思う」
「何よ?」
金のまつ毛が洞窟の風で微かに揺れた。
「シルビア王女様」
「シルビアでよろしくてよ?」
「そう?じゃ、シルビア」
「ええ、何かしら」
「シルビアさあ、召喚扉、何回試したの?」
シルビア王女の目が泳ぐ。
「だって、わたくし、どうしても逃げ出したくて」
「人、どころか悪霊に押し付けてまで?」
「そうよ!」
シルビアは涙目だ。
「もう反省したわよ!」
「でもまたやろうとしたよね?」
「キョーの部屋をお返ししないといけませんしね?」
「次は悪霊が出てくるかもしれねぇのに?」
シルビアは鼻の穴を窄める。
「そうねえ」
「そしたら、シルビアの魂は悪霊になるか消えちまうかなんだろ?」
「多分成功しないわよ」
「成功したら、もう会えねぇ」
「それはダメ!」
「俺も嫌だ」
リクはそろそろ首が痛くなってきたらしく、少し苦しそうである。
「リクちゃん、さっさと決めてくれ」
「待ってくれよ。行き来出来る扉はここだけなんだから」
「リクちゃんの部屋でやってくれ」
「一旦閉じてみる?」
シルビアが提案した。
「そうしろよ」
キョーは疲れ切っている。
「こっちからも開けるかもしれないわよ?」
「そうだよ」
リクはキョーとシルビアを交互に見る。
「わかったよ」
「帰れなかったら、おばさんたちに言っとく」
「信じねぇだろ。怒られるぞ」
「そんでも、一応言うさ」
リクは観念して後退る。扉は閉じられたが、まだ消えずに残っていた。
シルビアがそっとリクの肩に触れた。リクはちらりとシルビアを見て、微かに頬を緩めた。
「開けるよ」
「ええ。願いを込めてみたら?」
「当てずっぽうかよ!」
「魔法は願いの力なのよ」
「そうなんだ」
「そうなのよ」
リクはリラックスして扉に手をかける。そして、気楽な様子で開いた。
「おお!成功だ」
「まあ、キョーの家とはかなり違うのね」
キョー少年の家は、洋風だった。リク少年の家は、和風である。リクは一旦扉を閉じ、場所を譲る。
「シルビア、開けてみてくれ」
「今の場所に?」
「ああ、頼む」
「よろしくてよ?」
シルビアが集中する。小さな白い手が扉をこちら側へと開ける。
「見ろよ、シルビア」
「ええ、成功ね」
「なあ、これ、旅立つ扉ってやつなんじゃ?」
「違うわ。旅立つための扉なら、あちら側からは開けないもの」
リクは扉の向こう側に見えている、自分の家を覗き込む。
「これから帰るから、しばらく待っても扉が開かないなら、そっちから開けてみて?」
「ええ」
2人はすっかり打ち解けた微笑みを交わす。リクが扉の向こうへ消えて、すぐにまた扉から現れた。今度はちゃんと四つん這いになって、頭をぶつけずに通り抜けた。
「成功ね!」
「シルビアも俺のいる国に来てみない?」
「行ってみるわ!」
「万が一扉が消えても、予備があるんだろ?」
シルビアは躊躇した。
「条件があるのよ」
「場所?時間?」
「この音がする場所よ」
「時間は?」
「いつでも」
「他に条件は?」
「ないわ」
水琴窟なら、リクが住む国にも存在している。
「わかった。あっちにもあるから大丈夫だよ」
シルビアが破顔する。リクは胸がいっぱいになってしまって、無意味に髪の毛を撫でつけた。
シルビアが手を伸ばす。何かを持っている。
「これ、魔法の髪紐よ」
「くれるの?」
「ええ。初級で作れる魔法道具なんだけど、結んだ人が解くまで、けして落ちたりしないのよ」
リクが声を立てて笑う。
「シルビアの髪、するってリボンや紐は落ちそうだよな」
「そうなの!すぐ解けちゃうの」
シルビアも笑う。2人はしばらく幸せそうに笑っていた。水琴窟の涼やかな音が、開いた扉のあちらとこちらに、近く遠く広がってゆく。
「シルビア」
「なあに?リク」
「会えて良かった」
「ええ、出会えて良かった」
リクは髪紐を受け取り、バサバサの髪をひとつに括った。
「ありがとう」
2人はまたふふっと忍び笑いを溢す。今度はリクが手を伸ばし、サラサラの金髪に指を通した。静かに時が過ぎてゆく。見つめ合う瞳は溶け合って、水琴の音まで消えてしまった。鼓動だけがふたつ。それから鼓動はひとつに重なって、恥ずかしそうに手を繋ぐ。
「おいで」
「ええ」
誰もいない水琴窟にぽつんと残された扉は、すぐにまた開いた。
「この扉、どのくらい持つの?」
「分からないわ。偶然の産物だもの」
「ははっ、そうだった」
あんなに眼を血走らせて追い詰められていた姫とは思えない。シルビアはあっけらかんと言い放つ。
「でも、研究してみるわよ。ずっと使えるように」
「無理なくね?」
「ええ。大賢者さまにも相談してみる」
「ええっ、これ禁術だろ?処罰されね?」
「これは偶然だから、いいのよ」
シルビアは図々しさを身につけた。少女らしい傲慢さは、美しいシルビアに生命力という魅力を加えた。リクは少年らしく、その無邪気な逞しさに益々心を囚われる。
「そっか。俺は魔法なんか使えないけど、応援してる」
「どうやって?」
「気持ちだけじゃだめかな?」
「まあ。魔法は願いの力よ?気持ちがあるなら、リクもきっと使えるようになるわ」
「そしたら、願えば、この扉もずっとあるんじゃね?」
2人の顔にパッと灯が点る。そして、その通りになった。2人がそれぞれの国元を想い、互いを慕い続け、共に生き、願いは次世代にも受け継がれることとなった。2人の魔法は扉だけだったけれど、そのままずっと後の子孫の代まで残っていた。
お読みくださりありがとうございます