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パラダイス。白猫のナナオ曰く、安直で陳腐な名前の架空世界アムリタの都市。そのパラダイスには僕が想像していたよりずっと多くの人々が行き交っていた。
格好も実に様々だ。見慣れた服を着ている人もいたが、大半は世界のファッションをごちゃまぜにしたような服装で、ワンピースに着物の帯を巻いてみたり、背中にドット絵キャラが動くコートを着てみたり、一言では言い表せない個性を持った格好の人ばかりだ。取り敢えずできるからやってみましたと言わんばかりのセンスだが、行き交う人々は妙に街に馴染んでいた。
「皆宛もなく歩いているんだ。どこかに行くのもいいんだけど、大抵の人は人恋しくてこの街に戻ってくるんだよ」
「宛もなく?どこかに行けばいいのに」
「人はどこに行ってもいいと言われたら、人のいる所に集まってしまうものなんだよ。ほら、MMORPGだって最初の街に人が集まってる事が多いだろ?」
「言われて見ればそうかも。そういえばここでは自分の持ち物はどうなってるの?」
「持ち物ならここになんでも入るよ」
そう答えたのは少し前を歩いていたリリーだ。彼女はくるりとこちらに振り向き、僕の右斜め前くらいの空間を手で撫でた。するとその手の動きに連動して、空中にウィンドウが出現する。
「すごい、本当にゲームの世界みたい」
「まぁそりゃね。バーチャルとリアルのいいとこ取りみたいな世界だからさ。迷ったらこのウィンドウを触ってみて。何となく理解できてくるはずだから」
「雑な説明だなぁ」
ぼやいたのはナナオだ。僕はリリーに言われた通り、右前の空間に手を翳して見た。小さなウィンドウが現れ、僕の右手の動きに連動して大きくなったり小さくなったりする。なるほど、これは空中に生成されるスマホみたいなものか。
「とりあえず何かやってみたら?どこかに行くのもいいし、家を持つのも自由よ」
リリーに言われて、僕は途端にまごついた。
「そう言われても急に思いつかないんだ。確かに自由なのはすごいけど、逆に何をしたらいいかわからなくなると言うか……」
「だよねぇ!大丈夫、ここに来た人は皆大抵そう言うから。中には何もやること無いからって一日中ぼんやりする人もいるくらいだからさ、トキヒコがそう言うのも無理ないよ。もし良かったら、友達づくりから始めない?紹介したい人がいるの」
リリーの言葉に僕は警戒心を抱いて立ち止まった。
「友達?君の?」
怪しい勧誘じゃないだろうな。そういう事をするような人には見えないが、だからこそ騙される人がいるんだ。
僕の視線を受けて、リリーはきょとんとした顔で首を傾げた。
「あれ?他の人は苦手?」
「あのさ、リリー。はぁ……大丈夫だよ相棒。ここじゃ誰かを騙そうなんて人はいないんだ」
何故か申し訳なさそうにナナオが僕に向けて弁明する。
なんでも、ここにはあらゆる財産が『無い』らしい。そんな馬鹿なと鼻で笑った僕を、リリーとナナオはどう説明したものかと困った顔で見ている。
「つまり、ここには奪われるものなんてないんだよ。全てのあらゆるものは複製可能で再現可能。個人の持ち物と他人の持ち物の区別がつかない。だから所有物が奪われる心配も無いってわけ」
「そんなこと言ったって、創作物とかは個人が権利を持ってるものじゃないの?」
「うん。でも大抵権利を放棄してるよ。だってコピーし放題だし、個人のものにしてたってメリットが無いんだ」
「メリットがないってそんなこと……」
そんなことがあるんだろうか?自分が作ったものすら放棄するなんてちょっと考えられない。
「個人で作ったものって言っても、ここでは全部が匿名だからね。私もほら、」
言うなり、リリーはすれ違った男と全く同じ姿に変身した。文字通り、顔も体型も全く同じだ。
呆気にとられて口をパクパクさせる僕を見て、声まで男性になったリリーが笑った。
「あはは。こういう事も可能だって事だよ。だから個人を主張する意味があまりないワケ」
「本当に君は新人を驚かすことが好きだね、リリー?ごめんよ相棒、でもリリーの言ったことが真実でもあるんだ」
どうやら認識を改める必要があるようだ。つまりここはリアルであるというだけで、本質的にはネットの掲示板と変わらない。書き込んだ人の名前は皆同じで、書き込みには常に模倣やコピーが横行していた。何かが流行するとミームなんて呼ばれていたっけ。
つまり、パラダイスはそういう街なんだ。
「わかったよ。警戒し続けても面白く無いし、折角ここに来たんだ。いろんな人に会ってみたい」
「そうこなくっちゃ」
元の姿に戻ったリリーが破顔する。そして僕達はリリーの案内で、町の一画にあるカフェへ向かった。
✽✽✽
光が差し込む窓辺の席に座った僕は、ざわめきが心地良く反響するカフェの店内を見回して感嘆のため息をついた。多分僕はずっとこの見ている景色が仮想現実だと信じられないだろう。どこかで見たような、でも記憶には存在しないカフェの店内が目の前に広がっている。これが僕の脳内を通じて見ているネット世界だとどうしても思えない。
何を頼もうかメニュー票を眺めながらあれこれ言い合っているリリーとナナオを見ていると、後ろから肩を強めに叩かれた。
驚いて振り返る。見覚えのない男が僕を見てニヤニヤと笑っていた。
「よう!お兄さん、リリーの被害者かい?」
そう言って男は、こらえきれなくなったように笑い出した。