記事4「倉橋レキについて」
20XX/08/02 00:28
記事4「倉橋レキについて」
先日書いた件について。
こよちゃんが、記憶喪失前の僕より、今の僕のほうがいいと言ったことについて。
なんだか、ずっと頭の中に引っかかっている。
僕は確かに記憶喪失になったが、基本的には6人にまつわる記憶がないだけで、知識や喜怒哀楽の感覚は、恐らく以前の僕と変わらない。そう、記憶喪失以前の僕と、何ら変わらないはず。
それなのに、こよちゃんは今の僕のほうがいいと言った。
以前の僕と、今の僕との決定的な違いは6人に関する記憶がないこと。
それだけで、僕の人格が変わってしまう?
つまり、僕は他者との関係性によって、人格が決定されている?
そうだとすると、僕の本質ってなに?
僕の本質は、他者?
僕は他者によって、何もかもが決定されてしまう人間ってこと?
それではまるで、糸の切れた凧みたいだ。
コントロールを喪った凧は、風に流されまくる。落ちるも飛ぶもすべて風次第。
糸を人生のどこかの段階で早々に手放してしまい、風に流されるままに飛んできた凧。
自分の人格をコントロールする意思・能力がなく、他人に何もかもを依存して生きている僕。
ある日、凪が訪れ、風が止む。当然、凧は浮力を喪い、墜落してしまった。
あるいは強烈な吹き降ろしに遭い、凧は地に堕ちた。
それが記憶喪失以前の僕で、今の僕は他者の記憶がなくなることで、図らずも糸が自分の手元に戻ってきた、ということ?
だからこよちゃんは今の僕のほうがいいと言った?
なにがなんだか分からない。
このことを検証する必要がある。
幸いにも、僕には記憶が残っている幼馴染がいる。
彼の名は猿渡健、通称:サル。サルは僕が元々住んでいたトタン小屋の近所に住んでいて、僕と小さい頃から遊んでいた。
最近、以前の僕について検証すべく彼に会ってきたので、そのことを書く。
「じゃあ、いってきます」
僕が出かける準備を終えて、居間で寝転がって漫画を読んでいるこよちゃんに挨拶する。
「え、遊ぶって、外で会うの? サルくんウチに来るんじゃないの?」
こよちゃんは驚いた様子で僕に問う。
「いや、雨立橋で約束してるよ」
「レキ、お金ないでしょ?」
「あ、忘れてた。どれどれ…」
僕は財布の中身を確かめる。たしかに、お札が入っていなかった。
「ね、ちょっと待って」
こよちゃんは起き上がり、子ども部屋に急ぐ。
「はい。無駄遣いしないようにね」
こよちゃんは五千円札を僕に渡す。
「え、こんなにいいよ」
額が大きかったので僕は受け取ることをためらったが、「いいからいいから」とこよちゃんが笑って僕の手に五千円を握らす。
「ありがとう。じゃあ、いってきます」
僕は五千円を財布に入れて、家を出た。
階段を降り切って、団地1階の植え込み脇の敷石に置いてある自転車の鍵を開ける。スズメガが羽音を立てて植え込みの花の匂いを嗅いでいた。僕はこの蛾が苦手なので、慌てて自転車にまたがり、路上へとこぎ出す。
団地の敷地内から、公道へと出る。
僕はこの瞬間が嫌いだ。古い団地住まいだということを世間に表明する瞬間。特に学校の女子たちに見られたくなかった。こんなどうでもいい記憶感覚は明瞭に残っている。
今日は35度あるらしい。真夏の太陽がきつく照っている。団地は丘の上にあるので、『雨立橋』がある旧市街の繁華街に行くには緩やかな坂を下っていけばいい。(上りはきつい…)
海が太陽を浴びて白く反射している。この古い海辺の城下町の全景が一望できる。
海岸のほど近くに、後世『囮城』と呼び習わされる城があり、お堀端の木々の緑が綺麗に輝いている。なにやら、馬廻など藩の主力部隊を僕らの住んでいる丘上に常時置いていて(この藩は幕府に警戒されていたので、平時でも気を緩めることがなかった)、城を囮としていたことから、そう呼ばれているらしい。維新時に、幕府軍によって城は攻略されたが、『囮城』はその役目を果たし、三方の丘に隠れていた藩兵によって幕府軍は包囲され全滅した。
その隣に、僕の通っている『天志館高校』がある。元々藩校であったことから、今でも先生たちはことあるごとに、「君たちは将来はクニを担うんだからその自覚を持って勉強しなさい」と大げさなことを言う。僕はそれを聞くたびに、後ろ首の付け根辺りがむずがゆくなるが、悪い気はしない。『雨立橋』は高校のそばにある県内最大の繁華街、といっても市の人口が50万人程度だから、よくある地方の繁華街である。
こじんまりとしているが、美しい街。
「うわー、きれー」
自転車で坂を下りながら、僕は思わず呟いた。
こんな栄光の歴史を持つ美しい街に住んでいて、県内一の進学校の学年1位で、あんな優しい姉がいるのに、死のうとした。
なぜ?
何かが、唐突に思い返された、ような気がした、が、その何かを思い出そうとすると、強烈に頭が痛くなった。
感情が遅れてやってきた。胸の鼓動が早まり、苦しくなる。
頭痛がひどいので、僕は坂の途中で自転車を降り、その場にしゃがみこむ。
太陽が頭頂部をじりじりと焼く。
ついさっき、奇妙なやりとりがあった、はず。
でも、思い出せない。思い出さない。
しばらく頭をもたげていると、体は楽になってきた。
僕は再び自転車に乗って、雨立橋へと下った。
まだ頭がぼんやりとした疲労感を抱えたまま、駐輪場に自転車を停めて、サルが待つ雨立橋へと向かう。この橋が、この地名の由来である。
「おう、レキ! 久しぶり」
キャップを被った半袖短パンのサルが、僕を見て手を振っている。
よかった。やはり、サルのことは覚えている。
「元気だったか?」
サルは僕の肩を小突いた。サルは高校が違うから、僕の自殺未遂を知らないようだ。
僕とサルは暑いからカキ氷でも食べようということで、喫茶店に入った。
「夏休み、なにしてる?」
席について早々、サルが切り出した。
「僕は…勉強かな」
「さすが秀才。というか、お前、『俺』って前言ってなかったっけ? 『僕』って聞いてビックリしたわ」
「え、そうだった? 普段から『僕』って言ってたつもりだけど」
まったく記憶がない。
「まあ、いいや。ところで、お前から会おうって珍しいな。なんかあった?」
「あれ? そうだっけ?」
「そうだよ。高校入ってから、お前から遊ぶの誘われたの今日が初めてだよ」
「そうか。でも、僕らよく会ってないか?」
「まあな。俺がお前の家、よく行くから」
サルが家に来た記憶がない。最近もよく会っていた、という抽象的な感覚だけがある。
「え、そうだった? なんで、サルがウチによく来たの?」
「お前さ…。ちょっとおかしくない? ほら…。ほら、ほら。改まると恥ずかしいけど、俺さ、こよちゃんのこと好きじゃんか」
「え!? そうなの!?」
「お前、本当におかしいぞ? どうかしたか?」
「いや、僕さ、記憶喪失になっちゃって」
「ハァァーーー!!??」
サルが喫茶店内に響き渡るほど、大きな声で驚いた。
僕はサルに包み隠さず、すべてを話した。
話し終えるころ、サルはキャップのツバをいじりながら僕の話を聞いていた。最初の興味津々な態度が、だんだんと不愉快そうな「ああ」という小さな相槌に変化していった。
「なるほど。そっか。そっか」
サルは独り言のように呟いたあと、深く息を吸い込んだ。そして僕を睨んだ。
「アホだろ。死のうとするなんて。アホだろ」
サルが低い声で言い放つ。僕は、サルの迫力に気おされたが、今日の目的を果たすべく気を強く持った。
「こよちゃんに対する、前の僕について教えて欲しいんだ。僕はサルの記憶はある。だから、サルなら分かるだろうと思って」
「あのさぁ」
サルが僕の目を強く見据えたまま、ゆっくりと口を開く。
「こよちゃんの前に、俺に関する記憶ってある?」
「あるよ。小さいころ、川で遊んだり、海で泳いだり」
「小さいころか。楽しかったな。じゃあさ、今の俺の悩み、知ってる? 今、俺がハマってること、知ってる?」
何も思い出せなかった。サルの記憶はあるはずなのに、こよちゃんにまつわる記憶がごっそり抜け落ちているせいか、何も知らなかった。
「…知らない」
「な。そんな感じだったんだよ」
サルはそう言って、溶けかかったカキ氷を一気に食べた。
僕はカキ氷の氷と溶けて水になった部分を一緒にスプーンですくっては、元のところに戻してさらに水になるを繰り返した。頭のなかがそんな感じだった。
二人の沈黙がしばらく続いていたが、サルが突然話し出す。今度は目をあわせてこないで、下を向いたまま話した。
「正直さ、あるときから、お前のことよく分からなくなってたんだよね。俺と違って、お前は秀才だし、頭いい人特有の冷たさなのかな、とか思ったけど」
「僕、冷たかった?」
「冷たいと言うか、なんて言ったらいいんだろう。不誠実?」
「不誠実?」
「不誠実もちょっと違うな。なんか、心がないというか。言うことすべてが嘘っぽいというか。あ、別に嘘つきとかではないよ? でも、すごく嫌な感じだった」
いくら記憶が曖昧な僕に対することだとしても、そこまで言うことないじゃないか、という温かい怒りが僕の中で湧いてきた。
「でもさ、君こそひどくないか。僕のことが嫌いなのに、こよちゃんに会いたいがために、僕を口実にしてウチに来てた、なんて。なかなかヒドイやつだ! サルこそ嫌なやつだ!」
僕は声を荒らげた。記憶喪失後、初めての怒り、だったような気がする。
サルは驚いたような顔をしたが、すぐさまニヤッっと口元に笑みを浮かべた。
「いや、嫌いじゃないって。俺はお前にも会いたかったんだよ。なんか、心配で。別に何かしてあげられるわけじゃないし、お前頭よくなっちゃったから、俺の話なんて面白くないだろうけど。俺だって、お前と話して面白いわけではないけど。でも、昔のお前を俺は知ってるから。昔はそうじゃなかったから。昔はたしかに、お前の中にお前がいたから。なんとなく、その変化が気がかりだったんだよ」
サルの言葉を聞いて、僕は苦笑した。サルも釣られて笑う。やはり、幼馴染に違いなかった。
「いつから僕はおかしくなってた?」
僕は今日、初めてリラックスしてサルに問うた。
「いつからだろ。目に見えて変化したのは、高校入ったぐらいからかなぁ。よく覚えてないけど」
答えるサルもリラックスしているように見えた。
会計を終えて店から出たとき、
「お前、まだこよちゃんのヒモしてるの?」とサルがからかってきた。
「ヒモ? ヒモってどういうこと?」
「お前バイトしてんの? どうせ、こよちゃんから小遣いもらってんだろ? そこは変わってないんだなぁ。このヒモ双子!」
サルが僕の肩を小突いて笑った。
僕は思い出した。さっき、この違和感があったことを。
こよちゃんからお金もらったときに感じた違和感。
「え? 僕って、前からこよちゃんにお金もらってたの?」
「そうだよ。バイトもしないで。バイトしない分、勉強できるんだから、こよちゃんに感謝しないと。まあ、こよちゃんは地元じゃスターだからな。あんだけかわいければ、東京でも成功できそうだけど。あ、でもそうなると会えなくなるから、ご当地アイドルのままでいいや」
サルがご当地アイドルとしてのこよちゃんの魅力について、歩きながら熱く語っていたが、よく覚えていない。僕はあることを考えていた。
サルと別れるとき、
「今日会えてよかった。昔のお前に会えた気がする。そういえば、キッズのころ、お前『僕』って言ってたわ」とサルが笑って僕に言った。
僕は別れの挨拶をする。
お互い背を向けて、僕は駐輪場方向に歩き始めたとき、
「おい、レキ!」
振り返ると、夕焼けが逆光になったサルがいる。
「死ぬなよ。俺が悲しいから」
目を凝らしてみると、サルの目が光っていた。
「じゃあな」
サルがまた背を向ける。
僕は感情が遅れてやってくるから、今言わないと。
「サル! 今度、君について教えてくれ」
今、ブログを書きながら気づいた。
僕はこよちゃんを利用していたんだ。
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