0.粗食
「おすわり」
影狼に芸を教えられたらいいなと思って何とか教えようとしているが、この犬、なかなか芸を覚えない。撫でて欲しいと擦り寄ってくるばかりで、おすわりをしても三秒ほどですぐ擦り寄ってくる。
芸を仕込むってやっぱり難しいんだな、と思っていたのに、ただ脇で見ていただけの使い魔がやるとおてもおかわりもやる。仰向けに腹を見せる。
「犬は人間をランク付けるっていうけど本当なんだね」
「餌もなしにやるからだ」
「どういうこと?」
「屋根裏で練習した」
擦り寄られて一番鬱陶しがっていた割に、一番可愛がっているじゃないか。
上下ジャージの使い魔は空中で寝返りをうった。
使い魔は今、寝ぼけている。
ある日の夜、肌寒さで目が覚めたとき布をかぶったような幽霊がベッドの脇にいて驚いた。ベッドで一緒に寝ていた使い魔が、掛け布団ごと宙に浮いていた。
浮いているだけならいい。たまに落ちてくるときがある。動物の姿で落ちてくるので、人間じゃないだけマシだけれど、そもそも動物の姿でベッドで寝ていて、寝ぼけて浮いて落ちてくる。使い魔は自分が落ちたのだと気づいていない。ただ僕が寝返りをして自分が動いただけだと思っている様子で二度寝をする。
この部屋に来て初日に床で寝る、落ちてこない、と言ったはずなのに気づけばベッドで寝ているし落ちてもくる。
最近は特に酷くなってきているので、僕はこれを夢遊病とかけて浮遊病と名付けた。
浮遊病の使い魔は、部屋の真ん中で寝転がっている。
はしたないが、机の上に上って使い魔の垂れた服に触れてみた。まるで床に寝るように寝転がっているのに使い魔の下には何もない。服を引っ張るとゆっくり近づいて来た。
あ、これ、映画っぽい。宙に浮いた人を受け止めるやつ。
服を掴んだまま机から下りた。やっぱり、映画よりもどちらかというと風船みたいだ。
腕に触れるとだらりと垂れた。さっきまでは何かに乗っているみたいだったのに。でも体をベタベタ触っても落ちては来ない。どういう原理なんだろう。
頬を軽くつねると、目がゆっくり開いた。
「おはようケニー」
「何」
「いや、何も」
舌打ちされた。何もないなら起こすな。と思っているんだろう。当然だ。
使い魔は体を起こしながらゆっくり机の上に降りた。あくびをして、僕を見下ろす。身長差がありすぎるのに気づいたらしく足元を見て、フェネックに変わって机から下りた。
机の上に上るのは失礼なことだと使い魔も思っているんだろうか。靴のままベッドに上がるのは良いのか?
使い魔がベッドの方へ行こうとしたので抱き上げると抵抗もせず簡単に持ち上げられた。
「用はないんだろう……」
気怠そうに言う。
「最近、浮遊病が凄いね」
「浮遊病?」
「夢遊病みたいに、寝ぼけてよく浮いてるから」
使い魔はあくびをした。手足がだらりと垂れている。
「疲れてる?」
「疲れた」
座って使い魔を膝の上に置いた。頭を撫でると使い魔は目を細めた。相当疲れているのか今日はされるがままだ。
「何して疲れたの?」
「同胞が死んだんだ」
「ごめん」
「いい」
ただの好奇心で無神経なことを聞いてしまった。
「お互い餌だと思ってた」
「え、餌?」
「魔力豊富の餌にしか見えなかったから、隙があれば殺して食おうと思ってたし、向こうにも思われていた、と思う」
同胞を食料として見てたのか。しかも見られていたなんて、怖いな。
「この前の黒い鳥、見ただろう。最近はあれみたいに分身だけが残っていたんだよ」
「ああ、あの……」
使い魔が頭を食べたやつ。
「分身は俺と会話もせずにただそこに立っているだけで、食っても無抵抗に食われるし、本体に何かあったんだろうなとは思ってた」
なぜか動物ではなく、人間が森の中で立っているイメージが浮かんだ。それを、使い魔は食べたのか。
「昨日やっと見つけた。人間の姿にすらなれないほど魔力がなくて、隠れていたらしい」
僕の足の上で丸まっている使い魔を撫でると、フンと鼻を鳴らした。
「食べたの?」
「美味しい餌だったよ」
「共食いだ」
「魔物じゃ何食っても共食いだ」
冗談を言って使い魔は笑った。動物の表情は読めないけれど、悲しそうに笑った気がした。
「大変だったね」
「もう疲れなくて済む」
そう言っても、ずっと疲れていたかったんだろうな。
出かけていたのは友達のためか。どれだけ探し回ったんだろう。それでも最後にはこの部屋に帰ってきた。帰って来なかったら疲れずに済んだんだろうか。
「チュール……お前、外に出たくないか」
眠くて現実と夢が混沌としているみたいだ。
「出てみたいね」
頭を撫でると使い魔は目を閉じた。
「そうか……」
「おやすみ」
使い魔が眠ってしまったので、僕もそのまま寝た。
夢も見ずに目が覚めたらベッドの上だった。使い魔もいない。
窓も時計もないから時間がわからない。ベッドから、部屋から出ると廊下が夕日に染まっている。使い魔はどこに行ったんだろう。
今日は久しぶりに晴れているから散歩に行ったのか。それとも墓参りか。
普段の使い魔からは想像できないほど弱っていたことを思い出して、死んだ使い魔の友達を考えて、自然と気持ちが落ち込んだ。けれど自分が落ち込んだことに違和感がある。使い魔に元気がなかったことに落ち込んでいるのか、知らない人間の死に落ち込んでいるのか、分からない。
夕日を見て自分に酔っているのか。
人が死んで悲しくないわけがない。僕は何を疑っているんだ。
首から下げたタグを無意識に服の上から掴んでいた。屋敷から出ても持っていろと言われたものだ。
何かおかしい。何がおかしいのかわからない。どうしたらいいか分からない。どうしようもないのに。
泣いたらいいのか? なんで僕が泣くんだ。使い魔になんて声をかけたらいいんだ? もう今さら何をかける言葉があるんだ。
他人だぞ。見たこともない他人だ。見たこともない他人が死んだんだ。僕には関係ないじゃないか。何を悩んでいるんだ。手紙を出すわけでもない。書けと言われてもいない。そう考えると、僕はなんて自由なんだろう。この世界には先生も、家族も、友人もいない。この世界にはこの世界の人しかいない。
その人の中に僕は含まれているんだろうか。
本の中に入ったときに見た、あの夕日がまた見たいな。
そう考えていても足は図書室ではなくステラの部屋へ向かっている。
「チュール?」
ステラの声がして、立ち止まって窓から視線を外すと目の前にステラが立っていた。もうそんな時間なのか。
「おかえりステラ」
「ただいま。どうかしたの?」
心配そうに見つめるステラの顔が赤く照らされている。この光景に僕は見覚えがあった。
「僕が、ここに来たときも、こんな夕日だったね」
「そうだったかしら」
「……あの……部屋に行っていい?」
普段聞かないことを聞いてしまったからか、ステラは少し間をおいて頷いた。
「いいわよ、晩ご飯までお話ししましょう」
一人でいたくなかった。よく分からないけれど何故か感傷的になっている。気持ちが落ち込んで上がってこない。
窓の外を見ながら歩いた。ステラにぶつからないように時々確認しては安心する。ずっと前を見ていればそんなことしなくて済むのに、何故か夕日から目が離せなかった。
そういえば、初めてここに来て、地下から出たときもこうして歩いていた。あのときは足がふらついて、具合も良いとは言えなかったからステラが手を繋いでくれていた。短い距離なのにたまに休憩して、ステラの部屋に着く頃には外は薄暗くなっていて、部屋に着いたらソファに座ってそのまま寝てしまって……。
「ステラ、手繋いでいい?」
「え? 良いけど……チュール、今日はやけに甘えたさんね」
たった少しの距離だ。あとほんの少しでステラの部屋に着く。




