0.破れ
たまに夜、ふと目を覚ますとステラが部屋に来ていたことがあった。そのときは、いつも使い魔は出かけている。
ぼんやり見える人影に問いかけた。
「どうしたの?」
なにも答えずに、ベッドにうつ伏せにもたれたステラの頭をそっと撫でた。
「ステラ」
どうしたのか聞くといつも黙っていた。
僕はただステラの頭を撫でて、気づいたら寝てしまっていて、そのまま誰もいない朝がきた。
夢だったのか現実だったのかわからないまま。
「おはようステラ」
「おはようチュール」
何も言わず、何も聞かず、もちろんアマリアに確認もとらなかった。
今にして思えば、あれは本物のステラだったのだろうか?
「あれ?」
図書室で調べものをしていたら本の中身が一枚だけ破り取られていた。
この本は複数人の偉人の簡易的な紹介が、二ページに一人のペースで書かれている。表には偉人の名前と来歴。裏にはこの偉人のおかげで世界がどう変わったかが書かれている。なので二ページと言っても紙は一枚分だ。
本ののどを撫でる。紙の切れ端が挟まっているわけではない。刃物等で切ったのではなく手で破られている。
僕の探していた人物が載っていたのだろうか? それとも別の人物か?
誰が破ったんだろう。いつから破れていたんだろう。僕が図書室の掃除をした後か、前か。
こういうのって魔法で戻せるんだろうけれど、誰に頼もうか。使い魔が破ったのであれば、直してくれないどころか本を取り上げられそうだ。
警備員……直してくれるかな。
「なーんだいチュールくん」
背後から声がした。
「その現れ方ビックリする」
振り返っても警備員はいなかった。
「今日はどうしたんだいチュールくん」
声だけが聞こえる。
「この本なんだけれど」
「破れているのは知っているよ。破れている理由は教えられない。僕はその本を元には戻せない」
話が早い。
「じゃあ、ガルム・イミタシオンって人知ってる?」
「知ってる。彼に関する本はないけど、彼の書いた物ならある」
「それ、どこにあるの?」
「読み物じゃないんだ」
床に本が一冊落ちてきた。いや、本というより、ノートに見える。
「踏んでみな」
読み物じゃないってそういうことか。
「読む本は……」
「ここにはない。地下にある」
「え」
あの部屋のどこかにあったのか。
頭を撫でられた。
「髪の色は変えて行くといいよ」
「行くなんて」
言っていない。と言う前に背中を押されてバランスを崩した。
行くぞと意気込んで落ちるのと、背中を押されてつい一歩踏み込んだ先へ落ちるのは、全然違う。
水に落ちて沈んで、水面を見上げる。
まただ。本に落ちた。落とされた。
息を止めて目を閉じる。大人しく地面に着くのを待つ。
ガタン、と大きな音がして目を開けた。
今回は外ではなく部屋の中で、僕はソファに座っていた。正面には机を挟んで誰も座っていないソファ。部屋の隅にはベッドと小さい本棚。誰かが住んでいるんだろうか。
床がフローリングではなく絨毯だ。
以前のように警備員がいないかと部屋の中を見回す。僕の座っていたソファの後ろにはドアが二つあった。
「リリー?」
返事はなかったが、ドアの一つが開いて、目元をお面で顔を隠した赤髪の男の人が部屋に入ってきた。
「こんにちは」
「こんにちは……」
ドアを閉めて僕の横を通り過ぎる。コーヒーの匂いがした。
男は正面の椅子に座った。
「君は何も知らずにここに来たようだね」
「は、はい。本を踏めって言われて」
「君の家には随分魔法が達者なモノがいるんだね」
僕の家ではなく、厳密に言えばステラの家だけれど。
「この部屋って、この世界って……本の中ですよね?」
そう聞くと男は頷いた。
「うん。俺という個は現実には存在していないキャラクターだ」
自覚している。とても普通に、人間のように話す。本の中の人物というと、決められたセリフしか話さないとか、決まった動きしかしないものかと思っていた。
以前本に入った時は景色を見ただけで帰されてしまったから、この本が特別なのか本とはそういうものなのかが分からないが、どちらにしても目の前にいる男が人間に見える。顔も見えていないのに。
「もしかして、あなたはガルム・イミタシオンですか?」
「ああ。俺はガルム・イミタシオンだ。何か聞きたいことがあるんだろ?」
「実在し」
たんですね。と言い終える前に、ガルムは右手の人差し指を自分の口元に当てて『静かに』と身振りした。
「先に言っておくけど、ここでは願いを叶えられない。質疑応答のみ。質問は三つまで。その前に、こちらから質問する。君が踏んだと言う本をどこで知った?」
キャラクターだ、と言ったセリフを思い出した。モブキャラのような説明。街にいる一般人A。
本の中の人物と話すとこうなるのか。対応していないことを言うとバグったりするのだろうか。
「本のことはよく知りません。居候をしている人の家にありました。貴方のことを調べていたらこの本を踏めって言われて……」
「随分コアなファンがいたもんだね」
会話ができた。
「次に、君の名前と生年月日?」
「名前は、チュールです。生年月日は知りません」
「“チュール”ね……なるほど、住所は?」
「分かりません」
「“わかりません”……」
ガルムは僕の言うことを繰り返した。
「チュール。君と俺との仲だ、質問の制限はなしでいこう」
「え?」
どう言う意味だ。誰かと間違えていないか?
「僕、あなたと会ったことありましたっけ」
「“俺”とはない。君は会ったことがあるのか?」
「ありません……」
「そうだろう。なら、ない」
混乱してくる。『俺という個は存在しない』って言ってたっけ、それってつまり本のガルムと現実のガルムは別だと考えた方がいいってことなのかな。そうだとしても僕は現実のガルムと会ったことないんだけれど……。
「で、聞きたいことは何だ? 時間がなくなるぞ」
時間制限はあるの!?
「ま、魔法を作ったと聞いたんですが本当ですか?」
男は腕を組んで息を吐いた。
「残念。俺は魔法を作ったんじゃない」
違うのか。ステラはそう言っていたのに。いや、はっきりそうだとは言っていなかった。都市伝説みたいな人物だと言っていた。
男は人差し指を立てて、手をゆっくり左右に振った。
「俺は元来そこら中に存在していたのに人間から無視されていた魔力だとか魔素だとかを、認識させたんだ」
認識。
「それが始まりですか」
「それで終わりだ。いつの間にか魔法を使えるやつが現れた。気付いたら皆が魔法を使えるようになっていた」
何だそれは。
「認識させただけでそんなことが……」
いつのまにか机の上にはコーヒーの入ったマグカップが置いてあり、男はそれを手に取って飲んだ。
本の中でも味はするんだろうか。匂いはしているけれど。
「まあ何年も変わらなかった人間が今更進化したなんて話、信じられないよな。生物学的に見てどうなんだろう? 俺はその辺専門外だから分からないな。学生の頃は選択科目で生物取ってたけど人間のことなんて学ばなかったしな」
男の言葉をそのままに受け取ると、この世界には昔から、ただ自分たちが知らないだけで魔力が存在していて、この男はそれを人に認識させ、対応出来る様に人間が進化した、と言うことになる、のか。いつから存在していたのかはわからないけれど、僕の世界にもあった可能性もある。
マグカップを机に置く男の手を目で追うと、いつのまにか僕の前にもコーヒーの入ったマグカップが置いてあるのに気づいた。これも魔法か、本の演出だろうか。
「夢が魔法の原動力だって、聞いていたのに」
「あはははっ、ファンタジーやメルヘンじゃあないんだから」
人間の進化についていろいろ気になる部分はあるけれど、一番気になっていることがある。
「あなたはどこで魔法を知ったんですか」
「俺が未来に来たときにはもうすでに魔法は存在していたよ。だから、俺が教えなくても遅かれ早かれ魔力は認知されていただろう。もしくは俺が過去に魔法を持ち込んだからこそ俺は魔法を知れたのかもしれない。こんなもの、考えたって無駄だ」
「貴方は、魔法のない過去から魔法のある未来へ来たってことですか」
「君だってそうだろ?」
何で知っているんだ。やっぱりどこかで、知らないうちに会ったんだろうか。
「あなたはなんで過去の人間に魔法を教えたんですか?」
男は背もたれに寄りかかり、天井を見上げた。
「何で……」
僕の方を見た。顔は見えないけれど、声が少し低くなった。
「誰かに知って欲しかったのかもしれない。でも有名人になりたかったわけじゃない。俺が、ただの人間であることを証明したかった」
人間であることを証明するのに、過去の人間に魔力の存在を教えることは真逆なことなんじゃないのか。
「……特別にたくさん質問に答えたんだから伝言を頼まれてくれないか」
「伝言?」
男は机を指差した。その先を追うとマグカップが小さな封筒になっていた。
「誰宛ですか」
「君と同居している人宛の手紙だ」
使い魔宛か。
「さて、そろそろ帰る時間だ」
「あの、貴方は」
男は左手の中指と親指をつけた状態で止まった。使い魔のように、魔法を使うときに指を鳴らすのだろうか。
「貴方は過去から来た人間なのに、どうして魔法が使えるんですか?」
「君はどうして魔法を使えないんだ?」
男は指を鳴らした。途端に地面に穴が開いて僕だけが落ちた。
僕は過去から来た人間だから魔法が使えない。
彼は過去から来た人間なのにどうして魔法を使えるんだ。
少しの浮遊感。
「……はぁっ、おぇ」
喉が詰まっている感覚がして咳が出た。無意識に息を止めていたんだろうか。指先が痺れている。
ゆっくり深呼吸をして落ち着いてきた頃、踏んだはずのノートを探したけれど、今回は手には何も持っていなかった。
ただ、足元に手紙が落ちていた。




