記事9「牧原愛莉について」
20XX/08/31 01:30
記事9「牧原愛莉について」
今のはなんだったんだろう。
こよちゃんやサルと一緒にいるときには感じない、生々しいヌメっとした感覚があった。
これが倉橋レキなのか。
僕は呆然として、駐輪場に自転車を取りに行った。
午後5時すぎ。まだ辺りは明るい。
自転車にまたがって、今のやり取りを思い出そうとする。
一体、僕はなぜ、急に平野さんを喜ばそうとしたのだろう?
平野さんの反応を見て、自分を好きにさせようと仕向けたのだろう?
僕は、平野さんのことが好き?
人間として平野さんのことは好きだけど、恋愛感情ではない。
じゃあ、なんで?
「レキ!」
急に横から呼びかけられた。
自転車のブレーキをかける。少し行き過ぎたので、振り返ると、高校生ぐらいのばっちりメイクをした綺麗な女の子が、こちらを驚いた顔をして見ている。
「なんですか?」
「ええ…。本当なんだ…。本当に、私のこと覚えてない?」
僕はピンときた。そして、約束をすっぽかしそうになっていたことに気づいた。
「もしかして…、牧原…さん?」
「うん」
「ああ、ごめんなさい。すっかり忘れてて…」
僕は約束のことを忘れていた、と伝えようとしたが、
「まあ、後遺症ならしょうがないよね。そのことも含めて、ちょっと話そうよ。レキ、ご飯食べていくよね?」と記憶喪失のことに話が変わっていて、牧原さんが気にしていない様子なのでそのままスルーした。
「いや、夕飯は家の人が作ってくれるから、お茶でも」
「分かった。じゃあ、最近できたカフェでも行こうか」
僕は自転車を降りて手で引きながら、少し前を歩く牧原さんのあとをついて行った。
牧原さんからいい香りが流れてくる。おしゃれで、綺麗で、スタイルがよくて、こんな子と僕が付きあっていたというのが、ちょっと想像つかない。
「ここが最近できたアジアンカフェ。入ろう」
僕は自転車をお店の駐輪場に停めて、中に入る。
この地方にこんな雰囲気のいいカフェがあったことに驚く。
店員に案内されて、僕らは席に着く。
藤椅子のような唐草模様のソファに腰掛ける。
僕は牧原さんを見る。目は大きいわけではないが、小顔にツンと立った小高い鼻に小さい口。それらの良素材を上手なメイクで彩っている。こよちゃんのメイク術とは比べ物にならないぐらい洗練されたメイク。
メイクの結果、
・都会的
・気が強そう
・綺麗
という印象になる。
そして比較的低い声で淡々と話す。いかにも『自然体』。
僕が本当にこんな垢抜けたギャルと付きあっていたのか?
二人でメニューを見る。
「レキは何にする?」
この店は全般的に高い。僕は一番安いものを探す。
「これ、アイスタピオカウーロンミルクティ」
「ここ、シフォンケーキおいしいから、ケーキセットにしなよ」
「え…。う、うん。じゃあ…」
一番安いケーキセットで1,200円…。正直、きついけど…。
「鉄観音茶シフォンケーキのケーキセットにしようかな」
「すいませーん!」
牧原さんが店員を呼ぶ。
「アイスタピオカウーロンミルクティとケーキセットで鉄観音茶シフォン。これ2セットでお願いします」
牧原さんがテキパキと注文をする。
注文を受けた店員が去る。
「あ、レキ、私がプレゼントした服着てる」
牧原さんは僕のTシャツを指差して少し笑う。
「あ、これ、牧原さんが僕にくれたんですか?」
「レキって『僕』って言う人だっけ?」
「たしか一人称、『俺』だったんですよね」
「え、そういう記憶も全部ないの? え、記憶喪失ってそもそもどういうこと? 教えてよ」
「記憶喪失って言っても、基本的には―」
6人と彼らにまつわる記憶がない話をする。僕が話している最中、牧原さんのスマホはひっきりなしに着信してバイブレーションで震えていた。牧原さんはちょくちょくスマホをチェックしながら、「ふーん」とか「へぇー」とか興味なさげに相槌を打った。
《倉橋レキくん、チャンスだよ。アレ、こういうところをとっかかりにいつもやってたんでしょ? 平野さんは大人しいから、ついやりそうになったの? 牧原さんはイケイケだからびびって、とりあえず様子みてるの? 君ならではのマウンティングかな。君って、なかなか姑息だねぇ、結局》
しかし、僕が次の発言をすると、牧原さんは真剣な顔になった。
「お医者さんが言うには、外傷性ではなく、精神的な理由で6人の記憶がないんだろうと。だから、恐らく、その6人がなんらかの原因を知ってるんじゃないかと思ってて」
「え、なに? つまり、私もその6人のうちの1人だから、私も自殺しようとした理由だって言いたいの?」
牧原さんは語気鋭く質問する。目つきがきつい。
「いや、別にその6人のせいで自殺しようとしたとか、そういうことじゃない。単純に自分が死のうとした理由が分からないから、何かしら手がかりがつかめないかと思って」
「そんなこと言われても、私には見当すらつかない」
牧原さんは今日初めて表情を見せていた。眉間には僕に示そうとする怒りが宿っているものの、頬から下、特に口元付近には制御できない明らかな恐怖が見えた。
その口を半開きにしたおぼつかない表情を見て、僕は倉橋レキが出てこようとするのを、必死になって自制した。
なぜだか分からないけど、
「チャンスだ!」
「アレやっちゃえよ!」
と頭の中で倉橋レキが僕を囃し立てる。
僕が倉橋レキを抑えこむことに必死すぎて、変なだんまりが生まれた。
そのとき、
「おまたせしましたぁ~」と店員さんがケーキセットを持ってきた。
助かった、と僕は安堵した。
牧原さんがスマホでケーキセットの写真を撮る。
「インスタ?」
「そ。女子は大変なんですよ。レキはSNSやってなかったよね?」
「多分。覚えてないけど」
「レキは絶対、こういう非合理的なことやらないと思う」
「そうなの?」
「うん。だってSNSとかってさ、楽しいんだけどね。でもどうしたってさ、自分のことよく見せようって盛りすぎたり、逆にね、本当はそんなに悪いわけじゃないのに、自分のこと、他人のこと、悪く言い過ぎたり。なんて言うのかな、すごくもどかしいところがあるんだよね。まあ、一言で言うと非合理です。レキって、そういう無駄なことに労力使わないと思う」
牧原さんは話しているうちに、発声がリズミカルになっていった。
それにあわせて、表情が柔らかくなる。
「それは言えてると思う。SNSに限らず、自分をよく見せたい、本当の自分ではなくて、自分がこう見せたいって自分をついつい演じてしまう、ってのはよくあることだと思う。それが悪いことではないと思うけど、生きにくいは生きにくいよね」
「そう! そうなんだよ! 私さ、結構その傾向が強くって、…って、これじゃ、なんか前みたいだよね? って覚えてないんだったね」
「前はこういう会話してたの?」
「うん。結構私の悩みとか、レキに話しまくってた。それでかなり助かってたというか、ストレス発散できてたというか。私たち、そういう関係だったんです」
「すごく良好な関係だね。なんだ、僕って牧原さんにとって問題ない人間だったんだね。ちょっと安心した」
「いや…。必ずしもそうとは…」
「え? どういうこと?」
「いや、別にレキが悪いってわけではないんだよ。そこは誤解しないで聞いてね? なんかさ、言いづらいんだけどさ。私が色々レキに相談するでしょ? でも、なぜかね、相談した内容が『暴露bot』に書かれるというか」
「『暴露bot』ってなに?」
「ああ、それも覚えてないんだ…。『天志館高校暴露bot』っていうTwitterのアカウントがあってね、そのアカウントが実名で生徒たちの秘密を暴露していくの」
僕は、しばらく間を置いた。沈黙が不自然になってきたころ、
「え、つまり、僕が『暴露bot』をやってたって言いたいわけ?」
とあえて真顔で、でも口元には笑みを浮かべて問うた。
《倉橋レキくん、思い出してきたじゃないか。その思わせぶりな沈黙、すごくイイネ!》
「違う! 違う! そんな訳ないでしょ。そんな訳はないんだけどね、『暴露bot』抜きにしても、色々な悩みとかをぶっちゃけてスッキリする反面、レキにどんどん弱みを晒し続けることで、なんか返しきれない借金がたまっていくような怖さというか、窮屈さというか。あ…、でも誤解しないでね。私が好きで話しちゃうんだから。でもさ、私がレキに相談したりぶっちゃけたこと、他の誰かに喋ったりしてないよね?」
クールだと思っていた牧原さんが、急に早口になって、勝手に取り乱した。でも、机の上に組んだ手は微動だにしない。
「記憶がない」
僕はいかにも「心外だ」といった風に、今度は真顔で言い切った。
「あ、そっか。それ、便利だね。私も記憶なくなっちゃいたいよ…」
牧原さんは、薄っすらと笑ってドリンクのグラスに目を伏せた。
《倉橋レキくん。牧原さんはこんなに隙を見せてくれているのに、君が自殺未遂したっていう負い目を挽回できるぐらい隙を見せてくれているのに、君はチャンスをものにしないつもりなのかい?》
「牧原さんにどんな過去があるか分からない。だけど、牧原さんが積み上げてきたものが、牧原さんの築いてきた歴史が、今の魅力的な牧原さんを作ってるんだと思う。たとえば、さっきの『暴露bot』について話してたとき、一見取り乱してるように見えたけど、牧原さんは指先一つ動かさず話してたよね。それって、何があっても、揺るがない自分を持ってるからだよね」
「ズルイなぁ、レキは」
牧原さんは顔を上げ、唇を噛んで困ったように目を細めた。頬が上がった。
「でも、それすら演じてるとしたら、ちょっと怖いけどね」
「え…」
牧原さんの顔に急に不安がにじむ。
「本当は今日だってさ、僕が自殺未遂したから、でも付きあってた過去があるから、新学期前にそのグレーなところを清算しにきたんじゃない?」
「それは…」
「グレーなところをグレーにしておかないで、白黒決着つけようとする。そういうところ魅力的だと思う」
「それは嬉しいかも。でも、別れる必要は…」
牧原さんの声が上擦る。そして、僕のことを悲しげな上目遣いで見る。
しかし、牧原さんの目は僕を見ているようで、焦点があっていない。何か別のものを熱烈に見ている。つまり、アイツを見ていた。
アイツの声が聞こえてくる。
《倉橋レキくん、おめでとう。完全に元に戻れたね。アレ、取り戻したじゃないか。
自分の容姿を最大限活かした上で、
「褒めて」「落として」「褒めて」
適当にもっともらしいディテールもちゃちゃっと指摘して。そしたら大抵の人間は、なんとなく落ちるよね。うん、実に素晴らしかったよ》
牧原さんの表情―許しを乞うような、希望の光を見るような、何かを怖れているような、僕のことを期待しているような、色々な感情が見て取れる複雑な表情。
これはとても引き受けられない、と恐ろしくなった。
僕はふと我に帰る。
僕は取り憑かれていたようだ。
「いや、でも別れよう。そもそも、付きあっていたかどうかすら、僕は覚えてないけど。ほら、僕は自殺未遂したから、新学期、間違いなくイロモノ扱いだろうし。とにかく今までありがとう」
僕はわけの分からないお辞儀をした。
「え、なにいきなり…。怖いんだけど…」
牧原さんはあっけにとられたように目をパチパチさせる。
「そろそろ出ようか。遅くなるし」
僕は伝票を持って席を立った。
「え…」
牧原さんは慌ててあとについてくる。
伝票をカウンターに出す。
「お会計は、2,400円になります。別々で?」
「いいです。一緒で」
僕は財布から、こよちゃんから前借りした3,000円を出す。
「え、私払う」
牧原さんが財布をカバンから手早く出す。
「いいよ。僕が出すから」
「やだ」
「え?」
「やだ。やだ。やだ。やだ…」
牧原さんが駄々をこねる子どものように、「やだ」を無表情で連呼し始めた。
「分かった、じゃあ、割り勘にしよう」
すると牧原さんは店員さんに、
「はい、これで」
と2,400円ちょうどを渡して足早に店を出る。
僕は牧原さんの背に向けて、
「ねえ、これ1,200円」と呼びかけると、振り向いた牧原さんが泣き出した。
牧原さんは強く握った両手を胸元に掲げて、目をぎゅっと閉じて声を立てずに泣いている。
「どうしたの? なんかごめん…」
「うー、やっぱり別れたくない…」
「そもそも別れようとしてたんじゃないの?」
「そうだけど…。なんか自分が浅ましいと思って…」
「そんなことないよ。帰ろう? 送っていくから」
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