11 トラウマ
――アリスの号泣は、しばらく続いた。
そして、シクロもまた、アリスの肩を強く掴んだまま、涙を零していた。
そんな二人を見守るように、ミストとカリムは周辺への警戒を続けていた。
ここはダンジョン。魔物に襲撃を受ける危険性もある。そんな場所で無防備に座り込み、泣き続けているのだから。必要な措置である。
そうして――やがてシクロが立ち直り。それに合わせるように、アリスが涙を拭い、どうにか泣き止んで。
「……ごめんなさい、お兄ちゃん」
アリスが、謝罪の言葉を口にした。
「いや。……謝らなくていい。アリスを許せないのは、ボクの問題だからな」
シクロは気まずそうに視線を逸らしながら言う。
「最初から、ちゃんと話せればよかった。そうすれば――危ない橋を渡ることも無かったんだ。これは、ボクが自分で自分のことを管理できない子どもだったのが悪かったんだ」
言いながら――シクロは、随分と冷静になった頭で自分を分析する。
確かにシクロは、アリスのことを恨んでいる。許せないと思っている。
だが――家族として積み重ねた時間は嘘じゃない。そして、だからこそアリスの言葉が――冒険者に広まったシクロの悪評が、アリスの口下手な部分が出たせいだと理解できる。
そう。考えれば、なんということは無い。単に運命の歯車の噛み合いが悪かっただけ。あるいは――妹可愛さに、厳しく注意、矯正しなかった自分にも責任がある。
だから――アリスを、こんなにも恨む必要が無いことは、理性で理解できる。
そして、理性と感情のギャップを埋めることさえ出来れば、きっといつか許せる日が来るだろう、とも分かる。
そんな、考えてみれば分かるようなことさえ分からなかった。
感情のままに――恨み、怒り、そして恐怖のままに、アリスを見た途端我を忘れてしまった。
そんな自分の子供っぽさが、そもそも良くなかったのだと、今ならシクロも理解できていた。
大人になれ、と誰かに言われれば反発していただろう。
けれどシクロは――自分で、自分の子供っぽさに気付いた。直したい、変えたいと感じた。
故に、少なくともアリスのことに関しては、シクロは冷静でいられるようになった。
「とりあえず――いつか、気持ちが落ち着くまで。それまで待っていてくれないか。そうすれば、多分、元通りに戻れると思うから」
「――うんっ! お兄ちゃんがそうして欲しいなら、私、待ってるねっ!」
シクロから、色良い返事を貰えたことで、アリスはニコリと笑顔を浮かべて答えた。
だが――その笑顔を見た時。シクロの脳裏に、思わぬ記憶が蘇る。
『さっさと歩けよ、クズがよォッ!』
『無能は黙ってろッ!!』
『犯罪者にやる報酬なんざ、そんだけありゃあ十分だろうが! 口答えしてんじゃねぇ!』
それは――まだ奈落に落ちて、時計使いの真の力に気づく前の記憶。
冒険者達に無碍に扱われ、時に暴力を振るわれた日々のこと。
どうしてこんな惨めな思いをしなければいけないのか――そう思う度に、シクロは考えざるをえなかった。
(どうしてアリスは――ボクの悪い噂を広めたんだろう?)
最初は、そんなのは何かの間違いだと信じていた。
しかし――限界ギリギリまで痛めつけられ、苦しい思いをする度に、そんな理性が削られていく。
やがて――あの自分に甘えてくれる可愛い妹の姿さえ、嘘だったのではないかと疑ってしまう。
そうして過ごすうちに、疑いは真実に変わっていく。
アリスは――本当は、自分のことなどどうでも良かったのだ。
だから家を出て、王都のギルドマスターの養子になった。過去と決別する為に、あえて兄の悪口を言った。
そんな――健常で正常な状態であれば思いもしないような考えに支配される。
そうして妹のことを――あの笑顔を思い返すたび。深い憎悪に心が包まれるようになってしまった。
今、シクロは――理性では、違うと断言出来るのに。
なのに――アリスの笑顔を見た途端。
あの日々の記憶が蘇り……身体に悪寒が走る。
「うッ……ゲェッ……!!」
そして――シクロはその場で蹲り、込み上げる不快感を抑えきれず、胃の中の物を吐き出してしまう。
「げほっ、ゴホッ……!!」
「ご主人さまっ!?」
突然体調を崩したようにしか見えないシクロに、慌ててミストが駆け寄り、その背中をさする。
そしてアリスは、突如様子がおかしくなったシクロを見て、困惑する。
「お、お兄ちゃん……っ!? ど、どうしたのっ!?」
アリスがシクロに近寄ろうとする。
しかし――それを見たシクロは。
まるで怯えるように、身体をビクリと震わせた。
「な……なんで……ッ!? ゲホ……ッ!」
シクロは自分で自分の身体が思うように支配できないことに困惑し、混乱していた。
そんなシクロをどうにか落ち着けようとするミスト。
そしてシクロの怯えた様子を見て、思考が止まり硬直してしまうアリス。
――そんな様子を見ながら、カリムだけが状況を理解したように、深刻そうな表情で口を開く。
「……厄介なことになったな」
「カリムさん? ご主人さまの症状が分かるんですか!?」
ミストが、希望に縋るようにカリムに問う。
「多分やけどな。――冒険者に、たまにあるんや。例えばオオカミに似た魔物に殺されかけた冒険者が、それがトラウマになって身動きも取れんようになる。魔物どころか普通の野生のオオカミ、犬っころを見ても怯えて戦えへんようになる。シクロはんの反応が……そういう冒険者が陥る病気とおんなじように見えるんや」
「治療法は!? どうすれば、ご主人さまは――」
ミストの問いに、カリムは首を横に振る。
「心の問題やからな。死ぬまで一生そのままのヤツもおれば、ひょんなことから元に戻るやつもおる。何にせよ――ウチらに出来ることはあらへんな」
「そんな……」
カリムの言葉に絶望したのは、ミストよりも先にアリスであった。
「じゃあ、お兄ちゃんは……ずっと、私と、元通りにはなれないの?」
「……その可能性はあるな」
カリムの言葉で、その場に暗く重い空気が漂う。
そんな中、沈黙を破るように、シクロが拳を地面に打ち付ける。
「……ちくしょうッ! なんで、なんでなんだよ……ッ!!」
それは、無念の滲むような声であった。
「なんで……ボクはッ! こんなにも弱いんだよ……ッ!! あんな奴ら、もう怖くも何ともないはずなのに……ッ! 頭では、分かってるのに……ッ!!」
シクロは苦しそうに、涙を流す。
「なんでなんだよぉ……っ!!」
その問いに答えられる者は、誰一人として居なかった。