真夏の夜の幽霊先輩
「聞いてよ少年!実は私、幽霊なんだ!」
「そうですか、それはよかったですね」
窓から入ってくる日射しが肌と目を突き刺し、扇風機すらない小部屋は蒸し暑かった。こぼれ落ちる汗をハンカチで拭い、黄ばんだページに再度目を落とす。
「ねーねー、聞いてる?おーい」
「……」
「歩夢くんは怖くないの?幽霊だよ?」
「……」
「もー、しょうがないなあ。それ何の本?人間、失格……あー、あの自殺した文豪の本かぁ!相変わらずつまらなそうなの読んでるねぇ」
豪快に笑いながら、自称幽霊が俺の背中をバシバシ叩いてくる。痛い。
諦めて本を閉じ、ズレた眼鏡を直して振り返る。
「何ですか、先輩。暇なんですか」
艶やかな黒髪を赤いヘアゴムで高く結った、色白でスラリと背の高い美人。レンズ越しに見る彼女は、今日も今日とて馬鹿みたいに明るい。あまりに明るくて、日陰でひっそりと生きるような雑草にはいささか毒だ。相手にするだけで疲れてくる。
一つ上の先輩、綾崎夏夜と名乗った彼女と出会ったのは一ヶ月前。
先に言っておくと、俺は人と話すのがあまり好きじゃない。大勢の中にいるのも嫌いだ。だから一人で過ごせる場所を探して彷徨っていたのだが、幽霊が出ると噂のある狭い物置部屋を運よく見つけ、以来自分の縄張りにしていた。その問題の部屋がここである。
なのに、ある時このうるさい人に、この部屋に入るところを見られてしまい、それからずっとつきまとわれている。
心の中で思い返してうんざりしていると、綾崎先輩は大きな瞳を輝かせて、
「やっとこっちを見てくれたね、少年!会いたかったよ〜」
「はぁ」
ぺしぺし、俺の頬を無意味に叩いてくる。僅かに下にある顔は楽しそうだ。
「最近毎日来てるじゃないですか。受験勉強どうしたんですか。浪人しますよ」
「甘いぞ少年、就職や留年といった可能性もなきにしもあらずだ」
「くだらないこと言ってないで勉強したらどうですか」
「うわーん、歩夢くんが冷たい」
顔を手で覆って泣き真似をする。それでいて、チラチラと指の隙間から様子をうかがってくるのが鬱陶しい。
「で、何の用ですか。幽霊がどうとか言ってましたよね」
「そうそうそれ!私は幽霊なんだよ!」
ガバッと顔を上げて俺の肩をつかむ。
「はぁ」
「私は死んでるんだけど、歩夢くんと仲良くなりたくてこの世に戻って来たの!ああ、私ってなんて健気なんだろう!」
「その設定意味あります?」
「だから、歩夢くんのこともっと知りたいし、私のことも知ってほしいな!」
「興味ありません」
「まあまあそう言わずに〜」
ウザい。心底ウザい。
綾崎先輩は俺が使っている壊れかけの机に跳び乗ると、行儀悪く長い足をぶらぶらさせ、勝手に話し始めた。
「私は八月の真夜中に産まれたから、夏夜って名前なんだ〜。夏と言えば怪談、夜と言えば幽霊、まさしく私!あとお母さんがシェイクスピアが好きで『真夏の夜の夢』にかけてるの。素敵でしょ?」
「先輩シェイクスピア知ってたんですか。すごいですね」
「ちょっとぉ、馬鹿にしてるでしょ!」
「いえ全く」
適当にあしらうとムッとされた。だが、すぐににっこりする。
「私は本とか読まないけど、友達が読書家なの。お母さんといつも話が盛り上がっちゃって私だけ置いてけぼりなんだよ、酷いよね!でも、その子も本が大好きだから、歩夢くんと仲良くなれるんじゃないかな?」
「興味ありません」
「えー、本好きでしょ?」
「好きですよ。でも本は一人で読むものですから」
自分が読みたいものを、読みたい時に、静かな部屋にこもって好きなだけ読む。これが俺の幸せだ。誰かと本について語り合いたいわけじゃない。
俺の数少ない至福の時間を奪っていることを、この人はわかっているのだろうか。ないな、きっと。
溜息をついて外に目をやる。自己主張の強い陽光に網膜を食い千切られそうだった。ペンキを塗りたくったような単調な青空も何となく気に食わない。埃臭くて蒸し暑い空気、狂ったように鳴き喚く蝉の声、汗が流れ落ちる感覚。この場の何もかもが不快で、文句を言うにはあまりに怠かった。
「ねぇ!」
耳元で声が弾けた。ビクッと肩が跳ねる。
綾崎先輩が頬を膨らませ、不安定な机の上で膝立ちになって、俺を睨んでいる。
「聞いてなかったでしょ!」
「聞いてましたよ」
「嘘!じゃあ、私は何て言った?」
黙りこむと、ほらぁと勝ち誇ったように腕を組んだ。面倒くさい人だな。
「すみません、聞いてませんでした」
「素直でよろしい。さっきは歩夢くんの好きな食べ物について聞いたんだよ」
「は?俺の、ですか?」
さっきまで自分の話をしていたのではなかったか。突飛な話題に眉を顰めると、
「そうそう。先輩が手料理を作ってあげようぞ」
「急にどうしたんですか」
「歩夢くんと友達になりたいから、まず胃袋をつかもうと思ってね!」
「はぁ」
俺みたいな地味で暗い男にわざわざ拘らなくたって、綾崎先輩ほどの美人ならいくらでもヒトはいるだろうに。それとも、日陰者への一種の哀れみだろうか。だとしたら迷惑な話だ。
「何が好き?私、料理はわりと得意だから何でも言って!お菓子でもいいよ!」
「じゃあ、りんご飴で」
「オッケー、りんご飴、ね……え!?」
綾崎先輩は大きな瞳をさらに見開いた。
「り、りんご飴?どうしよう、作ったことない……」
「冗談です」
「何その冗談!しかも真顔!面白くなーいっ」
「最近の流行りは、冗談をいかにつまらなくかつまことしやかに語れるかですよ、先輩。遅れてますね」
「そ、そうなの?」
「もちろん冗談です」
「先輩を馬鹿にするんじゃない!」
ドンと机を叩く。グラグラ、ただでさえ不安定な机が軋む。
机が壊れて綾崎先輩が勝手に怪我するのは構わないが、巻き添えを食らうのはごめんだ。椅子ごと少し下がり、冷めた目で元気な彼女を眺めた。
「ま、いいわ。許してあげよう!そろそろ授業だから行くね」
「幽霊なのに授業受けてるんですか?」
「その設定、覚えててくれたんだね。嬉しい!」
「先輩よりは記憶力がいいので」
「何よぅ、先輩に対する敬意が足りないぞ!というか、君は授業受けないの?」
「次のは選択式なので。サボりじゃないですよ」
すると、綾崎先輩は少し眉を下げ、心配そうに俺を見つめてきた。
「じゃあ、ここにいるの?」
「ええ」
「時間さえあれば、いつもここに来てるね。友達はいいの?」
「いないものにいいも悪いもないでしょう。俺のことはいいので、さっさと帰ってください。ようやく読書が再開できるんですから」
冷たくあしらったが、綾崎先輩は怒らなかった。
ただ、ちょっと寂しげに目を伏せて、それから柔らかに微笑んだ。
「そっか。じゃあ、また明日ね」
「もう来ないでください」
「やぁだよ〜」
ぺろっと舌を出して、走って行く。揺れるポニーテールが見えなくなったところで、長い溜息を吐き出した。
疲れた。本を読む気も失せてしまった。
ちらりとまた外に目をやると、馬鹿丸出しで青かった空に、灰色の雲が浮かんでいた。
次の日の昼休み、文庫本を読んでいると、いつものように綾崎先輩がやってきた。
「やっほー、幽霊先輩のお通りだよ〜!」
無視して読み進めていると、目の前から本が消えた。
「あれ、昨日と違うの読んでるね?『友情』、武者小路実篤……白樺派かぁ。『人間失格』と作風違いすぎない?」
「返してください」
「こっちを見るまで返しませーん」
綾崎先輩は本を高々と掲げ、得意げに笑った。無理に奪い返すこともできるが、面倒くさくなって諦めた。
「もしかして歩夢くんは友情を育みたいの?私と育んじゃう?」
「それを読んでたからと言うなら、『友情』の主人公は好きな女を親友に取られますよ。しかもそこまでの経緯を書いた文章を雑誌に載せられ、恋した女がいかに自分を嫌っていたのかを世間に公開されてますし」
冷たく言うと、綾崎先輩はウッと声を詰まらせる。が、手をグーにして力説し始めた。
「そんなことないよ!大宮は野島を裏切りたくなくて、ずっと悩んで苦しんで、杉子を譲ろうとしてたでしょ!あれこそ友情だよ!君の言い方だと昼ドラみたいじゃない」
「よく知ってますね」
「ん?何が?」
「『友情』ですよ。読んだことあるんですか?」
出てきた名前は、全て『友情』の登場人物だ。昨日俺が読んでいた『人間失格』ならまだしも、本に興味がない綾崎先輩が『友情』を知っているとは思わなかった。そう言えば、すぐに白樺派と反応もしていた。
純粋に驚いていると、綾崎先輩はえへへと笑って、
「友達が話してたんだよね。その子、『友情』で読書感想文書くくらい好きだったみたいだし」
「ああ、例の本好きの友達ですか」
「そうだよ。今度紹介しようか?」
「結構です。しつこい人ですね」
しつこいとは何だと憤慨する先輩から目を逸らし、本をしまう。この人と一緒にいて読書を楽しめたことなどない。
「歩夢くん、お昼は?」
「もう食べました」
「そんなぁ。一緒に食べようと思ってたのに」
「幽霊なのに食事が必要なんですか」
「仏壇にお水や果物を備えたりするでしょ。それと一緒よ!」
「なる……ほど……?」
くだらないやり取りを漫然としていると、綾崎先輩は弁当箱の他にプラスチックの容器を取り出した。蓋を外すと、ハートや星の形をしたクッキーが入っている。
「はい、歩夢くんにプレゼント!」
「は?」
綾崎先輩はにこにこしながら、これはココアだの、レモン風味だのと説明してくる。聞きたいのはそこじゃない。
「何ですか、これ。俺を毒殺するつもりですか?」
「もうっ、何でいつもそうなるのよ!このひねくれ者!りんご飴の代わりだよ、あの甘い飴が好きならお菓子も好きでしょ?」
驚いた。
酷く驚いて、思わず綾崎先輩の顔をまじまじと見つめてしまった。
りんご飴と言ったのは半分本当だし、先輩の言う通り甘いものは好きだ。だが、本当に作ってくるとは思っていなかった。
この人は何が目的なんだろうと、何十回も繰り返した疑問がわき上がってくる。俺のような不愛想なガキを相手にして、何が楽しいのだろう。
けれど、先輩の顔のどこにも邪気は見当たらなくて、結局今日もわからなかった。
「……暇なんですね。そんなことばかりしてると、本当に受験失敗しますよ」
「酷い!」
「冗談です。……ありがとうございます」
ボソッと付け足すと、先輩はキョトンとして、それからぱぁっと顔を輝かせた。
「どういたしまして!さあ、召し上がれ~」
たった一言なのに、ぶっきらぼうな言い方だったのに、綾崎先輩はご褒美をもらった子供のように嬉しそうだった。そのままわくわくとこちらを見つめてくる。
無邪気で、可愛くて、……認めたくはないがドキリとした。自覚した途端、じわじわと頬が熱を帯びてくる。
悔しくなって無造作にクッキーをつかみ噛み砕く。そして、
「……美味い」
「でしょ!よかった~!」
甘すぎず、サクサクと軽い。別の形のクッキーをつまむと、違う味だがやっぱり美味い。
ついひょいひょい口に放りこみ、ふと気づくと、先輩は頬杖をついてクッキーを食べる俺を見守っていた。
目が合うと、にっこりしながら首を傾げる。
ドキンと心臓が跳ねて、顔が一気に熱くなる。ちくしょう、何でこんな人に動揺してるんだ。たかが菓子くらいで。自分に言い聞かせても、綾崎先輩の顔が見れない。
「歩夢くん、顔が赤いけど大丈夫?風邪?」
「部屋が暑いからですよ」
「そう?昨日より涼しいと思うけど……?」
「先輩の体感温度がおかしいんですよ。幽霊なんでしょ」
そう、おかしいのは綾崎先輩だ。俺じゃない。俺は至って冷静で、いつも通りなのだ。
先輩が文句を言っているらしいがよく聞こえない。昨日はあんなにうるさかった蝉の声も、自分の内側から聞こえる音にかき消されていた。
ちくしょう。何なんだ、これは。
気がつけばクッキーは最後の一枚で、半ば自棄になりながら口に入れると、甘ったるい蜂蜜の味がした。
一週間ぶりにあの物置部屋に行くと、朝っぱらだというのに綾崎先輩がいた。俺がいつも使っている椅子にちょこんと体育座りして、イヤホンで音楽を聞いているらしかった。
そんな行儀の悪い座り方をしているものだから、真っ白な太腿が上の方まで見えてしまい、サッと目を逸らす。急に部屋が暑くなり、喉も渇いてきた。以前は行儀が悪いなくらいにしか思わなかったのに。
綾崎先輩に会いたくなくてしばらく来なかったのに、先客として居座っていたとは。しかも、こっそり出て行こうとした途端、先輩はこちらに気づいてしまった。イヤホンを放り投げ、忠犬よろしく駆けてくる。
「おはよう少年!会いたかったよ!」
「おはようございます。俺は朝から先輩の顔を見てしまい大変ブルーです」
「大丈夫だよ、顔色変わってないから」
「顔ではなく心です。心が豊かなので」
「ちょっと面白いから死んだ目でそういうこと言わないで」
綾崎先輩はくくっと喉の奥で笑い声を立てると、キラキラした眼差しで、
「今日は何の本?」
「興味ないはずですよね」
「歩夢くんの読む本には興味あるよ」
まただ。また、ヒトを勘違いさせるようなことを言ってくる。
朗らかな笑顔から顔を背けて、ボソボソ呟く。
「今日は何も持ってません」
「そうなの?珍しいね。最近ここに来てなかったし、何か事情があるの?」
「ただの気分です」
綾崎先輩はこてんと首を傾げて、そんなものなのかなぁと呟いた。そんなものだ、そういうことにしておこう。
埃の積もったガラクタの間を縫って、壊れかけの椅子と机まで辿りつくと、いつの間にか先輩が目の前に移動していた。ちょっと目を見張る。
「気配消すのやめてください。本当に幽霊みたいじゃないですか」
「だって幽霊だもーん」
からりと笑って、それから急に真面目な顔になった。
「歩夢くん、来週の土曜日ってあいてる?」
「土曜日?あいてますよ」
「よかったら一緒にお祭り行かない?そこで、りんご飴食べよう!」
「はい?……りんご飴?」
「好きだって言ってたでしょ?だから、行こう!」
ギュッと両手を組み合わせて、必死な目をしてくる。口調こそ明るいが、わけもなく切羽詰まったものを感じた。
「い、いい……ですよ」
気づいたら、空気に飲まれるようにして頷いていた。
しまった。会わないようにしていたのに、これじゃ間逆じゃないか。
だが、先輩の顔を見た途端、訂正の言葉はどこかに消えてしまった。
「ありがとう!……ありがとう!」
黒い瞳を微かに潤ませ、頬を薔薇色に染めて微笑みながら、先輩は何度もそう言った。
一瞬固まって、すぐに目を逸らす。そんな顔をされたら見惚れてしまうじゃないかと、妙に腹立たしい気分になりながら。
授業が終わり、休み時間で賑やかになるクラスの中で、今朝のことを思い出す。
綾崎先輩は忙しく、夏祭りの日まで会えないらしい。それもそうだ、受験生なのだから。最近の行動だってどうかと思う。
騒がしい教室でぼんやりと外を眺める。灰色の雲に覆われた空と湿気の臭い。これは一雨きそうだ。
本も読まずに休み時間を潰していると、目の前に女子生徒が立った。
誰だったか。生真面目そうな顔に見覚えがあるが、名前が思い出せない。学級委員長のような気もする。
「市川くん、ちょっといい?」
市川くんというのは間違いなく俺だ。だが、委員長に咎められるようなことをした覚えはない。
「……何か」
「最近、校舎の北の物置部屋を勝手に使ってるそうね。しかも、女子生徒と二人きりで。どういうこと?」
予想外の内容に目を見張り、驚きが引くと心が冷えてゆくのを感じた。
勘違いだし、そもそもそういう類のことで怪しい生徒なんてそこらじゅうにいる。わざわざ言ってきたのは、地味で冴えない俺に噂が立ったからだろう。
普段は空気同然の俺に視線が集まってくる。周りのお喋りがただの雑音から悪意へと変わる。
だから、教室は嫌なんだ。
「ちょっと、聞いてるの?風紀を乱されるのは困るのよ。場合によっては先生に報告するから」
「……好きにしろよ」
ボソッと吐き捨てた言葉は、運よく委員長には届かなかった。
「聞こえないわよ。もっとはっきり言って」
「……勝手に部屋を使ったことは認めるよ。でも、心配されるようなことなんて何もないから。そもそも俺みたいな奴にあるわけないだろ」
口から出た言葉が、俺自身に突き刺さった。
うるさくて馬鹿だけど、綺麗で明るくて、お菓子づくりの上手な先輩が、ただの好意から優しくしてくれるはずがないじゃないか、と。
亀裂から劣等感がドロリと溢れて、真っ黒な毒のように身体に染みこんでゆく。
「何なら、先輩本人にも聞けよ。何もなかったって証拠が取れるんじゃないか」
馬鹿は俺だ。調子に乗っていた。
夏だというのに薄ら寒くて、腹の底は熱かった。委員長の咎める声も、周りの喧騒もどこか遠い。降り始めた雨音が塗りつぶしてゆく。
あの部屋に行くのはやめよう。夏祭りの約束も忘れよう。日陰者には分不相応だったのだから。
「その先輩って誰?」
「綾崎夏夜先輩。クラスは知らない」
投げやりに答えた瞬間、空気が凍りついた。
委員長は驚いた顔のまま固まっていて、クラスメイトはヒソヒソと話している。内容は聞き取れないが、今までよりももっと嫌な空気だった。
「ふざけないで!そんなはずないし、第一不謹慎よ。それとも、幽霊と一緒にいたとでも言う気?」
委員長がキッと俺を睨む。
一方、俺は当惑して答えに詰まっていた。
何故、先輩の幽霊ネタを知っているのだろう。不謹慎というのも意味がわからない。
聞き返そうとした瞬間、雷鳴が俺の耳をつんざいた。
「綾崎夏夜先輩は、二ヶ月前に転落事故で死んだじゃない」
二ヶ月前、綾崎夏夜は学校の屋上から落ちて死んだ。
友達と遊んでいたところ、老朽化したフェンスにもたれかかり、壊れたフェンスごと転落した。
それから少しして、校舎の北の物置部屋に女子生徒の幽霊が出るという噂が広まり、誰も近寄らなくなった。
綾崎夏夜という名前の生徒は、死んだ彼女しかいなかった。
もう来ないと決めたはずの部屋で、椅子に座ることすらせず、ガラクタにもたれかかって天井を見上げた。
『綾崎夏夜』と過ごした時間は短い。俺が彼女のことを知ろうとしなかったから、何もわからない。一緒に出かける約束をしたのに、連絡先さえ交換しなかった。
「……寒いな」
ぽつりと呟くと、よけいに身体の芯が冷えた。外は快晴なのに。
いつの間にか、この部屋は一人で過ごすには広くなりすぎていた。
空が鮮やかな紅と金に染まり、沈みかけの太陽が最後の光を放つ夕刻、俺は私服で寂れた神社の前に突っ立っていた。
色とりどりの浴衣や甚平を着た、子供づれの家族や友達、カップルなんかが目の前を通り過ぎてゆく。気温だけでなく人の熱気でかなり蒸し暑く、みんなうちわでひっきりなしに扇いでいる。だが、どの顔も楽しそうだった。
今日は綾崎先輩と約束した夏祭りの日だった。待ち合わせた時間からもう三十分は経っている。
流れる汗をハンカチで拭いながら、溜息をつく。俺は何をやっているのだろう。
もともと人混みもうるさいのも嫌いだ。夏祭りなんて一回行ったことがあるかないかだし、もちろん好きじゃない。食べ物だって衛生的ではないし、無駄に高いし、カツアゲやスリに遭う危険性もある。
それでも行くと約束してしまった。我ながら馬鹿だと思う。
その時、
「歩夢くん!遅れてごめんね〜!」
からんころん、からんころん。下駄の音に混ざる、明るい声。
顔を上げると、綾崎先輩がりんご飴を握った手をブンブン振りながら、人にぶつかりつつ走ってきた。白地に青い朝顔の袖と、髪に挿した球飾りのついた簪が一緒に揺れる。
俺の前で止まると、肩で息をしながら手を合わせた。
「ごめんね!浴衣着るのに時間かかっちゃって、お詫びにりんご飴を買っておいてあげようと思ったら混んでたの」
「相変わらず馬鹿ですね」
「うぐっ……ごめんなさい」
「冗談ですよ。りんご飴、ありがとうございます」
すると、綾崎先輩はにっこり笑った。薄く化粧をしているらしく、笑みを浮かべた唇はつやつやと光って、肌もいつもより白く、頬は走ってきたため紅潮している。
とてもとても、綺麗だった。
「はい、どうぞ。屋台のおばさんが大きめのを選んでくれたんだ〜。私の分も買っちゃった」
先輩がりんご飴に齧りつきながら言う。そして、甘い甘いとはしゃぎながら美味しそうに食べる。
俺は食べずに、彼女の様子をじっと見つめた。
「食べないの?毒なら入ってないぞ、少年!」
「いただきます。でも、その前に一ついいですか」
「……どうしたの?」
「あなたは、誰ですか」
湿った風が吹いて、ざわざわと木々が揺れる。周りの声も、姿も消えて、世界に先輩と二人だけでいるような気さえした。
彼女の頬から朱が引いて、大きな瞳が緩くまばたく。少し遅れて、笑い声をあげた。
「変なこと言わないでよ~。まさか、私を忘れちゃったって言うんじゃないでしょ?」
「忘れてませんよ。でも、あなたが誰かは知らない」
ポケットから出した写真を突きつけると、先輩の顔から笑みが消えた。
「この写真の真ん中に写っているのが綾崎夏夜先輩です。彼女は二ヶ月前に転落事故で亡くなっています」
写真に写っているのは、ポニーテールと笑顔が快活な印象の、全くの別人だ。おとなしそうな眼鏡をかけた少女と映っている。
「本当に幽霊だとしたら、同じ顔で出てくるはずですよね。また、学校中の名簿を調べましたが、他に綾崎夏夜という生徒はいませんでした」
委員長から話を聞いた時、本当に幽霊なのではないかと思ったりもした。あの部屋は幽霊が出ると言う噂があるし、時系列的にも一致する。
だが、違った。彼女は幽霊でも何でもない、『綾崎夏夜』のふりをした誰かだったのだ。
「先輩は、『綾崎夏夜』先輩の、本好きな友達ではないですか」
先輩は何も言わない。目を伏せ、食べかけのりんご飴をギュッと握って、静かに聞いている。
「先輩は本を読まないと言いながら、よく知っていましたね。友達が話してくれたそうですが、興味のない話を細かく覚えていられるはずがない。その友達こそが先輩本人です。違いますか?」
やはり、先輩は何も言わない。
俺は深呼吸して、心を落ち着けようとした。勢いのまま口にしたら怒鳴ってしまいそうだったから。何故、今まで騙していたのか、と。
「どうして『綾崎夏夜』のふりをしたんですか。どうして、俺に接触しようとしたんですか。何が目的なんですか」
最後の方は震えてしまった。けれど、先輩の耳には届いたようだ。
先輩は苦しそうに顔を歪めて、それから諦めたように笑った。
「嘘ついて、ごめんね」
溜息のような声音。ゆらゆら、黒い瞳が儚げに揺れる。
「その写真の、夏夜の隣にいるのが、私だよ」
「……え?」
写真に目を落とす。前髪が長すぎて眼鏡にかかり、自信なさげな笑みを浮かべている。黒髪をおさげにした地味な少女を凝視し、顔を上げて先輩と見比べる。
「……え?」
ぜんっぜん、似てない。
何なら、髪型と雰囲気だけなら綾崎夏夜の方が似ているくらいだ。
目を白黒させる俺に、別人だよねぇと先輩が苦笑する。
「もはや原型ないよね。一応言っとくと整形じゃないよ。髪型変えて、喋り方とか雰囲気とかを夏夜に似せてみただけ。……でも、嬉しかった」
伏せた瞳がふっと翳る。
「また夏夜に会えたみたいだった。私が、夏夜になりたかったの」
染み入るような悲しい声。透明な眼差しが、微かに潤む。
「前の私は写真の通り地味で暗くて、人と関わるのが苦手だった。友達もいなかった。そんな私に優しくしてくれたのが夏夜だった。……あの物置部屋は、私と夏夜が内緒の話をする場所だった」
「え……」
驚く俺を見て、先輩は懐かしむように遠くに視線を投げる。
「夏夜はね、ずっと歩夢くんに話しかけたかったんだって。小学二年生くらいの時、一緒に遊ぶくらい仲良しだったらしいよ?」
「……え?俺が?」
待って、何も覚えてない。
「『真夏の夜の夢』みたいな名前だって最初に言ったの、歩夢くんだったって。私が夏夜と仲良くなったのも、その話がきっかけだった」
何も覚えてない。小学二年生どころか、小学校高学年の記憶すらだいぶ怪しい俺が思い出せるはずがない。因みに、記憶力が激しく低いのではなく、興味のないことは瞬間的に忘却してしまうのだ。
「でも、歩夢くん話しかけるなオーラすごいし、自分のこと覚えてなかったらどうしようって夏夜は悩んでて……」
図星だ。何も言えない。
「そんなに気にすることなかったのにね、こんなに面白くて変な人だったのに。……でも、もう、会えないね」
地面に雨粒が一つだけ落ちるような、小さなひとりごとだった。
先輩は泣いてはいなかった。悲壮な表情もしていない。
けれど、微笑みを浮かべた唇や、薄い肩や、りんご飴を握りしめる手は小刻みに震えている。
「夏夜が屋上から落ちた時、一緒にいたの。あんなことになるなんて思わなかった。……何も、できなかったよ」
ごめんね、ごめんなさい。そんな言葉が聞こえるようだった。
だが、少し間を置いて、先輩はまた微笑んだ。
「……だから、きみがあの物置部屋に入って行くのを見た時、運命だと思ったよ。私のエゴかもしれない、それでも、夏夜がそうさせたんだと思った。……思いたかったの方が、正しい、かな。だから、私が『綾崎夏夜』になって歩夢くんに会いに行った。夏祭りに誘ったのも、夏夜が行きたいって言ってたから。全部、ぜんぶ」
「それで、幽霊なんて言ってたんですか?」
「その方が本当に夏夜が帰ってきたみたいだから、さ。きみにとっては冗談にしか聞こえないだろうし」
言い終わると、先輩は深々と溜息をついて、項垂れた。
「今まで騙していて、ごめんなさい」
緩やかに周りの音や風景が戻ってくる。夕陽はいつの間にか沈んで、薄藍の空で白い月が笑っている。
口を開く。が、喉が塞がって声が出ない。滲んだ汗が伝い落ちた。固まったままの俺の前を、浴衣の群れが通り過ぎてゆく。
「……あ、の」
先輩が顔を上げた。
「あの、先輩」
「なに?……文句だったらいくらでも聞くぞ、少年!今なら出血大サービス、」
「違うッ」
咄嗟に怒鳴ってしまい、手で自分の口を塞ぐ。これじゃあ、怒ってるみたいじゃないか。
「いや、違うんです。そういうつもりじゃ……」
「そ、そっか。ごめんね」
「……先輩の、名前」
ボソッと言ったからか、伝わらなかったようだ。首を傾げられる。
「先輩の名前、……お、教えてくれませんか」
沈黙が落ちた。
先輩はキョトンとして考えこんだが、やがってぷっとふき出して、
「あはははっ、そ、そんなこと〜?怖い顔するから何かと思ったじゃないの!」
「そんなことって!」
「そんなことだよ、普通に聞きなよ〜」
「……元はと言えば、先輩のせいなのに」
ジロッと睨むと、先輩はけらけら笑ってごめんね〜と言い、また笑う。さっきの「ごめんね」とはえらい違いだ。
「ごめんごめん、いっつも仏頂面のきみが緊張してたからさ。ついね」
「ついって……」
「で、名前だよね?そう言えば言ってなかったな〜」
滲んだ涙を指先で拭うと、背筋を伸ばし、ふわりと微笑んだ。
「橘京子です。……初めまして」
初めまして。
そうか。初めまして、か。
照れたように付け足された言葉が、ストンと胸に落ちた。
「市川、歩夢です。初めまして」
「知ってるよ〜、変なの」
「……もういいです」
「え、なに、何で怒ってるの?」
オロオロする橘先輩を無視してりんご飴を齧る。水飴だけの部分は舌が痺れるほど甘くて、少し顔をしかめる。
喉に絡みつく甘い塊を飲みこんで、ふと尋ねた。
「そう言えば、何で忙しかったんですか?」
「ああ、単にテストの結果が悪すぎて補習受けさせられてただけだよ。いやぁ、受験生は大変だね〜」
「大変だね〜じゃないですよ。アホですか。今すぐ帰ってください」
「こら、先輩に対する敬意が足りないぞ!」
言い返そうと口を開いた時、大砲のような音がドンと腹の底に響いた。少しして、すっかり暗くなった空に鮮やかな光が昇り、弾ける。
「花火だ〜!」
橘先輩が目を輝かせ、子供のようにはしゃぐ。
その一発を皮切りに、次々と花火が打ち上げられてゆく。赤、青、緑、黄色、絶え間なく光の花が咲いて、散って、辺りは歓声と硝煙の匂いで満たされる。
橘先輩はぴょんぴょん飛び跳ねて、花火が一つ打ち上がるたびに大騒ぎしている。幽霊こと『綾崎夏夜』を自称していた頃と何ら変わらない、底抜けに明るい姿だった。写真で見たおとなしそうな少女と似ても似つかない。
綾崎夏夜本人がどんな人だったのかは今となってはわからないが、少なくとも橘先輩ほど幼稚ではないだろう。
やれやれと溜息をついた、その時だった。
鼓膜が破れるほど盛大に、巨大な花火が打ち上がり、鮮やかな紅と金の光が橘先輩の横顔を照らす。
泣いていた。
唇をほころばせ、手を叩いて花火を見上げながら、透き通った瞳から大粒の涙をぽろぽろこぼしている。時折、ひくりと喉を動かし、ギュッと唇を噛み締め、また微笑みを浮かべて顔を上げる。何度も、何度も。
何かを呟いた。花火にかき消されて聞こえなかったが、かや、と言ったように見えた。
胸が押し潰されるようだった。ねっとりとした甘さが残る舌が苦いものに変わり、焦燥感と躊躇いに身動きが取れないまま焼かれる。
思い返して見れば、結局、俺は橘京子先輩のことを亡くなった綾崎夏夜のことより知らないのだ。
本当はどんな人で、何を思っているのかわからないくせに、彼女に惹かれる自分は何て愚かなんだろう。何も、何も知らないくせに。
「なら、聞けばいいじゃない」
唐突に耳元で聞こえた声に振り返ると、俺の後ろを制服姿の少女が通りすぎるところだった。
風もないのにポニーテールとスカートの裾がゆらゆら揺れ、人混みの中を滑るように擦り抜け、遠ざかってゆく。
顔は見えなかった。けれど、口元に笑みらしきものを見た時、ざわりと鳥肌が立った。
「え、あ、」
追いかけようとした瞬間、立て続けに花火が打ち上げられ、興奮した子供にぶつかられて尻もちをつく。そうしている間に、少女は人の波に飲まれて見えなくなっていた。
呆然としていると、白く柔らかな手が差し伸べられた。
「大丈夫?」
橘先輩はもう泣いていなかった。けれど、少年は本当に鈍臭いなぁと、細めた目は赤い。
「……せん、ぱい」
「ん?」
「先輩、あ、綾崎先輩が」
「夏夜が?」
こてんと橘先輩が首を傾げる。無垢な眼差しを見た途端、急に自信がなくなってきた。
あれは、本当に綾崎夏夜だったのだろうか。そもそも俺が見たのは現実だったのだろうか。自分に都合よく聞こえた、ただの雑音かもしれない。
ほんの少し前のことなのに、ふわふわと曖昧で、花火の音にかき消されて薄らいでゆく。まるで、明け方に見た夢のように。
聞けばいいじゃない、か。
もう声も思い出せないが、言葉だけはしっかりと刻まれている。
俺は立ち上がると、引っこめようとした橘先輩の手をつかんで、花火や歓声に負けないように、叫んだ。
「橘先輩は、『真夏の夜の夢』を持っていますか!」
「う、うん。持ってるよ?」
「実は俺、読んだことないんです!」
「そ、そうなんだ。貸そうか?」
マズい、若干引かれてる。言いたいことはそれじゃないのに。自分から人と関わろうとする努力をしなかったツケがこんなところで回ってくるなんて。
「お願いします。それと、色々教えてください」
「何を?」
「先輩のことです!」
怒鳴ってから、はたと止まる。俺は今、ものすごく恥ずかしい発言をしなかったか。
橘先輩が目を見開いたまま固まっているのを見て、頬がカァッと熱くなる。
「変な意味じゃないです、大丈夫なので心配しないでください。というか誤解しないでください。ただ、橘先輩と本の話できたらいいとか、綾崎先輩はもういないけど、先輩から話を聞くことはできるとか、クッキー美味しかった……ってそれは違う。だからその……」
喋れば喋るほど墓穴を掘る。今度コミュニケーションに関する本でも読もう。もう遅いけど。
どう弁解しようかと橘先輩の顔を見て、息が止まった。
涙の溜まった瞳でじっとこちらを見つめて、それから、くしゃりと顔を歪める。弱々しい泣き笑いが、写真で見た橘先輩と重なる。
「ありがとう」
か細い声が鼓膜を揺らす。
いつの間にか花火は終わっていた。
「私と、……私と、友達になってくれるってことで、いいんだよね?」
不安げな眼差し。ギュッと組み合わせた手と、震える唇。暗がりなのにはっきりと見えるそれらに、強くこみ上げてくるものがあった。
「はい」
橘先輩は濡れた瞳を細めて、ふわりと微笑んだ。可憐に、美しく。
本当は、俺の気持ちはたぶんもう少し違うものだけど、先輩の幸せそうな笑顔を見たら、これでいいかと思えた。
まだ夏の真ん中だ、焦る必要はない。……とは言え、コミュニケーションの本は読んでおこう。
「なにボケッとしてるのさ、少年」
先輩のチョップが脳天に入る。わりと痛い。
「暴力反対です。幽霊なら人体を通り抜けるくらいしてください」
「もう幽霊じゃないもーん。乗り遅れてるねぇ、少年!」
「前から思っていたんですけど、その少年って呼び方やめてくれませんか。少し結構かなりイラッとします」
「少しと結構とかなりは全然違うぞ!先輩が勉強教えてあげよっか?」
「お断りします。むしろ、二年生で習ったところまでなら俺が教えてあげましょうか、補習先輩」
「嫌なこと思い出させないでよ!悪魔!」
「人間です。ていうか先輩、何を持って悪魔を定義してるんですか?使い方が安っぽいですよ。つまり安直」
「うるさい、あーいえばこーいう!」
橘先輩が顔を真っ赤にしてジタバタする。打てば鳴る、なかなかいい反応だ。こんなに面白いのに、どうして面倒くさがっていたのだろうか。
たぶん、強情だったんだろう。自分の殻に閉じこもって、殻の外にあるものを拒絶していた。もったいないことをしてきたものだ。
思わず苦笑すると、橘先輩は目を丸くして、
「……笑った」
「え?」
笑ったって、何が。
だが先輩は、初めて見ただの、でもあれは苦笑だったからまだまだだの、くすぐってみようかだの、ブツブツ自問自答していて答えてくれそうにない。くすぐるって誰をだ。まさか俺?
やがて、納得する結論に至ったのか、清々しい表情で、
「よ~し、屋台に行こう!」
「何をどうしたらそういう結論になるんですか」
「だってりんご飴しか買ってないし。焼きそばもたこ焼きもイカ焼きも綿あめもチョコバナナも食べてないんだよ!?」
「太りますよ」
「女の子に体重のこと言っちゃダメでしょ、これだから少年は~。それに、もちろん金魚すくいや射的みたいなゲームもするよ」
「金魚嫌いです」
「我儘言わない!」
いきなり腕をつかまれ、柔らかく少し低い温度にドキリとする。暑さと関係ない汗が出てきた。
ドギマギしている間に引きずられ、人にぶつかる。
「たっくさん楽しいことして、歩夢くんの笑顔を見てやるもんね!」
何だそりゃ。
呆れたが、橘先輩のキラキラした笑顔を見た途端、まあいいやと思ってしまった。
からんころん、すぐそばで鳴る下駄の音が心地よい。揺れる朝顔模様の袖が揺れて、仄かに甘い花の香りがした。
『真夏の夜の夢』をまだ読んだことがないから、シェイクスピアがどう思っていたのかは知らない。
けれど、今俺の目に映る光景や、耳に伝わる音や、目の前を行く彼女、何もかもが想像もしなかった、俺にとっての夢そのものだった。
「……夢より、ずっと綺麗だけど」
ぽつりと呟くと、橘先輩が振り返る。
「何か言った?」
「いいえ。早く行きましょう、醒めないうちに」
「醒めるって、お酒じゃないんだから〜」
けらけら笑う橘先輩の声に、誰かの笑い声が混ざったような気がして、振り返る。
誰もいなかった。
「夢、か」
小さく笑って、人と熱気とでごった返す祭りの通りに、橘先輩と飛びこんで行った。