雪女がいる夏
毒素ゼロ。去年の夏に思いついた話。ちゃんと完成してよかった。
僕の父は山登りが趣味だ。いや、むしろそれが本業だと言ってもいい。
自宅でできる仕事をパパっと終わらせると、大きな荷物を背負ってどこかの山に行ってしまう。そして数カ月の後に、クマ男のようになって、片手にその土地のお土産を持って帰ってくる。
その夏も、僕と母は父の帰りを待っていた。
クーラーがないと生活ができないほどの暑さだった。壁も鏡も歯ブラシも、何もかもが電子レンジで温めたみたいに熱かった。
僕は開いてもない宿題をテーブルに放ってスイカバーを食べていた。溶けたアイスが手に落ちてベタベタした。閉じたノートの中身は真っ白だ。しかし、やる気が出ない。もう一本、アイスでも食べようかなと思った。
そんな時、父が帰ってきた。相変わらず、クマのようなひどいひげ面で、あちこち汗臭かった。
その隣には、ものすごくきれいな女の人。肌は透き通るように白く、腰まである長い黒髪はさらさらとなめらかだ。死装束のような白い着物を大胆に着崩して、お餅みたいな大きなおっぱいが……。
鼻からドロドロと血が流れた。僕にはまだ少し刺激が強かった。
殺気を感じて振り向くと、母が怒りで髪を逆立ててそこに立っていた。元ヤンのきつめの顔がさらにきつくなっている。
「てめえ、そりゃあ一体どういう了見だ?」
母は父の胸倉をつかむと、今にも殴りかかりそうな迫力で睨みつけた。
「待て待て、落ち着こう」
「あたしは至極冷静だ」
「違う違う。これは浮気ではない。断じてない」
そのとき、僕は玄関がそれほど暑くないことに気が付いた。クーラーなんて付いているはずもないのに。そして、エッチなお姉さんの袖口からは真っ白な冷気が。
「彼女は雪女です」
「父さんはこの度の登山で遭難しかけました。それを助けてくれたのが、ここにいる雪女さんです」
雪が降りしきる中、彼女は細い腕で父を引きずり、家まで運んで、手厚く看病してくれたのだという。
「吹雪が止んで、そろそろ帰ろうかなと思ったとき、雪女さんの横顔がとても寂しそうに見えたのです。聞いてみると、彼女には家族も友人もいないというではありませんか。こんなに寂しい山奥で一人きりなんて、そんな。父さんは言いました。家、来る?」
リビングで向かい合って、僕たちは父の話を聞いていた。クーラーが付いていたが消した。なんだか寒くなってきたのだ。
それにしても、そんな説明で母が納得するはずないと思ったが、隣を向くと母は腕を組んで深くうなずいていた。
「そう、山奥で独りぼっちは、それは寂しいわよね」
「ね、ママもそう思うでしょ? 家に置いてもいい?」
「いいわよ。ただし、ちゃんと面倒を看ること」
元ヤンの母は性格も顔つきも男前だけれど、誰よりも優しい心の持ち主だった。
僕はちらっと雪女の方を見た。刺激的な姿にドキドキした。きれいなその顔はずっとニコニコしていた。
雪女はあっという間にわが家になじんだ。父はいつも、またすぐに次の山を探すために、もしくは仕事のためにパソコンにかじりついて自室から出て来ない。しかし、近頃はずっとリビングにいて、雪女と話をしている。母は雪女に家事を手伝われて助かっているようだ。雪女の手料理はいつも冷えているけれど、味はおいしかった。「嫁に来て……」と母がぽろっと言ったのを聞いた。
けれど、僕は初日に見た彼女の顔が忘れられなかった。あの笑顔には何の意味があるというのだ。そうでなくても彼女は雪女だ。妖怪だ。易々と受け入れてしまうのは危険ではないか。
そのとき、スイカバーがなかなか溶けないことに気が付いた。僕はいつも食べるのが下手で、手をベタベタにしてしまうのに。隣を見ると、雪女が座っていて、僕のスイカバーに向けて白い指を突き出していた。僕はムッとして固いスイカバーをかみ砕いて雪女を睨みつけた。
「ちょっと溶けたくらいがおいしいの」
雪女は少し寂しそうな顔をした。
わが家は近頃ではクーラーがなくても快適に過ごせるようになった。家に雪女がいるせいだと、最近気が付いた。彼女の周りはいつもひんやりと冷たい。それが家全体にも及ぶ。
ところで、雪女は胸を露出する格好をやめた。母に何か言われたのだろうか。おかげで僕は彼女の姿を見るたびに鼻血を出さずによくなったけれど。
雪女が家にいることによる悪影響は今のところ出ていない。むしろいいことしかない。雪女は僕にも優しくしてくれる。きれいなお姉さんに優しくされるというのは悪い気がしないのである。僕自身、彼女にほだされつつある。
夏休みのある日のこと、僕は出校日のために暑い中、学校に行かなければいけなかった。扉を開けると熱風が顔に当たった。外は灼熱地獄だ。本当にどうかしている。
そのとき、背中がすっと涼しくなった。
「送って行ってあげる」
雪女がいつもの死装束でそこに立っていた。
「いいよ。母さんたちが熱中症で死んじゃうだろ」
「クーラーをつけていけばいいの」
雪女はそういうと、僕の手をつかんで外に引っ張り出した。雪女の手はひんやりと冷たい。けれど、頬は燃えるように熱くなった。日差しが強すぎるせいではない。僕は女の子の手なんか握ったことがないのだ。
「妖怪は人に悪さをするものだと思っていたけど」
気まずさを振り払うために発したのはそんな言葉だった。雪女は高い声でキャキャッと笑った。
「あんた、そういうアニメ好きだものね」
一緒に生活しているせいか、雪女はだいぶ人間の文化になじんできている。
「あたしがあんたたちに悪いことをしないのが不思議なのね。まあ、そういう奴もいないわけではないけれど、あたしにはそんなことをする理由がないもの」
「そう……なの?」
「むしろ感謝している。独りぼっちだったあたしを拾ってくれて、あたしなんかに優しくしてくれて。だから、もう望むものもないの」
気が付くと校門の前に来ていた。僕は名残惜しいような気がしながら、彼女の手を離した。
「じゃあね。勉強、がんばって」
彼女に夏の空は似合わなかった。真っ白で冷たい彼女は夏の日差しで溶けてしまうのではないか。雪女は近くにいないのに、背筋が凍るような気がした。手を振る彼女の背丈が少し小さいような気がしたのだ。
僕は学校が終わると、大急ぎで家に帰った。暑さと疲労で、玄関を開ける頃には汗だくになっていた。
「雪女!」
リビングの扉を勢いよく開けると、母と雪女が同じような格好で振り向いた。彼女たちは台所で昼ご飯の準備をしていた。
「どうしたの、だいすけ。そんなに慌てて……」
僕はズカズカと雪女のもとへと歩いて行き、彼女を見下ろした。
「ちょっと失礼……」
雪女の胸を触ろうとして、母から鉄拳制裁を食らう。鼻から血が盛大に噴き出した。
「や、やっぱりな」
「何がやっぱりなのよ。バカなの?」
女性陣二人から、ゴミ屑を見るような目で見降ろされながら、ゆっくりと立ち上がった。
「小さくなってる。背丈も、……おっぱいも」
その時、母がハッとしたような顔をした。雪女は俯いた。
「ねえ、雪女。君、このままだと、どうなってしまうんだ」
わかりきっていることを僕は聞いた。僕の推測をどうか否定してほしかった。やがて、雪女がゆっくりと口を開いた。
「あたしは、雪の精なの。だから……いつかは解けて消える運命にあるわ」
その日の夕飯も、わが家はとても賑やかだった。雪女の告白を聞いても、しんみりとした空気にはならなかった。どこまでも朗らかなのが僕の家族なのだ。けれど、僕はそこまで大人ではなかった。父や母や雪女が楽しげに話す横で、僕は黙って、俯いていることしかできなかった。
それから、僕たちはクーラーを使うようになった。雪女に余計なエネルギーを使わせないためである。それでも、彼女は、僕がスイカバーを食べていると、カチンカチンに凍らせに来る。僕はついに向きになって怒る。
「だって、あんた、それ食べるの下手くそなんだもの」
そう言って、彼女はクスクスと笑う。
雪女は少しずつ解けて小さくなる。今や、彼女は僕の背丈の半分もない。その夜は花火大会だった。僕たちは橋の下まで花火を見に行くことにした。
雪女はいつもの死装束ではなく、近所でレンタルした浴衣を着た。水色の大輪の朝顔の咲いている、夏らしい柄だった。やっぱり、彼女には少し似合わないなあと思った。
橋の下はひどい人混みだった。僕たちははぐれないように、お互いに手を握り合っていた。雪女の手はまだ冷たかった。ようやく落ち着いて見れそうな場所を見つけて、そこにブルーシートを敷いた。
寝転がりながら、大人二人は晩酌をしている。雪女はりんご飴を、小さい口でがんばって舐めていた。
そのうち、真っ暗な夜空に、大輪の火の花が一つ二つと咲いた。あまりにきれいで、僕たちはしばし、言葉を忘れてそれに見入っていた。
僕はふと寂しい気持ちになって、雪女の手を握った。それを見た両親もまた、お互いに手を握る。
「あたしは山の雪の解け残りだった。寂しくて……つまりね。あんたの父さんを遭難させたのはあたしなの。あんたの言う通りよ。妖怪は悪さをするものなのね。気づいてほしくて。ごめんなさい」
僕は首を振った。雪女、そんなことはもういいんだよ。まだ一緒にいよう。
「こんなあたしに、あんたたちは本当に優しかった。ありがとうっていくら言っても足りないくらい。……ねえ、泣かないで。もう、泣きたいのはあたしの方なのに」
氷が解けた後のように、手のひらには水滴だけが残っていた。
涙で滲んでしまって、それより後の花火はうまく見ることができなかった。