記事8「牧原愛莉について」
20XX/08/31 00:49
記事8「牧原愛莉について」
突然のライン。
『レキ、久しぶり。牧原だけど。色々あったみたいだね。大丈夫かい?』
僕はスマホのデータに残っていた写真を見ながら、アイスを食べているこよちゃんに確認する。
「えーっと、この人が牧原…牧原愛莉さん?」
「うん、たしかそう。これいつ撮ったの?」
食べ終えたアイスの棒を口にくわえながら、こよちゃんは真顔で食い入るように写真を見ている。
「いや、覚えてないから聞いてるんだけど…」
「アハハ、そっか! 本当に覚えてないんだね。アハハ、すばらしいじょー!」
一転、こよちゃんは笑い転げながら、なし崩れるように僕にもたれかかり、僕のわき腹をこちょこちょくすぐってくる。なめくじみたいな動き。くすぐったくて、思わず引いた僕の腕がこよちゃんの顔に触れる。
「痛ぁ!」
こよちゃんが鋭く叫んで、頬を押さえている。
「どうしたの?」
「アイスの棒が頬にグイってなった」
こよちゃんは頬を押さえて、泣きながら笑った。こういう素の姿、アホアホな感じ、こよちゃんのファンに見せてあげたい。やはり幻滅するんだろうか?
「ごめん。てか、その棒捨てなさい」
「はぁーい」
「でもさ、この写真、本当に付きあってたの? って疑うぐらい楽しそうじゃないね」
「そう思うでごんす! ていうか、なんで今頃連絡してきたんだろう」
こよちゃんは神妙な顔をして、首をかしげた。
「まあ、とりあえず返事をしないとね」
僕はラインに文字を入力する。
『お久しぶりです。と言いたいところなのですが、あいにく事故の後遺症で数名に関する記憶がありません。牧原さんもそのうちの1人です。そろそろ新学期ですが、よろしくお願いします』
しばらくして牧原さんから返事が来る。
『え…。ちょっと意味が分からないんだけど…。とりあえず、1回会おうよ。明日とか大丈夫?』
こよちゃんは僕のスマホをのぞきながら、
「えー、会わなくていいと思うけど…」と呟く。
「ごめん。牧原さんは記憶がない6人のうちの1人だから、なぜ記憶をなくしたのか、会って理由を確かめてみたいんだ」
「本当にごめんだよ。まあ、いーですよっ、レキくんが行きたいなら…。プイッ!」
「プイッ!って初めて聞いた。こよちゃんって、『ガルちゃん』とかで叩かれそうだよね」
「なにそれ? ひっどーい! プイッ! プイッ! プイッ!」
こよちゃんは何度も顔をあさっての方向に向けては戻すを繰り返した。
ところで…
あれ? なんでごめんって言ったんだ?
最近、こよちゃんと仲良くなった気がする。
こよちゃんは記憶喪失直後の頃よりも僕を慕ってくる。それに伴って、なぜだか分からないけど、こよちゃんの行動全般がとても幼くなった、気がする。僕もなんとなく感じていた壁のようなものがなくなり、お互い軽口を言いあうようになった。
家にいると自然でいられて気楽なので、本音を言えば、わざわざ牧原さんに会いに行きたくない。こよちゃんと仲良くなるにつれ、記憶喪失のことを少しずつ忘れることができたのに。
新学期がいよいよ近づいてきて、学校に行くのが不安になり、記憶のない4人のことが怖くなってきた。
だけど、東京の大学に行きたいから、学校に行かないわけにはいかない。
こよちゃんには、牧原さんの記憶がなくなった理由を知りたいから牧原さんに会うと言ったけど、ちょっと違う。本当は、新学期を迎える前に学校での状況を少しでもよくしたいだけ。
やっぱり学校に行きたくない。
記憶をなくした6人のうち、2人であるこよちゃんと父に関しては、自殺につながるようなことはなさそう。となると、学校。学校の記憶のない4人がキーを握っているに違いない。
サルや、こよちゃんから聞いた話で浮かび上がる倉橋レキはなかなかの嫌なやつ。
だからきっと、倉橋レキはその4人にいじめられていたんじゃないか?
これが僕の推理である。
そういえば、最近、倉橋レキのことを考えないようにしている。
なんで?
→倉橋レキについて出てくる情報が全部微妙だから。
当初、6人の記憶がなくなっている、その原因を解明しないと、と焦っていた。
原因が分からないと、また死のうとしてしまいそうで怖かったから。
でも、日常が穏やかすぎて、色々なことがぼやけてかすんでしまう。
そんなかすみの中で、こよちゃんの声が遠くから響く。
「でもね、記憶戻らなくていいから」
「だってね、また死のうとしたら、嫌だから。私ね、それは耐えられないの。私たちは2人で1つだから。どっちかが欠けたら、いけないんだから…」
記憶は戻ったほうがいいのか、戻らないほうがいいのか。
僕はまだ分からないでいる。ただ、戻らないという選択肢が存在するのか、そこが一番疑わしい。
となると?
その翌日、僕はバイト後に牧原さんと雨立橋で会うことになった。
こよちゃんが作ってくれた朝食兼昼食のチャーハンを食べてからバイトに行った。
今はバイト中。
雨立橋のクレープ屋で働き始めて2週間ちょっと。今日で5回目の勤務。
同じクラスの女子、平野詩菜がたまたま一緒の店で働いている。
平野さんの記憶はある。
ただ、あるといっても平野さん自体がクラスであまり目立つほうではなかったので、顔と名前が一致する程度の記憶にすぎない。
「平野さん、ツナレタスクレープってマヨソースかけるだけでよかったっけ?」
僕が平野さんに尋ねる。平野さんは卵を溶いていた手を止めて、材料が入っている後ろの棚に手を伸ばす。
「はい、ホースラディッシュ。これも少し混ぜてあげて」
「あー、そうだった。助かった、ありがとう。平野さんがいてくれて心強いよ」
エプロン姿の平野さんがはにかんだように微笑む。平野さんは黒縁のメガネをかけていて、いつも髪を後ろに束ねている。
「ツナレタスクレープとかほとんど出ないもんね。あと、あんまり出ないマイナーメニューと言えば、チリタコスアボカドクレープかな。これはチリソースの上にアボカドと砕いた『ドンタコス』」を振って、最後にサワークリームを一つまみ入れたらオッケーだよ」
平野さんが材料の位置を指差しながら丁寧に教えてくれる。声がいきいきしている。
バイトを始めてから、平野さんとシフトが被ったのは今日で3回目。
初日、平野さんは僕と会話しなかった。目すらほとんどあわなかったと思う。
2回目、仕事のことについて話すようになり、3回目の今日、よく話すようになっている。
「バイト始めて、仕事と勉強が違うんだってことに気づいたよ。正直、仕事のこと甘く考えてた。仕事って難しいし、覚えると楽しいよね」
あれ? 僕は何かをたくらんでいる。たくらんだ上で、この話題を振った、気がする。ぼんやりと、倉橋レキが現れた。
「でしょ!? 私、勉強より仕事のほうが好きというか、向いてる気がするんだよね」
案の定、平野さんの話す声が弾んだ。僕は目ざとく、平野さんが喜ぶ簡易的なメカニズムを把握する。なぜ?
「たしかに、平野さんは仕事よくできるもんね。かっこいいよ、バイト中の平野さん」
なぜだろう。無意識的に、ほめた。思ってもないことではない。たしかにそう思っていることを口に出しただけなのだが、はっきりと平野さんが喜ぶだろうなと認識した上で、わざとらしく聞こえないように包容力を感じさせることを目的にちょっと低めの声を意識的に出した。この生々しい感覚に、覚えがあった。
「またまた…。倉橋くん、ほめ上手なんだから…。ほめてもなにもあげませんよ!」
平野さんはそう言って僕の顔を見た。頬を赤くして、すぐに目をそらす。そして、また僕の顔を、今度は意を決したようにはっきりと見る。僕はこの目を見たとき、この子は自分を好きになるだろう、と思った。そうか。そういうことか。
「なんか、倉橋くんってイメージと違った。もっと抜け目ない人なのかと思ってた。本当は優しくて話しやすい人なんだね」
ほらね、と思う反面、僕はぎくりとした。また、倉橋レキについて、ネガティブな情報が出てくるぞ。そう思うと、身構えた。記憶喪失直後は、もっと素直な疑問とセンチメンタルな気持ちで“以前の”自分について聞けたのに。そういえば、平野さんのことは覚えていたこともあって、記憶喪失のことを話していない。
「抜け目ない…、か。それって、ほめ言葉ではないだろうから、随分嫌なやつだと思われてたんだろうね」
怖いもの見たさだろう。僕は、倉橋レキに関するネガティブな情報を知りたくなった。
「え、そんなことは…。うーん、私がよくしらなかっただけなんだと思う。倉橋くんって、学年1位だし、私なんかと違ってクラスでも中心のグループにいるから。ところで…」
目があう。平野さんが目をそらす。そして、また僕の顔を、まばたきをパチパチさせながら上目遣いで見てくる。ああ、やばい、主導権を、「わざと」手放してしまった。
「なんで飛び降りたの?」
手痛い。
ああ、忘れていた。
平野さんがもの静かで優しいから、他人に干渉してこない人だと思って安心していたから、完全に忘れていた。
そうか、平野さんは僕がバイトに来てから、ずっと「自殺未遂したクラスメイト」として僕を好奇の対象として見ていたんだ。
思い出しかけていた倉橋レキに対して、今更ながら、「とんでもないことをしてくれたな」というやるせなさがこみ上げてきた。
「なんで…。倉橋レキがバカだからだと思うよ。倉橋レキは冷淡で自分勝手なエゴイストで、その癖被害者意識なんて持っちゃってて、そんな痛いやつだから、僕にもよく分からないけど、そういう弱いやつだから、だからきっと…」
この弁明は無意識的に何の魂胆もなく、自然と口をついた。と思ったら、急に言葉が出てこなくなる。そして、なぜか、涙が出てきた。自分を操作するコントローラーを喪ってしまった。これは今の僕なのだろう。
「ごめん! 私ったら…。でもね、そんなことない! 倉橋くんは勉強頑張ってたし、実はね、私、倉橋くんのこと尊敬してたんだから! だから、飛び降りたって聞いたとき、すごく悲しくなって…」
今度はなぜか平野さんが泣き始めた。
「あのぅ…。ツナレタスクレープ、まだですか?」
中学生ぐらいの女の子が不安げに僕らのことを見ながら尋ねる。
厨房兼カウンターでアルバイトの高校生二人が泣いていた。
仕事が終わり、貸与されているエプロンを控え室のロッカーのハンガーにかけているとき、平野さんが話しかけてくる。
「今日はなんか変な感じになっちゃったね。あのさ…、お詫びってわけじゃないけど、このあとお茶でもしない?」
泣いたせいか、僕は今の僕に戻っていた。ただ、体をスルリと通り抜けた、生々しい「倉橋レキ」の感覚だけが残っている。
「このあとは…。ごめん、約束があって」
「もしかして…。牧原さん?」
「うん」
「まだ付きあってるんだ?」
「いや、もう付きあってないと思うけど。実は…」
僕は平野さんに6人の記憶がない話をした。
「そんなことってあるんだ。なんか、大変だね…。あ、それで牧原さんに会うの?」
「そう。なにか手がかりがあるかなって」
「手がかり…。ああ…。まあ、いいや。じゃあ、また今度お茶でも行こうね」
平野さんはぎこちなく笑って去っていった。
《やっぱりそうだったね。倉橋レキは他者によって決定される。
久しぶりに本当の他人と会ったら瞬く間にこのザマさ。
ねえねえ、倉橋レキくん。
ちょっと思い出した?
すごく懐かしい感覚だったんじゃないかな?
今日のキミ、ほとんど以前のキミだったよね。
あとは、アレだよ。アレやるだけだよ。
アレやっちゃいなよ。ほら、アレやっちゃえば、完全に元通りのキミに戻れるよ!》
いいね(3)コメント(0)