0.川べ
ステラに召喚された僕には元々いた世界の記憶が殆どない。生活するには困らない程度に、人間関係の全てと思い出だけが消えている。他に消えているものがあったとしても、記憶にないのだから分からない。
たまに懐かしいと感じる夢を見る。たまに目が覚めて、ここがどこなのか分からなくなる。この世界にくる前、どこで眠ってどこで目覚めていたのかも覚えていないのに。
「僕が元の世界に帰ったとして、またここに戻って来られる?」
「……無理ね、元の世界に戻ったら記憶も何もさっぱりなんだからまた戻ろうとも考えられないはずよ」
「そんなに記憶って簡単に消えるものなの?」
「魔法がなくても消えるものなのだから簡単に消えるわ」
ステラは暇つぶし相手兼ボディガードにと使い魔を部屋に連れてきた。たしかに暇ではあったけれど、本を読むのに忙しいといえば忙しい。まだまだ読む本はたくさんある。一生かかっても読み終える気もしない。けれどいないよりはいてくれた方が助かるかもしれない。ボディガードとわざわざ言うということは何かあるのかもしれないし。
「よろしく」
「よ、よろしく……」
手を出されて渋々握手した。それに満足したようでニコニコしながら手を離して、部屋を見回す。
「部屋の中見ていいか?」
「うん」
浮遊しながら本棚の本を手に取って見たりクローゼットの中を見たり、風呂場に入ったりベッドの下を覗き込んだり上から下まで隅から隅まで見尽くした後、ベッドに座って本を読む僕の隣に座った。
「あの、君の名前はなんていうの?」
「教えない」
「え? 何で?」
「光あれ、だよチュール」
どういうことだ。どうして君は僕の名前を知っているんだ。
「もういいや。そういえば、ベッド一つしかないんだけど」
「大丈夫、床で寝るから」
と言いながら宙に浮いて、逆さまになって天井に寝転がった。
「そこは床じゃない」
「どこででも寝られるってことだ」
便利だな。
「落ちてこないよね?」
「落ちないしヨダレもたらさない」
「それなら良い」
天井から落ちて、いや降りて隣に座った。
「………………あ……えっと」
じろじろとこちらを見てくる。何か会話を期待されているのだろうか……そう言えばステラやアマリア以外と話したのは初めてだ。この人は自分より年上なんだろうか、普通に話していたけれど、敬語の方がよかったか? なんにしてももう手遅れだ。
「君ってルームメイトになるんだよね、たぶん」
「そうだな」
「いろいろ質問してもいい?」
「答えないかもしれないけど」
「それでもいいよ」
「そうか。質問される前に質問してもいいか」
「いいよ」
「お前は人間なのか?」
何の確認なんだ。
「……人間だけど」
「本当に?」
言っている意味がわからない。
「お前は魔法が使えるのかと聞いてるんだ」
「使ったことない」
「調べても良い?」
「何を?」
「お前が人間かどうか」
「いいよ」
それで多少気まずい空気から脱せられるのなら、と軽い気持ちで了承した。
「ステラーーーーーーー!!!!!!」
いないかも、と思いながらステラの部屋にノックもせずに入ると運良くステラはいた。部屋を掃除しているところだった。
「こらチュール、ノックもしないで……」
僕を見てステラが固まった。透明ポンチョの下には何も身につけていない僕を見て。
「どうしたのその格好は」
「ボディガードに剥がされた」
「何をやってるのよ」
クローゼットから無難な服とズボンを出して渡してくれた。着替えると、ステラはソファに座って、隣のクッションをトントンと叩いた。
「はいここに座って」
黙って座ると、まるで子供を慰めるように目を見つめて手を握ってくれた。
「それで、何をやったのよ」
「僕は無実だよ……本物の人間かどうか調べて良いかって聞いてきたから頷いたらああなった」
服を剥ぎ取られて不躾にじろじろ見られた後、べたべたと全身を触られた。全身とはいっても、触られたくないところは触らせなかった。
「見て触って、人間かどうか見たかったのかもね」
「見ただけで人間だと分かってほしかったよ」
「あ、ほら……人肌恋しかったのかも」
そう言われると何も言えなくなる。二十一年も一人でいたことを考えると仕方ないのかもしれないと思ってしまう。
「そうだとしても裸にするなんて……」
「そうね、ちゃんと言っておくわ」
ステラは立ち上がって歩き出し、ドアの前で立ち止まった。
「少しそこで待っててね」
大人しく待っているとアマリアが潰れたシフォンケーキと紅茶を持って部屋にきた。ステラから話を聞いてわざわざ持ってきてくれたらしい。
「このケーキは私だけの特権なのですが」
特別にチュールにも。
失敗したケーキを出すわけにもいかない。捨てるのも勿体無い。だからこれを食べられるのはアマリアだけの特権なのだそう。
ケーキの上に生クリームが乗っていて、一緒に食べる。やはりとても甘い。クリームを取って食べたい。
「砂糖を入れすぎかも」
「チュールが食べることを前提としていませんでしたので」
「それは確かに……あ、でも甘いけど、味は美味しいよ。前のクッキーよりも断然味がある」
「ありがとうございます……ところでチュール、大丈夫ですか」
「何が?」
「強姦未遂にあったとか」
ステラ!!!! 誤解を生んでいる! いったいどんな説明をしたんだよ!
「そ、それは違うよ。ただ服を脱がされただけだよ」
「それを強姦未遂と言うのではないのですか」
「性的な目的のために脱がされたわけじゃないから」
そんな話をしながらケーキを食べていると、部屋のドアがノックもなく開いた。
「もう大丈夫だと思うわ」
ステラだった。
「ステラもノックしてないじゃないか」
「私の部屋なのにどうしてノックしないといけないのよ」
それは確かにそうだ。
「チュール、もう大丈夫だと思うから、部屋に行って話して来なさい」
その言葉のまま自室に戻ると、使い魔が部屋の隅で膝を抱いて浮いていた。
「た、ただいま……」
「ごめん」
開口一番に謝ってきた。ゆっくり床に降りて、こちらを見るが、すぐに目をそらす。明らかに落ち込んでいる。
「どうしたの? 大丈夫?」
抱きつかれた、いや、飛びつかれた。顔の目の前に腹があって前が見えない。
「ごめん」
「うん、離れて」
体を押して引き剥がした。宙に浮いたままじっとこちらを見てくる。思わず目をそらした。
「まだ怒ってる……」
露骨に落ち込んでいる。
「怒ってない! あ! その、浮いてるのって魔法?」
「珍しいか?」
「珍しい」
「お前も浮いてみるか?」
「折角の申し出申し訳ないけど、高いところはちょっと」
正直、落とされたら怖い。
「ふーん」
と、ふらふら空中を浮遊している。話して来いと言われたが、いったい何を話せばいいんだろうか。服を脱がされたこと? 全然関係ないこと?
「あ、そうだ、質問していいって言ってたよね」
「答えられることなら」
「もしかして服を脱がしたのは質問に答えたくなかったからとか?」
「いや別に? 人間なのかどうか見たかった」
あっけらかんと言うので、人肌恋しかったわけでもなさそうだ。
「人間かどうか見たかった?」
「ああ。魔力があるかどうか……魔法が使えるか確かめたかった」
「それって触ってわかるものなの?」
「分かる。流れがある」
「流れ……?」
魔力って血液みたいに流れているものなんだろうか。
「僕は魔法が使えないんだけど、君にとって僕は人間ですらない?」
「魔法が使えるやつは魔法使いであって、人間じゃない」
「この世界には魔法使い以外いないんじゃないの?」
「お前がいるだろ」
「え?」
「お前は正真正銘。本物の人間だよ」
「本物の人間……」
「嬉しくなさそうだな? 魔法なんて使えなくていいんだぞ」
せっかく魔法のある世界に来たのだから、魔法を使ってみたいじゃないか。
「お前はそのままでいいんだよ」
ステラと同じことを言う使い魔に、浮いたまま頭を撫でられた。
「よろしくな、チュール」
「よろしく、使い魔」
「使い魔ってなあ」
「名前を教えてもらってないから」
文句を言いながら、結局名前は教えてくれなかった。