0.あわ
窓から見える庭を眺めていると、猫みたいだと言われた。
「前にも言ってたね、どういう意味なの?」
「猫は窓から外を見て縄張りを見張っているでしょう」
僕の縄張りはこの屋敷なのか。
「庭に出て見たい」
「もう少ししたらシクラメンが咲きそうだから、そのときにでも」
「本当!?」
ステラは左手の小指を立てた。僕も左手の小指を立てて、ステラの小指に絡めた。
「約束だよ」
「ええ」
今って、何月なんだろう。
いつもシャワーを浴びている。と言ったらたまには湯船に浸かりなさい、とアマリアに入浴剤を貰った。ステラではなく、アマリアに。
アマリアはお風呂が好きなようで、いろんな種類の入浴剤を持ってきた。
固形から粉末から液体のものまで、その中から一つだけ固形のものを貰った。
早速その日の夜、いつも通りシャワーを浴びた後、いつも洗うだけの湯船に湯を張って、アマリアに貰った入浴剤と一緒に湯に入った。
青くて丸い入浴剤が湯の中で泡を出しながらポロポロ崩れていく。お湯がだんだん青くなっていって、中からキラキラした泡が出てきた。
石鹸であわ立てたような泡に埋もれたお湯は少しぬめりがあって変な感じだ。
女の子が好みそうな甘い匂い。アマリアに嗅覚はあるんだろうか、と思うのは失礼か。このキラキラしているもの、アマリアの身体的に大丈夫なんだろうか。
「うわ、女子かよ」
使い魔がノックもなしに壁をすり抜けて入って文句を言ってきた。
「ケニーも入る?」
「入る」
冗談のつもりだったのに、服のまま豪快に入ってきて泡と湯が思い切り顔にかかった。
「飛び込むな!」
使い魔は何が面白いのかバカみたいに笑っている。服は着ていなくて裸だった。
畳一畳もないほどの浴槽に、僕は膝を曲げて入っているが、どうも使い魔は遠慮なく足をこちらに伸ばしているようで、たまに使い魔の右足が体に当たる。
「この入浴剤誰から貰ったんだ? アマリアか?」
「そうだよ、よくわかったね」
使い魔は人差し指と親指で輪を作って息を吹いた。シャボン玉ができて空中で漂った。
指で突いても割れないので、きっと魔法だ。
「アマリアは風呂好きだからな」
「ケニーはお風呂嫌い?」
「好きだよ。毎日入ってる」
「いつ?」
「お前を寝かしつけてから温泉に行ってる」
「別に僕が起きている間に入ればよくない?」
「月を見ながら入るのが好きなんだ」
風情……。
「僕も廊下から月を眺めるのが好きだよ」
「へえ」
あ、
「寝る前ね」
本当は使い魔がいなくなってから出ている。
「別に何も聞いてないだろ」
そうは言っても、もし使い魔が夜に出かけなくなったら僕が夜にこっそり部屋を出られなくなる。それは、できるだけ避けたい。
使い魔が量産したシャボン玉を指で突いても、割れずに少し浮いては落ちていく。
湯に浮いたシャボン玉を掴んで握ろうとすると指の隙間から抜けていく。分裂も割れもせずにただすり抜ける。
空気。水の中の液体。そんな触感。
本来のシャボン玉の感触ってどんなのだっけ。覚えていない。というよりも触れたことがない。普通は触れれば割れる。
よく見ると浴槽の床や浴槽にある泡の上がシャボン玉だらけになっていた。シャボン玉って空に浮いていくんじゃなかったっけ?
「これちゃんと消せるんだよね?」
使い魔がパチン、と指を鳴らすと、僕が掴んでいたシャボン玉が割れた。驚いて目を閉じると、その間に浴槽や床にあったシャボン玉が全て消えていた。
「消さなくても良かったのに」
「消して欲しいのかとおもった」
「出して良いよ」
僕からするとシャボン玉の何が楽しいのか分からないけれど、使い魔にとってはシャボン玉は楽しいもののようだ。
「子供みたい」
シャボン玉製造機と化した使い魔は僕に向かって強く息を吹いて、小さくて細かいシャボン玉がたくさん出した。
それを手で払っても散るだけで一つも割れはしないで床に落ちた。
「ケニー、図書室に閉じ込められたとき、出たいと思ってた?」
「出られるなら出たし、出られないのなら出なくて良かった」
「怖くなかった?」
「何が?」
「出られないっていう状況」
使い魔がゆっくり息を吹いて作った30cmほどのシャボン玉を指で突くと揺れながら少し浮かんで割れた。
「怖くはなかったが、ずっとこのままは嫌だなとは思っていた」
それって怖かったんじゃないのか。
「あと、暗い場所で力抜くと眠くなるんだよな。あのときはほとんど寝て過ごしていたから何かを考えることはあまりなかった」
暗い場所だから、の他に本の力もあったんじゃないのか。
「いや……ケニーって暗くなくてもよく寝てるよね」
図星だったのか、僕の顔に向かってまた小さいシャボン玉を量産した。
「そもそもなんで本に埋もれていたの?」
「地震で本棚ごと倒れてきた。倒れた本棚はばあさんが直してくれたが、本までは片付けてくれなかった」
ばあさんって、ひいお祖母さんのことだろうか。
本も直してくれたらよかったのに、と言おうと思ったが、ステラのお祖母さんが魔法を使えないはずはない。直せなかったんだろう。
「僕が来て良かったね」
「けれどその代わりにお前を守らなきゃいけない」
「それ。その守るって僕は何から守られているの?」
「いろんなものだ」
具体的に何かと聞けばはぐらかされるんだろうな。
泡の上に落ちているシャボン玉を掴もうとしても滑って掴めなかった。上から押しても泡に埋もれて浴槽のお湯に沈んでは浮かんでくる。
「これって魔法だよね」
「風呂の特性」
そうなのか。
使い魔の真似をして人差し指と親指で丸を作り息を吹いた。
「嘘だ」
このやろう。
「お前は好奇心の塊だな」
「どういたしまして」
「ステラがお前に俺をつけた理由がよく分かる」
「僕には分からない」
好奇心で僕が外に出ないように使い魔を僕の側にいるように頼んだのなら、それは護衛ではなく見張りじゃないか。
体勢を変えようと少し足を動かすと、足が使い魔の右足に当たった。避けて右へ寄ると、浴槽の壁に当たった。
遠慮なく足を伸ばしているのかと思えば、右足しか伸ばしていなかった。泡で隠れて見えなかった。
使い魔って気づかうこともあるんだ。
「別にお前を信用していないわけじゃないと思う」
「うん?」
「お前の見張りならもっと適任がいるはずだからな」
心でも読まれたかと思った。
「ケニーも見張りのためにいるんだと思った?」
「お前には脱走なんて到底無理だろうから普通に護衛だと思っているよ」
だから何から守る護衛なんだ。
「脱走しないための見張りなら、一度外に出た時点で俺は解雇されてるはずだ。外に出した挙句、人目にまで晒して、警察に職務質問されて、傷までつけた。見張りのためにいるのならこんなことして無事で済むわけがない」
確かにそうだけれど、それよりも気になることがある。
「人に見られちゃダメなの?」
「良くない」
ダメではない。
「何で?」
「お前の髪が黒いから」
本当に、心底理解できない、その理由。
でも、それがこの世界の普通で、当然なんだ。
「…………もう出るよ」
「ああ」
話を逸らしたかったわけではなく、湯に長い時間入っていたせいで身体が熱くて仕方なかった。半身浴で長風呂するのは良いんだっけ、全身浴で長時間入るのはどうなんだ?
久しぶりに湯船に浸かって出るタイミングを見失ってしまった。
「じゃあ、お先に」
と言って、シャワーを浴びて泡を流してから風呂を出た。
体を拭いて、寝巻きに着替えて、ベッドに寝転がって、ぼんやり天井を眺めた。部屋が涼しい気がする。いや、僕が熱いのか。
入浴剤、あれも言ってしまえば魔法みたいなものだ。僕にはどうして固形物を溶かすとあんなに泡立つのか、お湯にぬめりが出るのか分からない。
仕組みがわからないから魔法だと言われても信じてしまうだろうな。それは言い過ぎか。
使い魔はちゃんと浴槽を洗ってくれるだろうか……。




