0.蝋燭
何かの選挙が近いらしい。窓の外で四角い箱を積んだ車がスピーカーで何度も何度も名前を繰り返し、よろしくお願いします、と繰り返していた。それも一台だけではなく、朝ごはんを食べに行く途中にはドワロンと書かれた車と、食べ終わった帰りにはウォーレンと書かれた車を見た。ドワロン・ウォーレンと言う人が選挙に出ているんだろうか。
以前四角い箱を積んだ、似た車を見たけれど、あのときは確か宗教の車だった。
名前なんだったかな。
「ケニー」
と呼ぶと黒い大型犬が床から生えて出てきた。全身が床から出るとふるふると勢いよく体を振って僕を見上げた。
「ケニーって宗教入ってるの?」
「あ?」
尻尾がだらりと垂れた。
「お前は宗教入ってるのかよ」
「入ってないよ」
「じゃあ俺もだよ」
「じゃあって」
黒い犬は床に沈み込んでいった。
怒らせてしまった。が、部屋に行くと犬はベッドで、大の字で寝ていた。気にしてない。というフリをしている……。
使い魔のいいところはこういうところだな。お腹を撫でると尻尾を振っていた。
本の世界に入って預かった手紙を部屋の机の上に置いた。廊下でも部屋でも使い魔を呼んだのに出てこなくて結局部屋に置いておくことにした。どこかへ出かけているんだろう。
机の上に乱雑に置かれた本を一冊手にとる。ベッドを背もたれにして床に座った。この本は映画を小説にしたものらしく裏表紙に大ヒット映画のノベライズと書いてあった。
そうか、この世界にも映画はあるんだ。
魔法のある世界の映画ってどんなものなんだろう。
CGとか合成とかなくて、映像が派手だったりするのかな。恐竜とか実際に作れる世の中になっていたりして……さすがにそれはどこかの時代で規制されているか。
以前いた世界で映画って見たことあったかな。最後に見た映画って何だっけ。
背後から何かが落ちる音がした。振り返ると黒い狐がベッドの上に立っていた。
「ビックリした……おかえり」
「ただいま」
「ずっと探してたんだ。ケニーに手紙だよ」
机の上を指差すと使い魔はベッドから降りて机に近づいた。
「誰から」
「ガルムって人……」
からだよ、と言い終える前に人間の姿になって手紙を持って封を開けた。いや開けようとしていた。開けられなかった。
机に手紙を置いて封蝋をガリガリと爪で引っ掻いても傷一つついていない。指を慣らして魔法で鋏を出して手紙を切っても手紙はぐにゃりと曲がって切れなかった。
鋏を放り投げて使い魔は手紙のにおいを嗅いだ。鋏は床に着く前に消えた。
「本当に俺宛なのか?」
「僕と同居している人宛の手紙って言ってたんだけど」
「それステラ宛じゃないのか?」
あ、確かに、それもそうだ。どうしてステラだと思わなかったんだろう。
「でも同居人ってことは、もしかするとアマリア宛の可能性も……」
「それは分からない」
使い魔は手紙を僕に手渡してきた。
「この手紙、本人以外は開けられないようになっているから開けられるやつがそいつの言う“チュールと同居している人間”なんだろう」
僕と同居している人。
封蝋を触ってみると封筒にピッタリと引っ付いていて剥がれそうにない。それどころか、紙同士が接着剤でもつけられているかのように隙間なく引っ付いている。
封蝋って初めて見たな。魔法がかかっているからこんなに頑丈なだけなんだよね?
使い魔の真似をしてにおいを嗅いでみたら、少しだけコーヒーのにおいがして、あの部屋のことを思い出した。
「何で嗅いでるんだ」
「ケニーの真似」
「俺はそんなことしてない」
してただろ。無意識か? 犬に変身しすぎて犬の癖が出たのだろうか。
使い魔はベッドに腰掛けて立っている僕を見上げた。
「そもそもどうやって手紙を受け取ったんだ」
ベッドを背もたれにして床に座った。使い魔を見上げる形になる。
ガルムのことを調べに図書室に行って、警備員に本に入れてもらった話をすると、使い魔の表情はどんどん険しくなっていった。
「その本はどこに行った?」
「分からない。本から出たら手紙しかなかったから、リリーが回収したんじゃないかな?」
「そうか」
使い魔は項垂れた。
なんか……様子が変だ。
いや、いつもは動物になっているからあまり表情が読めないけれど、今日はずっと人間の姿のままで、表情が見えるから違和感があるんだ。これが普通なのかも。
「著名人が載っている本を破いたのって、ケニー?」
「本?」
使い魔は顔を上げて首を傾げた。
「魔物を封じ込める本なら昔に何冊か破った」
あの本にそんな力あるのか?
「たぶんガルムの部分だけ破れてたんだよね」
「一部だけなら俺じゃない」
なら破ったのはステラだろうか。
「ガルムのことを調べているのか?」
「うん。ケニーから見たガルムってどんな人?」
「俺はあいつに嫌われている」
ネガティブだ。
「会ったことあるの? というか、もしかして知り合い?」
「知り合いってほどではないが会ったことはある」
使い魔はベッドに寝転がった。
「ケニーは、過去を変えてもらったことがあるの?」
「変えてほしい過去はない」
過去は、という部分に引っかかった。未来や現在を変えてほしいってことなのか、ただたまたまそういう言い回しになってしまっただけなのか。
「ガルムには本で会ったの?」
「いや本の中で会う方が珍しいぞ」
そういえばガルムにも魔法が達者なやつがいるんだなって言われた。
「……ってことは、ガルムって現実世界に存在しているんだ」
「お前、著名人が載っている本でガルムを調べてたんだろ? チュールも実在しているって思ってたんじゃないのか」
確かに。じゃあ、あの本の著者がガルムのことを空想の人物だと思っていたら、ガルムのことは載っていないんじゃ?
「ガルムって本当に実在しているんだよね? 都市伝説じゃないんだよね?」
「質問が多い」
と言って使い魔は黙ってしまった。けれど、動物にもならないで人間の姿でベッドに寝転がった体勢のまま目を瞑っている。
シカト寝だ。会話を諦めて本を読もうかと考えていたらため息が聞こえた。
「俺は会ったことがあるから実在していると知っているが……過去に戻れる、過去を変えられる、願いが叶う、なんて、願望が具現化した都市伝説だと思われていてもおかしくはない。実際そう思っている人間は大勢いる」
「そうなんだ……」
本当にあの破れたページにはガルムのことが載っていたのか怪しい。でもガルムじゃなかったとしたら誰が載っていたんだろう。誰を隠したかったんだろう。
「何にもしたくないんじゃなかったのか」
「え?」
「前にそう言ってただろ。あいつのことを調べるってことは過去に帰りたいのか?」
しまった。この間ホームシックだとか冗談を言ったせいで僕が過去に帰る方法を探していると思われているかもしれない。
「そんなことないよ、勉強だって途中だし、行きたいところにもまだ行ってないし」
「やりたいこと全部やったとしても過去に戻れば記憶が全部消えるんだぞ?」
それって本当なのかな? なんて疑ってもわからない。聞いておけばよかった。
ガルムはどうして過去から来たのに過去へ戻ったり未来へ行ったりできるんだろう?
そもそも、過去へ戻るとどうして記憶が消えてしまうんだろう。これに関しては、魔法のことを知らないといけない。さすがに僕ではどうしようもない。
「いいんだよ、皆が覚えていてくれるなら」
「フン」
動物が鼻を鳴らす音が聞こえた。ベッドの上に黒い狐が丸まって眠っていた。その隣に寝転がって狐の体を撫でると、少し尻尾を上げてすぐに下ろした。
「ケニーは覚えていてくれるよね」
なんとなく使い魔は僕のことを忘れない気がする。
「ただの人間って、珍しいんでしょ」
僕も、黒い狐や犬を撫でる夢を見るような気がする。夢の中で意外と狐って大きいんだな、なんて考えながら寝るんだろう。それが人間だと僕は気づけるのかな。
……無理だろうな。
狐が起きないように体を起こしてベッドから降りた。机の上にある手紙を持つ。封筒には何も書かれていない。透かして見ても何も見えない。この手紙、本当にステラ宛なんだろうか。
「………………」
ベッドと薄いマットの隙間にあるノートを取り出した。
何も書いていないページに手紙を挟んで、ノートを元の場所に戻した。




