記事2「こよちゃんについて」
20XX/07/30 03:35
記事2「こよちゃんについて」
今は夏休み中。介護タクシーの運転手をしている父は仕事に行っているので、僕とこよちゃんは一緒に、8畳の子ども部屋にいる。
朝起きてから、なんだかずっとモヤモヤしている。
このモヤモヤの正体がなんなのか分からないが、とりあえず勉強している。こよちゃんはノートになにやら描いている。ちらちらこっちを見てくるので、時々、目があう。
部屋を二つに区切る真ん中のカーテンは開いているので、僕とこよちゃんは並んだ二つの勉強机とともに、椅子に隣りあって座っている。
自殺未遂後の僕の記憶は不思議だ。
たとえば、こよちゃんのことは覚えていないけれど、この部屋の記憶はある。8畳の部屋の真ん中にレールをつけてカーテンを仕切りにすることで、4畳・4畳の空間を作っていること、しっかりと覚えている。しかし、隣の4畳の空間に誰がいたのか、さっぱり覚えていない。誰もいなかったような、誰かいたような。真剣に考えようとするとひどい頭痛に襲われるから、根つめて思い出そうとすることができない。
幸い、勉強の記憶は残っていたので、僕は退院後、暇さえあれば勉強していた。
僕は勉強が好きだ。好きというより、現実逃避に近いかもしれない。
貧乏な家庭の僕は、勉強によって今の境遇から抜け出したかった。東京のいい大学に進学したい。そして将来、いい会社に入って、お金の心配をせずに暮らしたい。
勉強をしていると、すべてを忘れることができた。ほかのことを考えなくてよく、楽だった。
でも、今、謎のモヤモヤがあっていまいち集中できないでいる。
隣のこよちゃんを見る。こよちゃんの長い黒髪が、扇風機の風に揺れて、時折横顔が現れる。うなじから首にかけて汗ばんでいるのが分かる。
恐らく、かわいい横顔。幅広・切れ長な黒目勝ちでいつも潤んでいる大きな目。すうっと通った鼻筋。いつも少し開いている小さな口元。たしかにアイドルらしい、綺麗な子リスみたいな顔をしている。
僕らは二卵性の双子らしく、一卵性ほど瓜二つというわけではないが、普通の姉弟よりははるかに特徴を同じくしていた。
だからだろうか。こよちゃんの記憶はないけど、こうやって部屋に一緒にいても異性と一緒にいるという感覚はない。到底、他人だとは思えない。そう考えると…
モヤモヤの尾っぽらしきものが見えた。
「どうしたの?」
こよちゃんが、僕の目を見て笑う。
「え、なにが?」
僕はいきなりの問いかけに戸惑った。
「いや、さっきから私のことちらちら見てるから」
こよちゃんはわざとらしく首をかしげて、ニタニタしている。僕は焦った。
「え、っていうか、そっちこそ見てましたよね?」
「そうね」
こよちゃんは、うんうんと首を縦に振って何かに納得した素振りを見せる。こよちゃんの目が泳いだ。てっきり僕のことをからかっているのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。どちらかというと、今、びびった顔をした。
よく分からない人。こよちゃんの記憶は、この1ヶ月弱の記憶しかない。
本当なら、16年間分の記憶があるはずなのに。
この1ヶ月ちょっとで分かったこよちゃんについてまとめると、
・僕と父に対してはよく喋るし、明るい。ほかの人に対しては人見知り。
・学校の成績はあまりよくない。僕とは別の高校に行っている。
・ご当地アイドルのメンバー。
・アイドルやっているだけあってかわいい。
・友達がいない。
・僕のことを「レキ」と呼ぶ。
・どうやら僕を慕っているよう。
僕がなぜ、この害のなさそうな姉について記憶をなくしているのか、今のところまったく分からない。
また、しばらく勉強していると、
「レキは勉強してえらいね。やっぱり東京の大学行くの?」
こよちゃんが唐突に呟いた。こよちゃんを見ると、相変わらず下を向いてなにかを描いている。
「そうですね。行きたいけど、お金あるかな?」
「あー、またお金のこと心配してるでしょ? っていうか、丁寧語禁止!」
こよちゃんがこっちを見る。頬を膨らませて、僕をわざとらしく睨んでいる。
「いや、ごめん」
「とにかく、お金の心配はしなくていいからね」
こよちゃんは優しく微笑む。
なぜお金の心配をしなくていいのか? 実はこの家にはお金があるのか?
色々と不思議な点があったが、こよちゃんが自信満々そうなので、ちょっと安心した。
「そっか。こよ…ちゃんは絵描いてるの?」
「そう。見たい?」
「うん」
こよちゃんは椅子ごと僕のほうに移動してきた。
「ジャジャーン!」
僕の机の上にノートを広げる。
ノートにはなにやら人の横顔が描かれている。椅子に座って、机に置かれた本を読んでいる青年のデッサン…
「え、これって」
「何かに悩んでいて、どうやら喉が渇いてるレキくん」
「え?」
「ちょっと待っててね」
そう言い残し、こよちゃんは椅子から立ち上がり、居間へと消えた。そして、部屋に戻ってくると、
「はい、麦茶」と僕にコップを手渡す。
たしかに喉が渇いていた。僕は麦茶を飲む。
この部屋にはクーラーがないので、暑い。僕らの住んでいる地域の真夏は、気温以上に「重さ」を持っている。じっとしているだけで、結構疲れる。
モヤモヤはこの暑さのせい?
恐らく違う。生理的なものではない気がする。
扇風機の生暖かい風はたしかに微妙だが、心の奥底に沈んでいるモヤモヤとは無関係だと思う。ところで、どうしてこよちゃんは僕の気持ちが分かったのだろう?
僕はこよちゃんや父について記憶がまるでないから、質問をすることで関係性を再現していくしかない。
「以心伝心?」
僕はこよちゃんに問いかける。
「え?」
こよちゃんは驚いた様子で僕を見る。
「僕が喉渇いてること、分かったの?」
「なんとなく?」
「すごいね、ありがとう」
僕がこよちゃんに微笑むと、こよちゃんはこっちが気恥ずかしくなるほど笑い返した。せっかくの綺麗な顔立ちを崩して、やたらなついてくる犬のように人懐っこい笑顔。
僕は麦茶の残りを飲みながら、この気遣いが、なぜ普段の会話で発動されないのか訝った。
こよちゃんは聞けば答えてくれるが、いつのまにか話が脱線してしまう。
話が広がっていかないので、ピンポイントで質問をし続ける必要がある。なので、記憶喪失後、こよちゃんや父について質問するとき、かなりてこずった。この質問についてもてこずるだろうと予想しながら、僕は問いかける。
「なんで僕、こよちゃんとかお父さんの記憶なくなったのかな?」
「さあ。そういえばね、この動画おもしろいから見てみて」
こよちゃんは謎に上ずった声で、スマホを僕に見せようとする。
「動画はあとで見よう。あのさ、お父さんについて聞きたいんだけど」
僕がそう呼びかけると、こよちゃんはスマホを机に置いて、僕の顔を直視した。
「お父さん?」
今度は一転、やたら低い声。顔から喜色が消えて真顔。僕は息を呑む。
「うん。お父さんと僕って、なんか壁があると思うんだけど」
「そうかな? 私は壁なんて感じないけどな。レキは難しく考えすぎだと思うよ。ところでここでクイズです!」
「クイズもあとにしよう」
「あとですか」
こよちゃんは首をうなだれた。
「あれ以来、こよちゃんの記憶もないけど、こよちゃんといても緊張しないというか、落ち着くと言うか。やっぱり双子なんだなって思う」
「えー、やっぱり? それは嬉しいかも」
こよちゃんは首を上げて微笑む。
「でも、お父さんといると、なんか緊張する。お父さんもお父さんで、僕に対してなんとなく扱いづらそうにしてるような気がする」
「そうかな?」
「僕とお父さんって、記憶なくす前からこんな感じだった?」
「どうだろ?」
「僕とお父さんは、小さい頃からあまり話さなかったの?」
「小さいときは、お父さんいないよ」
「どういうこと? お父さんは途中から来たの?」
「そうだよ。ねえ、この話、まだ続くの?」
こよちゃんは、質問を投げかけるたびに顔が曇っていった。そして、明らかに不機嫌になっていた。
「ああ、ごめん。あとちょっとだけ。お父さんはいつから来たの?」
「あとちょっとね。私たちが12歳のころだよ」
「え、ってことは、お父さんは本当のお父さんじゃないってこと?」
僕はモヤモヤの正体をつかんだ。こよちゃんは体をクネクネ揺らしながら、眉間に皺を寄せて苦悶に満ちた表情をしている。
「だからそうだって」
こよちゃんは吐き出したかのようにため息混じりで呟く。
父は僕らと血がつながっていない。
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