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かみさま  作者: 椎名
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かみさまと余命僅かな人Ⅰ

一ノ瀬誠。余命僅かな人間の場合。

 死を思うと、心が鉛のように重くなる。



 癌を告知されたのは2年前のことだ。気まぐれで行った人間ドックで発見されたこの癌は、今まで健康診断などにいったこともなかったツケが回ってきたのか、まあそれなりに進行していて僕はすぐに入院することになった。それから何度かの手術を経験していながらも、不思議と死というものが身に迫った感覚は無く、自分は当たり前のように退院し、また日常が戻ってくるのだろうと漠然と思っていた。


 今日で、癌性髄膜炎と診断されてから1週間が経つ。

漠然と思い描いていた未来が絶対に手に入らないものだと決定的に突きつけられたことで、僕は生きてきて初めて死というものを意識するようになった。それはまるで背中にべっとりとした黒いものが常に背中に張り付いているような感覚で、無意識に背中をひっかくのがいつの間にか癖になっていた。

 余命は6週間。積極的な治療を行うつもりはない。医師からの説明で癌性髄膜炎による終末期の状態を知った時からそう決めていた。どんなに長く生きても、意識が朦朧とする中で失禁失便し誰かの手を煩わせる勇気は僕にはなかった。さらに言えば、そこまで生きてまで何かをしようという意志が僕にはなかったのだ。

―そう告げると彼女は何か言いたそうに口元を動かしながら、しかし言葉にはせず少し悲しそうな顔をしてから、再び剥きかけのリンゴに果物ナイフの刃を当てた。僕は違和感が消えない背中を掻きながら、そっと彼女から視線をそらして窓の外を見た。快適な温度の病室内とは違って、外はまだ残暑のせいで過ごしにくそうだ。



 彼女は僕の恋人だ。結婚はしていないし、結婚しようと口にしたこともない。僕らの関係は法的に縛られたものでも何でもない、口約束だけで成立している至って普通の恋人同士である。

癌が発見されたとき、僕はもちろん彼女にも事実を告げた。彼女は顔を青くしたあと、「大丈夫なの?」「毎日病室に行く」「入院の準備手伝う」と畳み掛けるように言葉を続けるので、僕は何も深く考えないままに彼女と共に入院の準備をした。入院から1年後に癌の転移が確認されたとき、僕は彼女に「別れよう」と告げた。死ぬかもしれないとか、そんなことを思っていたわけではないが彼女に対しての罪悪感は感じていたからだ。この狭い白い部屋に毎日のように通う彼女を不憫に思ったゆえに伝えた言葉だったが、彼女は次の瞬間には「ふざけるな!」と言いながら子どものように泣き始めた。予想外の反応に僕は彼女の瞳から溢れ出てくる涙を拭うのに必死で、結局二人の関係を終わらせることはできなかった。

 今の僕らはどうすることが正解なのか、僕には分からない。ただ毎日こうして会いに来る彼女に甘えて、僕の中にあるもっと大切な何かと向き合うことを避けていた。


「あ、もうこんな時間。はい。」

彼女は「そろそろ自宅に帰らないと。明日までに作る書類があるのよねえ。」と立ち上がり、僕の背を支えながらベッドへ寝かせ布団をかけてくれた。

「仕事がんばれ。」

そう伝えて彼女に手を振ると、「おやすみ。また明日。」と言って彼女は病室を出て行った。

しばらく彼女の出て行った戸を眺める。彼女がいなくなった後のこの空間の静寂は何故か僕を責めているように感じられる。何故そのように感じるのか。わからない。きっとわからないまま。わかろうともしないままに僕は死んでいくのだろうという予感はする。

点滴の管が刺さった腕は自分のものとは思えないほど血色も悪く細くなっていた。それを見つめていることに耐えかねて、強ばっていた体の力をふっと抜くと僕は目を閉じた。そうだ、死ぬときはこういう風に眠るように死ねたらいい。最期に見るのは彼女の顔で、あとは何も考えないで眠るように死ねたらいい。

―お願いだから、死とはそいうものであってくれ。


 未知の経験への思いを巡らせ、じとりと体中にねばついたような汗をかきはじめたところで、僕はベッドのすぐ横に小さな気配を感じた。

「こんばんは!」

そこには少女とも少年ともつかない幼い子どもが立っていた。知り合いにこんな子どもはいない。様子から同じ病棟の患者...ということもなさそうである。

「こんばんは。あのね、もう面会の時間は終わっているんだ。看護師さんたちに見つかったら怒られちゃうよ。君はどこの子だい。」

「かみさま。」


 その子どものあまりに突飛な言葉に、僕はナースコールに伸びかけていた手を引っ込めた。

「神さま...。一体、何を言って」

「僕はかみさま。願いを何でも叶えることができるかみさまだよ!」

一瞬、神さまなどという思いもよらない発言に動揺してしまったが、にっこりと無邪気に笑う子どもの幼さに僕は苦笑いを浮かべながら、腕を伸ばして軽くその子どもの頭を撫でた。だが、こんな時間にどこの子かも分からない子どもを彷徨かせる訳にもいかない。僕は一度子どもから視線を外して、ナースコールを押した。

「もうすぐ死んじゃうかわいそうなお兄さん。言ったでしょ。僕は何でも願いを叶えられる。一番大きくて叶えがいのありそうなお願いを持っていたのがお兄さんだったんだよ。ねえ、はやくお願い教えて。」

自称神さまとやらの子どもが何を言っているのか理解が追いつかなかった。

もうすぐ死んじゃうかわいそうなお兄さんってなんだよ。

背筋にぞくりと悪寒が走った。この子どもは何だ。ベッド脇の小さな気配に再び視線を戻そうとした時、病室のドアが開かれた。

「一ノ瀬さん、どうなされました?具合悪いですか?」

慌てた様子で訪れた看護師に「子どもが、」と言おうとしたが、病室の中には、僕とその看護師しかいなかった。

窓は閉め切られ、カーテンすら揺らいでいなかった。



「僕、何か変なこと言ってない?」

仕事が休みらしい彼女は、昼から僕のもとに訪れていた。自分の足で散歩する力すら失われてしまった僕は、彼女の押す車椅子に揺られ、院内に設けられた中庭を二人でゆっくりと散歩をしていた。陽あたりのいい青い芝の上では、病院服の子どもが看護師とキャッチボールをしたり、椅子に座った老人が眠たげに頭を揺らしている。

昨夜の奇妙な出来事を話そうかと考えていたのだが、以前に脳髄膜炎の症状には意識障害や精神障害があると医師から説明されていたことを思い出し、僕は自分自身が正常ではなくなってしまったのではないかと怪しんだ。

「何も変なことなんか言ってないよ。」

「...そう。」

ほとんど毎日会っている彼女が、特に異常はないと言うことは、僕の意識はまだ病に犯されていないのだろうか。

しかし、それでは昨夜のあの出来事は何だったのだろう。僕は夢というにはあまりに鮮明に覚えている昨夜の出来事に思考を傾けた。


「体の調子良くないの?」

質問の後に黙りきっていた僕の様子を不審に思ったのか、彼女は僕の顔を覗き込んで言った。

「大丈夫。でも...ほら、やっぱり健康体という訳ではないからさ、少し不安になっただけなんだ。」

僕がそう言っても、彼女は形の整った眉を寄せて僕を見つめた。

心配で仕方ありません、そんな彼女の思いが見つめてくる瞳から伝わってくる。

押しつぶされてしまいそうなほど重く、悲しすぎるくらいの熱量を持ったその感情をぶつけられる度に、僕の心は満たされる。

彼女の心の大部分が僕に向けられている。死ぬことしか残されていない僕に、彼女は全てを捧げてくれる。

―僕が死んだ後、彼女のこの感情は誰に向けられるのだろう。

僕が死んで、僕の知らない誰かと、僕の知らないところで、彼女は幸せになってしまうのだろうか。

恋人が幸せになれるのであれば、それでいいではないか。むしろ、僕は今すぐにでも彼女を突き放して自由にすべきはずなのだ。

それでも、自分が死んだ後の光景を想像するだけで、心臓が冷たい掌に握りつぶされているような感覚に襲われる。


苦しくて、涙が出そうだ。分かっている泣いてはいけない。

それでも抑えきれなかった大粒の涙が膝に掛けられていたブランケットを濡らした。

僕たちは静かに、陽の当たらない病院の廊下に戻っていった。




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