サイダー
世界で一番幸せな飲み物はサイダーだ。その透明な液体の中に強く意志を持った炭酸がしゅわりしゅわりと浮かんでいるのを見るのが大好きなので、わたしは絶対にそれをコップに移してから飲む事にしている。サイダーという響きも可愛らしくて好きなのだ、頼りないような甘いような、男の子限定の思い出みたいな名前だから。
けれども昔からその飲み物が好きだった訳ではない。
わたしの母は栄養士で、そしてどちらかというと頭が固い部類の人だった。だから、炭酸類は骨に悪いという事で一切飲ませてもらった事がなかったし、おやつだって忙しいだろうにけして市販のものを食べる事は許されず、いつでも母が作ったゼリーだのドーナツだのを食べていた。ジャンクフードなどもっての外で、わたしは高校生になるまでカップラーメンもハンバーガーも食べた事がなかった。
その話をすると、いつでもあの人は可笑しそうに唇を横に持ち上げて、でも君は君のお母さん似なんだろうね、と言った。
「じゃあサイダーはいつから飲みはじめたの?」
「中学三年生の夏休み。今でも覚えてる、夏のプールの帰りよ。友達が奢ってくれたの自動販売機から、その時の興奮があなたに分かるはずないわ、禁断の飲み物を手にしてしまったって、わたししばらく動けなかったのよ」
「大袈裟な。禁断の飲み物って、未成年でも平気で酒を飲むような時代に君は純情というかなんというか、」
わたしをからかいたいあの人は、飽きずに何度でもその話をさせたがった。
彼が喜ぶのを知っていたので、わたしも拗ねた顔は作りつつも望まれるがままに繰り返した。
「チョコレートも駄目だったのよ、虫歯になるからって。はっきり覚えてる、お薬だよってチョコレート貰ってたの。アーモンドの入ってるやつ。風邪引いたり、病気した時だけ、ひと粒貰えるの。わたしは中のアーモンドをチョコレートの種だと思っていて、植えれば好き放題チョコレートが食べられるんだって信じてた」
今もその純情さのままで育っていれば良かったのに、と彼が笑う。
彼と最後の食事をしたのは、焼肉屋さんでだった。わたし達は恋人同士で、いつか結婚するのだろうと思う程度には仲が良く、愛し合っていたのだけれど、彼にひとつだけ嘘があったのだ。奥さんが居るという事。わたし達は恋人同士で、いつか結婚したいと真剣に望む程度にはお互いを好いているのだと信じていたけれど、少なくともそれはわたしの方だけの愛情の測り方だった。
カンパリオレンジを何杯も頼むわたしに、途中で彼が声をかけた。もうお酒は終わりだ、と。
「どうして? カンパリオレンジを飲むのはわたしで、あなたじゃないのよ、わたしの心配をしてもいい権利はあなたにはもうないのよ?」
「どうしてそんな悲しい事を言うんだ」
奥さんの存在を内緒にしておいた事は悲しい事ではないのだろうか。わたしにとっても、奥さんにとっても、それは失礼な事だと言う事が彼には分からなかったのだろうか。
「……そうね、でももうお酒はやめるわ、だって今日はひとりで帰らなきゃいけないもの」
ちゃんと送って、と言いかけた彼を遮り、わたしは店員に向って叫ぶ。サイダーください、と。サイダーは世界で一番幸せな飲み物だ、少なくともわたしにとっては。悲しい時にこそ、幸せなもので中和しなくてはならない。そうしないと、わたしは泣いてしまう。
タン塩も骨付きカルビもハラミも、豚トロもホルモンもミノも、丁寧に焼いてすべて胃袋へ収める。食べ物に罪はないのだ、だからきちんと食べなくてはならない。そういう純粋さは貴重だけど痛いよ、と彼が小さく言った、けれどもわたしは無視させてもらった。奥さんが居たから別れる。わたしの決断はそれしかなかった、誰かの不幸の上に恋愛が成り立つのだとしたら、少なくとも登場人物はすべて少しずつが傷付かないといけないと、そう思っていたから。
「タン塩、追加しても良い?」
運ばれてきたサイダーはジョッキに入っていた。大きな氷が溢れるほどで、カラリカランと幸せな音を立てている。わたしは彼の返事も待たずに、タン塩を、と店員さんに告げる。
最後の食事だから、と必死になって食べていた。今思えば、あの時わたしは彼を食べてしまいたかったのだと知れる。彼の肉を食べてしまいたかったのだ。わたしの物になるように。わたしの血や肉になるように。別れたくはなかった、愛していたのは本当なのだ。いくら奥さんが居たとしても、わたしにとってはその女性こそ後で出てきた第三者だった。彼はビールを飲んでいた。あまりアルコールに強い人ではないのだ、だから日本酒が好きでもわたしと一緒の時は飲まなかった。酔ってしまうのは、わたしの役目だから。
「卑怯だけれど、君の事は本当に、」
「言わないでよ、口にすると嘘臭くなっちゃうから」
サイダーを飲みながらわたしはにっこりする。大丈夫、幸せな味、幸せな味、大丈夫わたしは泣かない。
サイダーを飲みながら、わたしは焼けた肉を端から摘む。これが彼だったらよかった、食べてしまいたかった、体に悪いと知っていても。
「ごめんね、わたしはジャンクフード、食べられないの。味は好きなの、食べたいとも思うの、だけど今でもお母さんの顔が思い浮かんじゃって駄目なの」
「俺は、君のジャンクフード?」
「さよなら、わたしは綺麗な人を食べて幸せに過ごすから」
泣かない、泣かない、泣かない、ただそれだけを頭の中で繰り返していた。好きな人と別れる時、それがどんなに正論であれ、自分が後々傷付かないためであれ、すべての言葉は無意味になる。自分の欲しい答えを、本当は知っていた。嫌われたのでもなく、嫌いになったのでもなく、それならば気付かなかった振りをして付き合い続ければ良いのだと。
しかしそれはどう足掻いても出来なかった。
わたしの頭の固さは、母親譲りなのだ、年季が入っている。
追加注文のタン塩を食べながら、わたしは目の前の男の人と今まさに別れてしまうのだと不思議な気持ちでいた。食べている間は同じ空間にいても、店の外に出てしまえばもう関係がなくなってしまうのだ。思い出も記念も真っ白に失くなってしまう訳ではないけれど、それを見ないように生きていく事が必要とされるのだ。今、目の前で生きて動いて食べ物を口に運んでいる、この人は、わたしに関係のない人になってしまうのだ。どんなにキスをしたからと、言い張ってももうそれは無意味なのだ。
「……ごちそうさま、」
散々食べ散らかした後で、少し決まりが悪くなってわたしはそっけなく呟いた。これから別れる人の前で、こうも無防備に食事をしてしまった自分に戸惑っているのもあった。
「ちょっと待って、」
彼が丁寧な指先で店員を呼ぶ。あの爪の短く揃えられた、わたしをとんでもなく気持ち良くさせてしまう指、かれの手をひたすらに愛していた事を思い出して、胸が哀しいほど痛んだ。
「もうさよならするなら、」
もう一杯分だけの時間を俺に頂戴、と。
サイダーを注文する。わたしのお腹はカンパリオレンジとサイダーとで、もういっぱいいっぱいだったのだけれど、それを静かに受け取る事が最大の愛の印になる気がして、わたしはひとつだけ頷いた。幸せな飲み物なのだ、サイダーは。本当は、別れ話の最中ではなく、楽しくて仕方がない野原へのデートなどで、乾いた喉にするする通して笑いながら彼と飲みたかった飲み物。
あの最後の食事が、最後の彼のお願いが、わたしから幸せな飲み物であるサイダーを取り上げてしまった。飲めなくなってしまったのだ、思い出してしまうから。彼の事を、彼といた日々がどんなに幸せだったかを、彼のすべてを。
「……いないと思ったらこんなところに!」
後ろから声をかけられて驚く。夜中の自販機はぼんやり蛍のように儚く灯る癖がある。
「なに、喉乾いてた? 小銭持ってるけど?」
恋人はさっさと戻って来て、ポケットの中に入っているらしいお金をちゃらりと鳴らす。わたしは思い出の中に居たままだったので、一瞬自分の居場所を失くしてしまい、ただ瞬きを繰り返すだけになってしまった。
「なんだよ、もう眠い? おーい、頭ん中起きてますかー?」
「……あれ?」
「あれ、じゃないよ、もう帰って風呂入って寝るか」
くすくす笑う恋人は少年の面影が残った横顔をしている。あの人、ではない、恋人。晩ご飯を食べた後、仕事で疲れている恋人を無理やり引っ張って夜の散歩に出た事を思い出した。自販機の前で、ふと昔を思い出して動けなくなっていたのだ。
「あ、ねぇ、」
ジュース欲しい、とわたしは恋人に告げる。
「何が欲しい? 買ってやったら素直に帰る?」
「うん帰る、お風呂上がりに飲むから、サイダー買って?」
「サイダー? お前炭酸飲んだっけ?」
飲むのよ、だって幸せな飲み物ですもの、と言ったら恋人は不思議そうな顔をした。わたしは恋人の前で炭酸を飲んだ事がないのだ。だから、飲めないものとして捉えていたのだろう。
緑色の冷たい缶を取り出してもらい、渡される。家に帰るよ、の恋人の声はサイダーみたいに透き通っていて綺麗だ。だから、あなたってサイダーみたいよ、と最上級の誉め言葉で言ってあげたのに、恋人にはちっとも伝わらなかった。なんじゃそりゃ、と変な顔をしただけだったけれど、わたしはそれでもなんとなく幸せになってしまい、お風呂上がりのサイダーをこの人にふた口ぐらいお裾分けしてあげても良い、などととても太っ腹な事を思っていたりした。




