ネコのもう一つの名前
二つ目。そろそろ物語が動き始めます。
ヒメかわいいよ。
ヒメは家に着くと、すぐにちとせちゃんの元へと向かいました。
そして今日、カラスが話してくれたことを一生懸命に伝えます。
「どうしたのヒメ? 今日はなんだかご機嫌さんだね」
そう言うと、ちとせちゃんはヒメの頭を軽く撫でました。残念な事に、ヒメの言葉はちとせちゃんには伝わりません。それでもヒメはちとせちゃんに話し続けます。
七色に輝くきれいな羽のこと。鳥の王様のこと。とても面白い話をしてくれるカラスに出会った事。そのカラスの名前を考えてあげることになったこと。話すことが沢山ありすぎて、とても話しきれそうにありません。それでも全部話したくてヒメは必死に話し続けます。
そんな時でした。ちとせちゃんがヒメに言いました。
「そうだ、ヒメ。今日ね、新しい家族が増えたんだよ」
ちとせちゃんは、近くにあったヒメの何倍もある大きなクマの人形を抱え、ヒメの元に差し出しました。
あまりの大きさにヒメは怖くなってしまい、毛を逆立て、前足をギュッと伸ばしクマの人形を威嚇します。
「コラッ! 駄目でしょ! ヒメの馬鹿っ! 怖かったねぇ。大丈夫?」
そう言って、ちとせちゃんはクマの人形の頭を愛おしそうに撫でます。
その様子を見てヒメはとても悲しくなりました。自分は何もしていないのに。怖かっただけなのに。なぜ怒られたのだろうと。
ヒメは悲しくなったので、ちとせちゃんの部屋にあるお気に入りのクッションへ向かいました。
そしてクッションの上に体を預けると、一生懸命に何かを考え始めました。
そう。ヒメはカラスの名前を考え始めたのです。
悲しんでばかりいられません。今、ヒメにとって一番大事なのは、あのカラスの名前を考えてあげることだから。
ヒメは考えます。
カッコイイ名前がいいかな? カワイイ名前がいいかな? 真っ黒な色をしているからクロなんて名前はどうかな? 空を飛べるからソラなんて名前はどうかな?
どれもこれも、あのカラスに似合いそうな素敵な名前に思えます。
ふとヒメは思います。
名前が無いって、どんな気持ちなんだろう。
それはきっと、とても悲しいことなんだろうとヒメは思いました。
ヒメには生まれたときから名前がありました。ちとせちゃんが考えてくれたヒメという素敵な名前がありました。ヒメはその名前がとても大好きです。
でも、あのカラスには今までずっと名前がなかったのです。そのせいで、何度も悲しい思いをしてきたに違い無いはずです。
だから、あのカラスが本当に好きになれるような名前を考えてあげよう。今まで名前がなかったことを忘れてしまうくらいに、とっても素敵な名前を考えてあげよう。ヒメはそう決心します。
ヒメがカラスの名前を考え始めてから数時間が経ちました。
考え疲れたのか、ヒメはいつの間にか眠ってしまいます。
ヒメは夢を見ました。それは、ヒメが生まれて間もない頃の記憶を掘り起こしたような夢でした。
その夢の中には、ちとせちゃんに抱えられている小さい頃のヒメがいました。
触れるだけで壊れてしまいそうなほど、小さくて幼い頃のヒメです。眠たそうにしながらも、小さな目を一生懸命開けて、ちとせちゃんの顔をのぞき込むように見ています。そんなヒメを抱えてちとせちゃんが言いました。
「あなたとても白くて綺麗な毛をしているのね。……そうだ! 名前はシロにしよう! あなたに似合った素敵な名前よ!」
ヒメは不思議に思います。自分の名前はヒメなのに。ちとせちゃんはシロと呼んだのです。しばらくすると、何かに気がついたちとせちゃんが言いました。
「あら? あなた女の子なの? なら、シロなんて男の子みたいな名前は駄目ね。う~ん、困ったわねぇ。……そうだ! あなたとても綺麗な顔をしているからヒメって名前はどうかしら? お姫様みたいだからヒメ! うん! 決まり! 今日からあなたはヒメよ! よろしくね。ヒメ!」
それに応えるかのように、幼い頃のヒメはニャアと可愛らしい声で鳴きました。
そこで夢は終わり、ヒメが目を覚ましました。
ヒメには分かりました。今のは夢ではなく自分の昔の記憶なんだと。
シロ……。もう一つのボクの名前。素敵な名前。そうだ。うん。これにしよう。もう一つのボクの名前『シロ』。この名前をあのカラスに上げよう。きっと喜んでくれるはず。ううん、絶対に喜んでくれる。ヒメはそう確信します。
ヒメは近くにある窓を見上げました。太陽はすっかり顔を隠してしまい、星達がキラキラと輝いています。まるであの真っ黒なカラスに綺麗な宝石が付いているみたい。そんなふうにヒメは思いました。
早く明日になればいいな。早く明日が来ないかな。ヒメは胸がドキドキして、その日、なかなか眠ることが出来ませんでした。
次の日、ヒメは起きるとすぐにカラスの元へと向かいました。
カラスが喜んでくれるだろうという期待に胸を躍らせながら、軽快に走ります。
ヒメは公園に着くと、すぐに大声であのカラスを呼びました。
「ボクだよ。ヒメだよ。カラスさん、何処にいるの?」
ヒメは辺りをキョロキョロと見回します。
「やぁ。こんにちは。僕はここにいるよ」
後ろの方からあのカラスの声が聞こえました。ヒメは声が聞こえた方に体を向けます。すると、近くにあった木の枝から、カラスがヒメの元へとやってきました。
「あのね、あのね。ボク、名前ちゃんと考えてきたよ! 凄くいい名前なんだ。きっと気に入ってくれると思うよ」
「ちゃんと約束を守ってくれたんだね。ありがとう」
カラスにありがとうと言われて、ヒメは思わずうれしくなり、満面の笑みを浮かべます。
ヒメはうれしそうに言いました。
「あのね。名前は『シロ』っていうの。ボクのもう一つの名前なんだ。素敵でしょ? いい名前でしょ?」
けれどカラスは困ったような顔をしていました。その顔を見て、ヒメは酷く胸が痛みます。悲しいような、泣きたくなるような、そんな痛さでした。
「……変だった? カラスさんは黒い色をしているのに、シロなんて名前は変だった? ボク、悪いことしちゃった? ごめんなさい……ごめんなさい」
ヒメは大粒の涙を流しながらカラスに謝ります。素敵な名前だと思っていたのは自分だけだったんだ。カラスを傷つけてしまったんだ。ヒメはそう考えました。だからヒメはとても悲しくなりました。カラスを傷つけてしまったことが、辛くなりました。
「違うんだ。ヒメ、泣かないで。僕はすごくうれしんだ。いい名前だと思うよ。僕にこんな素敵な名前があってもいいのかなって……。こんな素敵な名前に、僕じゃ不釣り合いなんじゃないかと思って……」
「……嫌じゃないの?」
恐る恐るヒメは尋ねます。
「当たり前じゃないか! 嫌なわけがないよ! 凄くうれしい。本当にうれしいよ。鳥の王様に虹色の羽をもらったときよりも、ずっとずっとうれしいよ」
「ホントに!?」
「本当だよ。ありがとう、ヒメ」
カラスはそう言いながら、翼を使ってヒメの頭を優しく撫でました。
すると不思議なことに、さっきまで痛かったはずの胸が、嘘のように痛くなくなりました。瞳からあふれていた涙も止まりました。でも一つだけおかしな事があります。胸がドキドキするのです。痛くはありませんが、ずっとドキドキするのです。
カラス……いえ、シロを見ていると、ヒメは胸がドキドキしてくるのです。
「シロ……」
ヒメはシロの名前を呼びます。
「シロ! シロ!」
ヒメはなんだかとてもうれしくて、シロの名前を何度も何度も呼びました。シロはヒメに名前を呼ばれる度、うれしそうに微笑みます。
「シロ! これからもずっとずっと一緒にいようね。ボクと仲良くしてね。いっぱいいっぱい素敵な話を聞かせてね」
「うん。約束するよ」
そっと優しい風が吹きました。それはまるで、シロに名前が出来たことを祝っているような、ヒメとシロの仲の良さに微笑みかけるような、そんな優しい風でした。
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