0.秘密
窓から見える遠くの森が揺れている。あんなところに森なんて見えていただろうか。もしかして蜃気楼か。初めて見た。
初めて見た。初めて見たのか。
部屋にある服を収納する箱の底に眠っている学生服を僕は見覚えがなかった。けれど着てきたのだから僕が今まで着ていた服のはずだ。学生服なのだから特に。
初めて見たと思う蜃気楼も覚えていないだけで実は見慣れている物なのではないか。
でも、服は、学生一年目だったとしたら、見慣れなくても当然かもしれない。それなら蜃気楼を初めて見たと思うことを疑う必要はないんじゃ、
「なにしてるの?」
ステラの方を見ずに森を指差した。
「あれって蜃気楼かな?」
ステラは隣に来て同じ森を見た。
「そうね、あんなところに森なんてないもの」
「外は暑いのに、家の中は涼しいんだね」
「あなたの時代にもエアコンなんてものあったでしょ」
「あったのかなあ分からないや」
黒髪の男なんて山ほどいるというのはもう昔の話らしい。今は黒髪が産まれれば魔法で髪色を変えなければいけないらしい。らしい、らしい、と曖昧な話だが、あまりに現実味がない。桜の樹の下には死体が埋まっている、と言う話くらいに。
昔は黒髪しかいなかったのに今では珍しいと言われても使い魔の冗談としか思えない。
でも外に出る前に使い魔がやけに帽子をかぶれと言ってきた理由が分かった。使い魔に頭を叩かれて帽子が脱げたとき、こちらを見ていた男女は独り言を言う僕を見ていたのではなく、黒髪の僕を見ていたんだ。
「見つけたらすぐに通報して」
と言って女の子も男も去って行った。
使い魔はベンチに座る僕の隣に座って手をグーパーさせている。
「でも、僕は黒髪なのに」
「今は違う。さっき色を白に変えた」
髪に触れて見ても変わったようには見えない。
「全部は変えてない」
「はあ……黒髪かあ」
「この国はまだまだ時代遅れなんだ」
空から降りてきた女の子達はあれでも警察らしい。
「あの警官も通報されたから探しているだけで、実際捕まえてどうこうしようなんて思っては」
「魔物かあ……」
「……それは良いだろ別に」
ステラは何も、いや、誰も何も言わなかったから隣にいる使い魔が人間ではないと知らなかった。魔物自体はステラの話や読んだ本から存在するらしい、と言うことは知っていたけれど、こんな身近にいるなんて。
いや、でも、逆に使い魔が魔物ではなく魔法使い兼使い魔なら魔法使いであるステラの使い魔をする意味はなんだ? それなら魔物兼使い魔である方がなんら不思議は……。
「ん? そもそも、使い魔と魔物の違いって何?」
「使い魔か使い魔じゃないか」
「単純な」
「そう言うが、見分けはそう簡単につくものではない。お前だって人間と魔法使いの区別はできないだろ」
僕の頭を帽子の上から撫でてきた。さっき頭を撫でて来たのは髪色を変えるためだったのなら、この行為にも意味があるんだろうか。
「人間以外は人間か魔法使いかの区別がつくの?」
僕の帽子を外して目をジッと見てくる。
「今度は俺が聞く番だ」
どうやら質問ばかりする僕が鬱陶しくなったようだ。
「うーん……何?」
「お前はこの世界のことを何も知らないが、知りたいと思わないのか」
「何を?」
「知らないこと全部」
威圧を感じて堪らず目をそらすと、僕の顔を掴んで無理やり目を合わせようとしてくる。腕を掴んでもビクともしない。
紫色の目がジッと見てくる。
「離せ」
と言っても無視。
足で腹を蹴っても動じないどころか、顔を掴んでいる手に力が入って痛い。
「な、何だよ……はな……」
「ただ質問してるだけだ。なあ、チュール」
こんなの質問じゃなくて尋問じゃないか。
目が怖い。
「ステラはお前に隠し事をしている。嘘だってついてる。全部暴いてやりたい、知りたいと思わないか」
「……お、思わない」
「どうして」
「ステラはいてくれれば、それでいい」
手が離れた。使い魔はつまらなそうな顔をしていた。
掴まれていた頬のあたりに触れた。少しだけじんじんする。爪が食い込んでいたのか跡のようなものがある気がする。
「記憶がないからステラに縋るのは分かるが、お前は刷り込まれてるんだ。世界は広いのに、お前は本当に何も知りたくないのか? あの屋敷で一生過ごすのか?」
「違う。ただ、戻った時に記憶が消えるのなら、ここでいろんなことを経験しても意味が……」
「そんな話、本当に信じてるのか?」
どう言う意味だ。と思ったがきっと言葉通りの意味だ。
「僕は、ステラを信じてる」
「違う。ステラしか信じていないんだ」
否定はできなかった。
確かにステラに縋っているし、この世界ではステラやアマリアと住んでいる屋敷が僕にとっての世界だ。こうして外に出ていてもそうだ。
僕は、きっと何もしたくないんだ。元に戻れるかどうか、自分がどこから来たのか、何者なのか、何をして生きていたのか、これからどうすればいいのか。
考えたことはなかった。考えないようにしていた。
「でも、僕はそれでもいいと思う。ステラのために生きたい」
「変わりたいと思わないのか」
「平穏がこの世で最も幸せなことだよ」
自信はない。ので、使い魔から目を逸らした。
「クソ野郎」
そう言って立ち上がって宙に浮いてどこかへ行った。
クソ野郎って、どういう意味だ。この世界のことなんて知ってどうするんだ。使い魔は僕に何をしてほしいんだ。
ガン、と大きな音がして驚いて見ると意外と近くにいた使い魔が機械で出来た箱を殴ったらしく、箱が凹んでいた。
そのあと、ため息をついて
「ごめん」
と急に謝ってきた。
「な……なんで急に」
「いや、俺が悪かった。大人気なく意地悪してごめん……いいんだよお前はお前のままで」
いやこわいよ! 情緒不安定かよ!! と、硬そうな機械を殴って壊したやつに言えるわけもない。
「だ、大丈夫。でも壊したそれはどうするの」
使い魔がガン、と蹴りを入れると機械はバキバキと音を立てながらゆっくりと元の形に戻っていった。使い魔の魔法なのか、この機械の性質なのかは分からない。
「お詫びの印にこれやるよ」
グーにした手をこちらに向けて来たので、使い魔の元に行って手のひらを出すとお守りを渡された。木の皮が入っているというあれだ。
「え? ……え?」
「欲しかったんだろ」
「あ……あの、ステラにあげたくて……」
「あげろあげろ。俺が買ったことは言うなよ」
「ありがとう!」
「あー、ほら、もう、そろそろ帰ろう。雨も降りそうだし」
そう言われて気づく。
「帰り道、僕覚えてないよ」
「俺は端から覚える気はなかった」
屋敷の外に出て適当に歩いていたら、あの木を宣伝していたあの建物を見つけて見に行ってみようとここに来た。人のいない道を避けて、森を歩き回る時間が長かったので道なんて覚えていない。覚えられない。
「……この世界に住んでるんだよね?」
「お前、今だいぶ無茶言ってんぞ。飛んで帰るのは嫌なのか」
「い、嫌だ……」
ため息をつかれた。屋敷を出るときも飛ばずに歩きたいと言ったらわざとらしくため息をつかれたんだった。
「ちゃんと地図書かねーから迷子になるんだ」
「世界樹を見るなんて思わなかったし」
「仕方ない。最終手段だ」
無視かよ。というか、そうだよ、地図を探そう。
と言う前に使い魔は僕の首元に右手を近づけ、指を鳴らした。
激痛。左手で触れると首に切れ目のようなものがある。血が出て手が濡れた。切られたんだと気づいて傷を抑えても、傷は深いらしく血がどんどん出てくる。痛い。血のにおいが鼻につく。
使い魔を見上げると、人差し指を僕の口につけて呪文を呟いた。
本気で殺されるんだと思った。謝ってきたけどやっぱりこいつは怒っているんだと。
うずくまって傷を抑えている腕に血が滴り、地面に血溜まりが出来ていくのを眺めることしか出来なかった。
頬に冷たいものが当たった。
「外出禁止ね」
うずくまっていた僕の元にステラが文字通り飛んで来て、魔法で止血してくれた。傷は治ったが、跡は残るし減った血は戻らない。血だらけのまま、恥ずかしながらアマリアに横抱きされながら家に帰って、ステラの部屋のベッドで点滴らしきもので血を入れられている。
僕が怪我をするようなことがあればすぐステラに伝わるようになっているのだと今さら説明された。
「過保護だ」
「適正保護よ。今日それがなければどうなってたか分かるかしら」
「今日それがあったから首を切られたんだけど」
「まさか黙って外に出た挙句これのために使い魔に首を切られるなんて思ってなくて」
ステラは寝ている僕の頭を撫でた。子供扱いされていると思ったが、
「本当に心配したのよ」
目が怖い。めちゃくちゃ怒っていらっしゃる。
「ごめんなさい。あの、これ、あげます」
使い魔が買ってくれたお土産をステラに渡すと、見るからに驚いていた。
「これどうしたの?」
「ケニーが買ってくれた」
あっさりとバラしてしまった。
「ごめんね、人に買ってもらったもので」
「あなたが無事なら何もいらないのに」
お守りを受け取ってくれた。機嫌が直ったのかどうかは分からないけれど、少し嬉しそうに見えた。