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どつちが誘惑者?

〈はつあきや夜伸びる爪放つて置く 涙次〉



【ⅰ】


 カンテラとじろさん、「古式拳法」の秘傳書に、「鑑ヨリ魔ヲ拔キ出スノ術」と云ふ項があつた事を話してゐた(前回參照)。尾崎一蝶齋が茶々を入れる。「『各人ガ倖セニナレノ術』つてのは載つてゐないのかい?」‐じろさん、またか、と澁い顔をして、「我が秘傳書はそんなに甘つちよろいもんではないよ。大體あんたは人生何でも甘め甘めにしてしまふのが、玉に瑕だ」‐尾崎「...」返す言葉がない。



【ⅱ】


 尾崎には分からないのだ。じろさんのやうに、若い頃さんざん苦杯を舐めた經驗がない。彼は實家に道場を持つ「武の名門」に産まれた。修業が足りない、とじろさんに云はれゝばそれ迄。彼の父は「楽しい武」を唱へて世に出た人だつた。その影響が、尾崎に多分にある。愛弟子の上総情にさへ、「もつと嚴しいものだと思つてました。剣の道とは」と云はれるあり様である。カンテラ・じろさんのやうに、まさに每日「死合」に明け暮れるのは、尾崎には無理だつたのだ。その結果が「早老」である。明らかに活力の低下が、同い齡のじろさんに比べ目立つ。



【ⅲ】


 食べる物についても、じろさんのやうに肉を食つて明日の活力にする、と云ふ習慣から離れて既に久しい。口だけ達者で、實は老人性、と云ふのは、或る面見つともない。それでも一蝶齋道場は今日も活況を呈してゐて、女性の弟子も多い。この際暴露すれば、女弟子たちは、ボクササイズのやうな美容の為の格闘技だと、剣の道を誤解してゐた。

 そんな一蝶齋道場の師範代 ‐實際は大番頭と云つた方がしつくり來る‐ に拔擢された上総情。その彼が、今日はカンテラ事務所・「相談室」の客となつてゐた。



 ⁂  ⁂  ⁂  ⁂


〈「一日の加護を」と書けば人が見るアイドルまさに偶像崇拝 平手みき〉



【ⅳ】


「實は、お師さんの事なんですが」‐カ「あんたが來たらそれしかなからう」‐「はい。よく食べるんですよね最近...」‐「いゝ事ではないか」‐「食べ過ぎなんですよ、それが」‐「食べ過ぎ?」‐「まるで豚のやうだ、と云ふ人もゐる」‐「はゝあ、豚」‐「さうなんです。實際豚のやうだ」‐「全然さうは見えないが。相變はらず痩せてゐるし...」‐「餓鬼、と云ふのは痩せてゐるんでせう? がりがりに」‐「...餓鬼、と來たか」

 取り敢へず、そんなに過食が酷いものなのかだうか、事務所でもてなして見て、判断しやう、と云ふ事になつた。



【ⅴ】


 すると... 確かによく食ふ。と云ふか、食べ過ぎである。悦美の出した手料理だけでは足りないらしく、寿司を取つてくれ、と云ふ。取つた寿司も一人でぺろり、と食べてしまひ、それでも足りない、と見えた。カンテラ、じろさんと顔を見合はせた。「確かに餓鬼だ‐ と云ふか豚だ」

「何か云つたか?」尾崎、目をぎよろぎよろさせて、かう云ふ。「もつと食はせてくれ。腹が減つて堪らん」‐カ「尾崎さん、あんたは餓鬼道に墜ちたと見受ける。これから數日間、カンテラ事務所で身柄を預かる。その間、ものは何も食はせないので覺悟しとけよ」‐「な、何!?」‐「あんたが何を云つても、当方では、豚がぶーぶー云つてゐるものと見て、何も感知しないので」。すると、尾崎、惡鬼の如き形相で、「何だとー!? 食はせろー!!」と、カンテラに飛び掛かつて來た。明らかに【魔】に憑依されてゐる。問題は【魔】は、何物かと云ふ事だ。



【ⅵ】


 カンテラ、大刀を拔くには室内でちと狹い。短刀を拔いて小太刀の構へだ。「ぐわーはつはつ。カンさん、* とんちやんをお忘れかー!? ぶゝーつ」‐「やはり、豚か」身柄を預かる迄もなかつた。正體を露はにした【魔】は、天才豚のとんちやんだつた。多分、淋しい淋しい、といつも通り云つてゐたら、尾崎が食ひ付いて來たのだ。

 この場合、誘惑者はどちらに当たるのだらう? まあ兎に角、とんちやんは惡鬼になつたのだから、取り憑かれた尾崎も惡鬼と同格である。その時、傳・鉄燦の大刀が囁いた。「小太刀で、尾崎の右を突くのだ。見えないが、とんちやんはそつちにゐる」‐天祐とカンテラは思ひ、聲の通り、尾崎の右を突いた。「ぐわつ」姿を現はしたとんちやんの巨體。とんちやんは急處を突かれ、既に蟲の息だつた。



* 当該シリーズ第30話參照。



【ⅶ】


「さ、淋しいつて云つてたら、この小父さんが...」‐「皆まで云ふな。成佛せよ」とカンテラ。とんちやんは消えた。誘惑者は一體どちらなのか? カンテラが、尾崎一蝶齋道場を畳むやう上総に勧告したのは、彼が禮金を持つて來た際、まだ尾崎が昏睡から醒める前の事だつた。



 ⁂  ⁂  ⁂  ⁂


〈バナナ食ふ熱帯夜だつて彼岸まで 涙次〉



 お仕舞ひ。





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