0.崇拝
「僕の世界には犬神って言うのがいてね、憑いた者の願いを叶えると同時に呪いをもたらす神様がいたんだよ」
ステラは鼻で笑った。
「そんなのよくあるじゃない」
「よくあるんだ」
「悪魔なり神なり、誰にでも願い事を叶えてもらうには大体代償がいるわよ」
「まあ、そっか。ステラは頼んで叶えてもらったことあるの?」
うーん、と視線をキョロキョロと動かした。
「ここだけの話……」
ステラは小さな声で囁いた。
僕には部屋がなかった。いつもステラの部屋にあるソファで眠っては床で起きていた。着替えをするときもステラの部屋で、ご飯を食べるのもステラの部屋だった。
そんな生活をしていたある日、広い屋敷の中から出来る限り狭い部屋を貰った。窓はないが、電気で部屋が明るくなる仕掛けがあるので部屋の中は暗くならない。
トイレも、小さいが脱衣所のある風呂もついて、クローゼットや本棚、ベッドまでつけてくれた。
「部屋の外に出るときはこれを着て」
「何これ」
「と~め~ポンチョ~(黒)」
「とーめーぽんちょかっこくろって何?」
「着た人間を透明にするポンチョよ」
そのままだ。
初めて一人で屋敷内を歩き回った。見慣れたはずの屋敷の中も、一人きりで歩くのは初めてだったのでなんとなく新鮮だ。
本当にこんな黒い布一枚で姿が消えるのかどうか不安だったが、魔法をかけたステラには僕の姿が見えていて、アマリアには見えていなかったので恐らく本当に僕は透明になったらしい。
僕のことが他の誰かにバレたら困るとステラが言っていたので、閉まっているドアは開けなかった。ポンチョを着ている間は声も発さなかった。
けれど誰ともすれ違わず、広い屋敷の隅々とまではいかないが、大方の部屋や通路を見回って、そろそろ部屋に戻ろうかと大きな窓のある廊下を歩いていた。窓の外に見える空をぼんやりと眺めながら歩く。
「…………!! …………を…………す!!」
声が聞こえ、窓に近寄って下の方を見ると塀の外を走っている車の中から四、五人の大人が外に向かって手を振っていた。車の上に四角い箱が乗っていて、箱には文字が大きく書かれていたが、読めない。何かを話しているが、よく聞き取れなかった。
車を見送ってからふと思った。僕は外に出たことがない。
この屋敷には噴水のある庭があり、入り口に大きな門があった。その先の遠くには町のような建物が見える。僕の見たことのない世界が広がっている。
「チュール」
声のする方を見るとステラが立っていた。
「あなた猫みたいね」
「どういうこと?」
「窓の外をじっと見てたから」
右手を僕の耳の横に出して何かをするのかと思えば、何もせず手を下ろして、僕の横をすり抜けていった。
その後ろを癖のように着いて行った。
「さっき変な車が通って行ったよ」
「変な車?」
「何か叫んでて、車の中の人が外に手を振ってた」
「ああ……そういえばチュールって、宗教に入ってた?」
「入ってないと思うけど……」
「そう。日本人、って感じね。あの車はキャドバ……キャドバード? キャバド……? そんな感じの名前の、宗教の車なのよね」
どの世界にも宗教はあるのか。
「ただ『あなたのために祈らせてください』と言って呪文を詠むだけなのだけど、その呪文が聞いたことのない呪文だから何を言っているのか分からないの。もし呪いなんてかけられていたら気づかないわ」
あなたも気をつけなさい。と、言われたが、僕が外に出る機会なんてあるのだろうか。
「そういえば、僕の世界には本を配り歩く人がいたよ」
「この世界にもいるわね」
「宗教とかじゃないんだ、たぶん。カゴのついた大きい台車にいろんな本を入れて歩いてる人がいて、その人に欲しい本をいうと本が貰えたんだ」
「変な人がいたものね」
「あと紙芝居を読んでくれる人とか」
「紙芝居? 人形劇をゲリラ的にやる劇団ならあるわ」
「そういえば昔、サーカスが近所に来たことがあったよ。入ったことはないんだけど…………」
あれ? 昔っていつだっけ? サーカスのチラシを貰ったのはいつだったっけ?
「サーカスね、ここでは滅んだ文化だわ。どんなのだった?」
「……行きたいって頼んだら、行っちゃダメだ……って……」
記憶の中にある、小さい僕と目線を合わせるためにいつもしゃがんで話をしてくれた男の人は、僕の父親なのだろうか。いくつのときの記憶なのかは分からないが、子供がいるようには見えない。気がする。
「チュール」
振り返りもせずに僕のことを呼んだ。
「なに?」
「大丈夫?」
立ち止まりもせずにそんなことを聞いてくる。
「大丈夫だよ」
「帰りたくなった?」
「なってないよ」
そう答えるとステラはようやく立ち止まり、振り返る。しかしこちらの様子を見るためではなく、ただ自分の部屋に着いたので立ち止まっただけだった。
「ふふ、まるで犬ね」
否定できなかった。
その夜この世界に来てから初めて一人で寝た。ベッドの上に立つと足がすごく沈んだのに、寝てみればそんなに沈んだ気がしない。掛け布団が暖かく、初めて寝る部屋だったのにすぐに眠ってしまった。
夢も見ずに熟睡し、起きるとステラが顔を覗き込んでいた。
「おはよう寝坊助さん」
「今何時……」
「おはようございます」
「おはようアマリア」
起き上がり、ベッドから出て伸びをした。
「寝相が随分よろしいことで、ベッドから落ちなかったわね。寝癖までついてる」
「体も痛くないし、いいベッドありがとうステラ」
「顔を洗って着替えて髪の毛を整えて私の部屋に来なさい」
「朝食の時間なので来てください」
アマリアが補足を入れた後二人は部屋から出て行った。
そういえばこの部屋には机がない。この部屋でご飯が食べられない。おそらくステラは置くつもりはないのだろうけど、いつか必要になる気がする。物を書くときとか。それっていつだろう。
あと、時計もない。なので今が何時なのか、何時間眠っていたのかが分からない。
せめて目覚まし時計くらいはほしい。
良い部屋をもらってほしい家具まで貰うのは気がひけるが、起きない方がステラに悪い。毎朝顔を覗かれて起きるのはもっと嫌だ。
ステラに頼んでみようと服を着替えてふと思った。
これ、ヒモだな。