0.いぬ
ステラに読んだ後の新聞をどうするのかと聞いたら、花を包んだり、アマリアが掃除で使ったりするという。そういえば花を剪定するときに、切った枝や葉を新聞紙に包んでいた。
「新聞紙、一枚貰えない?」
「ごめんなさい、この間全部使ってしまって……アマリアならまだ持ってるかも」
「そっか」
「何に使うの?」
「いや、大したことないんだけど」
子供の日に新聞紙でカブトを作ったという話で使い魔と盛り上がったから久しぶりに折り紙がしたくなった。と言うのが恥ずかしくなった。
朝食を食べた後、部屋に戻ると二十冊ほどの本が机の上に置いてあった。本の表紙を見ると言語の本ばかりだ。
ベッドに丸まっている犬を撫でると犬が起きた。
「おはよう。どうしたのこれ」
「おはよう……読め」
「え?」
「今日はウロチョロするな」
今日誕生日だったっけ?
「何で?」
「今日は側にいられない」
「いつもいないでしょ」
「呼ばれても答えられない」
もしものために、使い魔を呼ぶ状況が起こらないように部屋にこもっていろってことか。そう言われると出たくなる。
「分かった。今日は大人しく勉強してるよ」
「もし強盗が来たり本当に大変なことになったら自傷してステラを呼べ」
それは本当に、最悪な事態だ。
僕がうっかり怪我をしてステラを呼ぶことはあっても、この屋敷に強盗が入るなんてこと、あるとは思えない。思えないだけで、ないことはない。というのが使い魔の見解なんだろう。
「いってらっしゃい、気をつけて」
「……いってきます」
どうして使い魔は普通の小説ではなく参考書を持ってきたんだろう。ちゃんと勉強しろってことか。最近サボっていたのがバレていたんだな。
さすがに二十冊を一気に読むことはできない。ノートを読み返しながら、一冊目の母音の説明を読み終えた辺りで休憩に入った。
母音ってそういえばこんなのだったな。と思うくらいには勉強をサボっていた。
だらしない。
もう少し頑張ろう。話せなくても読めるようになろう。意味があるのかは分からないが、いつか、海外に。
無駄じゃない。無駄なわけがない、この記憶を持っていけなくても、今を無意味に過ごすよりは、断然有意義な時間を過ごしている。
ここ最近、ずっと同じことを考えている。
僕が過去から来たことを証明できないと言われたことに対して、今さら気分が落ち込む。
帰ったときに記憶がないならここで何をやっても全部無意味じゃないか。
でもそうして全て諦めてしまうのなら早く現実世界に帰ってしまえばいいじゃないか。ステラに帰りたいと頼まないのは、まだ帰りたくないからなんじゃないか。
なんで帰りたくないのか、なんて考え出したらキリがない。
別の本を手に取ってパラパラと捲った。
小説っぽいが、行間が随分と広い。
本の説明を読んでみると、どうやらこの行間は単語の意味を書き込むためのものらしい。
何が書いてあるんだろう。興味本位で辞書で一単語ずつ調べて、ノートに意味を書き込んで文章を読んでみた。
並び替えて読み替えないと普通には読めないけれど、ちゃんと文章になっている。
以前、この本と同じ言語の本、処刑人シリーズを訳そうとしたら、単語の一つ一つが難しくて上手く出来なかった。それに比べてこの本がこんなに簡単に訳せるのは、勉強させるための本だからだろう。
無茶をしようとしていたんだとようやく気付いた。読める言葉で処刑人シリーズを読んでいて難しいと感じたのに、原語版を素人が翻訳しようなんて。
頑張ればできたかもしれないが、僕には無理だった。でも、勉強方法は間違っていなかったのかもしれない。
立ち上がって背伸びをした。ずっと座っていると体が痛くなってくる。
少し体を動かしてまた座った。
本と辞書を見ながらノートに訳を書く。
本の半分、三章までの翻訳が終わった。疲れたが、何度も出てくる単語は覚えてきた。
内容はどうやら病気で入院した男が、病気をきっかけに普段の知人とは違う一面を知る話のようだ。素っ気なかった男の仕事の上司から励まされたり、逆にいつも優しかった人から嫌味を言われたり……。
僕は主人公に感情移入しすぎるのかもしれない。読んでいるとだんだん気持ちが落ち込む。
「気分転換……」
口に出して言った。
キッチンに行くとアマリアがいたので、水をもらった。
使い魔のことは話さずに、勉強をしていることを話すと本を取り出した。
「今日はいつもと違うクッキーを作ろうかと思いまして」
「そうなんだ」
アマリアはいつも参考にしている『超初心者向け! お菓子づくり』という料理本ではなく『お菓子工房サンマンのレシピ美味しいスイーツ』という料理本を手に持って僕に近づいてきた。
「タイトルに書いてあるサンマンというお店は、スイーツ好きで知らない人はいないと言われるほど有名なお店でして、そのお店の味を再現できるのであれば是非とも試したくて」
珍しくアマリアが興奮した様子で話している。
「私一人であれば失敗すると思いますが、チュールがいれば、成功率は格段に上がるかと……」
「え? 僕、勉強」
「気分転換にどうでしょうか?」
珍しく、アマリアの目が輝いている気がする。そんなにこの店のお菓子が好きなんだろうか? アマリアはお菓子を作っている印象はあるが、食べている印象は薄い。
「うん、分かった。材料を測るだけね」
「ありがとうございます」
本を見る。グラニュー糖、卵黄、食塩不使用バターなど、若干いつもと違うこだわった材料の名前が並んでいた。名前が違うだけでいつもと同じ材料なのか? 見たことない名前の材料まである。
もう少し段階を踏んでいった方がいいんじゃないか。
「アマリア……これ作れるの?」
「作ります」
「……頑張ろうね」
「はい」
適量の材料を混ぜて焼くだけという作り方よりも、混ぜる回数や使う調理器具、材料もグラム単位まで決められている方がアマリアには合っているのかもしれない。
何より、やってみなければ分からない。
「バターは常温に、って書いてあるね」
「常温にしてあります」
「さすが」
一グラムも間違えないように慎重に測る。アマリアは卵白と卵黄を器用に分けていた。
測り終えた後は混ぜて練って、均等に平らにして、焼くだけだ。
それが一番大変そうだが。
「手伝っていただきありがとうございます」
「こちらこそ。気分転換出来たよ」
あっさりとお手伝いは終わった。エプロンを外して手を洗う。
「それじゃあ頑張って」
「はい。チュールもお勉強頑張ってください」
僕は必要なかったんだろうな。
材料もグラム単位で指示されているのならアマリア一人で作れたはずだ。
でも楽しかったからいいか。部屋に戻って勉強を再開しよう。
落ち込んでいたのも忘れて部屋に向かって歩いていると後ろから突き飛ばされて床に転んでしまった。
起き上がろうとしたら背中に何かが乗った。
「何? ケニー?」
ふん、ふん、と鼻息が聞こえる。
無理やり仰向けになったが何もいない。なのに何かがお腹の辺りの匂いを嗅いでいる。撫でようとしたら手を舐められた。
影狼か。
お菓子の粉の匂いを嗅いでいるらしい。随分鼻がいい。
「ダメだよ」
押し除けて立ち上がってもまだ服の匂いを嗅いでいる。
このままだと部屋までついてきそうだ。それでも別に…………怒られるな。
足に纏わりつかれながら影狼を屋根裏に誘導する。
「おすわり」
と言うと大人しく座ったらしく足音が消えた。
頭を撫でて誤魔化しながら棚からおやつを取り出して影狼にあげる。音を立てながら枝を食べている隙に屋根裏を降りて部屋に向かった。
使い魔がいなくても何とかなる。
なんて考えた矢先に廊下で何かに躓いて転んだ。背中に何かが乗って、ふんふんと匂いを嗅いでいる。
執念深い。いや、粉の方に何か中毒性があるのか?
「仕方ない……」
最終手段だ。服を脱いで逃げた。
単語を書き取っているとノックの音が三回聞こえた。
「チュール」
ドアを開けるとステラが立っていた。
「この服どうしたの? 廊下に落ちていたけれど……」
廊下に脱ぎ捨てた服を持っていた。
正直にアマリアとクッキーを作った後に影狼にまとわりつかれた身代わりに置いたことを話すと、ステラは首を傾げた。
「ケニーは?」
今日留守にすることをステラには話していないのか。
「一人で……なんとか切り抜けたくて……」
「無茶しないでね」
「はい……」
「あと、そのクッキーが焼き上がったみたいだから勉強のきりが」
「今から行く」
着替えて部屋を出た。
廊下に差し込む日が陰っている。
ステラの部屋は甘い匂いが漂っていて、机にはクッキーと紅茶が置いてあった。
椅子に座るとアマリアがクッキーの入った皿を僕の前に置いた。
そのままアマリアがジッと僕を見てくる。
「い、いただきます」
クッキーを食べるだけでこんなに緊張することはそうそうないだろうな。
「あ、美味しい」
「本当ですか?」
お世辞でもなんでもない。
「本当に、普通に美味しい」
「それはそれは」
アマリアが珍しくニコニコしている。




