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アムリタ  作者: 桜庭シマ
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 目の前に文字が浮かんでいた。


 『アムリタ・ワールドへようこそ!ここはもう一つの故郷になる。大冒険するもよし、世界中の人達と友達になるのもよし……。無限のリアルの中で暮らそう!』


 文字を読み終える頃には、世界の生成が終わっていた。僕は腕を動かしてみる。指は違和感なく、さっきまで僕がいた現実世界と同じように動いていた。

 目の前の景色も実写だとしか思えない。遠くに光を放つビル群があり、その周囲には豊かな森が広がっている。森の中へ続く道を進めば、あのビル群に辿り着けそうだ。


 再び、僕の目の前に白い文字が浮かんだ。

 『ガイドをお選びください:人間』

 人間の文字は、触れると変更できるようだった。動物の項目には哺乳類、爬虫類、鳥類、果ては恐竜なんてのもあった。

 どうせ後から変更出来るから適当にしようと文字を触っていると、動物の画像が出てきた。『人気!』と書かれた文字の下に、白猫がちょこんと座っていた。

 更に細かく目の色や尻尾の長さも変更出来るようだ。僕は記憶を頼りにその白猫を"変更"していって、最後に目と同じ緑色の首輪をかけた。


 「ナナオ」


 無意識の内にそう呼ぶと、白猫はナオゥ、と気怠そうに鳴いた。これだ。この鳴き声、本当にウチで飼っていた白猫のナナオにそっくり……いや、そのものだ。

 声の設定もしていないのにこんなに似るなんて。僕は『このガイドに決定しますか?:はい/いいえ』のはいを雑に押して、ナナオを抱き上げた。


 「アムリタにようこそ。私の名前はナナオでいいですか?」


 僕は危うくナナオを地面に落としそうになった。腕の中の白猫が喋ったのだ。

 いや、こういうこともあるんだと僕は自分に言い聞かせる。ナナオが──ナナオの感触や声があまりにもリアルだったから一瞬忘れかけていたけれど、ここは疑似現実世界なんだ。

 「いいよ」と僕は返事した。「声もそのままでいい。だけど喋り方はもう少し砕けたほうが好きかな」

 

 「こんな風に?やぁ相棒。元気にしてた?」


 不意に泣きそうになって、僕は慌てて瞬きする。ナナオが喋れたらいいのにと思っていた事が、ここではこんなにあっさりと実現するのか。

 現実を超越した疑似世界、アムリタ。


 僕は自分の部屋に巨大な機械が運び込まれる様子を思い出した。

 10畳程の部屋を苦労して空っぽにし、入れ替わるように機械が配置されていく。中にはよくSF作品に出てくるようなカプセルポッドもあった。

 僕は自分の首の後ろをそっと触った。そこには予め手術で脳に埋め込まれているデバイスの端子が、銀色の骨の様に突き出ていた。

 この端子の位置とカプセルポッド内の枕を合わせ、寝る場所を決める。固定は特にしなくてもいい。全ての出力調整を終えてベッドに横になれば、自動的にスリープモードのアナウンスが流れてくる。扉が閉まると霧状の麻酔がポッド内に充満する。首の端子が僕の脳と機械とを繋ぎ、僕の意識は新しい世界で目覚める。

 何度も説明を受け、手術もして準備は万端だと思ったが、機械同士の接続に思いのほか手間取った。こんなことなら組み立てサービス費をケチるんじゃなかったと後悔しながら数日かけて機械を接続した日々を思い出す。途中で倒れなかったのが奇跡だ。

 僕はナナオの温かさを腕の中に感じながら、遠くに見えているビル群に向かって歩き出した。

 

 ナナオは色々な事を教えてくれた。

 アムリタ・ワールドは文字通り無限に広がっているらしい。本物の環境や地理をAIが分析し、あらゆる場所を自動生成する。世界の果てなんてものは無く、地球のように同じ所を歩いていればいつかは戻ってこられる球体でも無い。


 「だから迷子には気をつけてくれよ……と言いたいところだけど、テレポートできるからな。いつだってこのパラダイスに帰ってこれる」

 「パラダイスってこの街のこと?」


 僕はかなり近くなったビル群を見上げた。ナナオは僕の腕の中でウニャウニャと鳴いた。


 「そうなんだよ。悲惨な名前だろ?」

 「どこが?大きいけれど人気が無いところとか?」

 「人ならまぁいずれわかるさ。悲惨なのは名付けのセンスだ。アムリタはまだわかるけどパラダイスはダサすぎる。どんな奴にも理解できるからってこんな……」


 文句をつけていたナナオは突然言葉を切って匂いを嗅ぐ素振りを見せた。


 「あそこだ。あの建物に行ってくれよ、相棒」

 

 僕達は巨大な建物の間をふらふらと進んでいた。時折どこかからパチッと何かが弾ける音がする以外、なんの音もしない。

 この街は何なんだ。なぜ疑似世界の街であるはずのパラダイスにこんなにも人気が無いんだ。まさか何かのネットワーク障害とかウイルスに巻き込まれて、無人の世界にナナオと閉じ込められたんじゃ……。

 そんな妄想をしている内に、僕は巨大なガラス張りの建物の前に立っていた。ビルとビルの合間にある植物園みたいなドーム場の建物は、外から見ると大きすぎる休憩所のような感じがした。

 建物内はまるでカフェのように机と椅子が置いてあったが、やはり誰もいない。座り心地のいい椅子に恐る恐る腰を下ろす。

 ナナオは僕の腕からするりと抜け出し、テーブルの上に座った。

 

 「ここは調整室。さて相棒、このアムリタにいる他の人間は普通にしてても見えないんだ。そこでこの場所でちょっとずつ慣れていってもらって、他の人が見えるようにする訓練をしよう」

 「調整?訓練?」


 初めて聞く話だ。訓練なんてアムリタの説明書にも医者の話にもなかった。うろたえる僕とは対象的に、ナナオは落ち着き払って僕を見つめた。


 「慌てないでくれよ。これはアムリタ開発者も想定外の話でね。と言うのも、参加しているプレイヤーのほとんどがアムリタで過ごす時間を長くしようとした結果、ここでの速度を少しずつ上げて脳をそれに慣れさせるようにしたんだ。例えば……動画を倍速視聴したことはあるかい?」


 僕は頷いた。


 「ある程度のところまで動画を速くしても音は聞き取れるだろう?それから動画速度を等倍に戻したら、物凄くのんびり聞こえないかい?高速道路から一般道に降りてきた時なんて、世界中の車がのろのろしているように感じないか?脳には周囲の速度に体感速度を合わせる力があるんだ。そうやってちょっとずつ周囲のスピードを上げていったら、現実世界と架空の世界(アムリタ)の時間はズレていく。現実での一時間がここでは一週間になったりするのさ」

 「ちょ、ちょっと待ってくれ。いくら倍速視聴だって聞き取れる限界はあるだろ?一時間が一週間になるだって?そんなの無理に決まってる」

 「普通はね。でもここは特別な架空世界。僕達の脳内データはアムリタを通して常にアップデートが繰り返され、自覚しない内に処理速度が何倍にもなっている。それもこれも神経系統に埋め込まれた無数の……いや、長くなりそうだから止めておこう。つまり今の君の脳は、時間を速めるという無茶苦茶な情報処理だって平気で耐えてしまうというわけなのさ」


 僕は頭がクラクラした。後頭部に手を当ててみるが、アムリタ内の僕に手術痕は再現されていなかった。

 

 「驚いたかもしれないけど、慣れたらなんてことないよ。だって君は速くなった世界を認識できないからね」

 「認識できない?」

 「だってみんな同じ速度なら、速い遅いを比べるものがないだろう?実際、ここで『遅い存在』は君だけさ」


 僕は思わず腰を浮かせる。

 この静かな植物園みたいな場所、いや、人気が無いと思っていたパラダイスという街はもしかして……。


 「僕が認識できないだけで、他に人がいるのか?」


 「そうよ」


 突然、自分のでもナナオのでもない声が真後ろから聞こえてきて、僕は文字通り飛び上がった。

 振り返ると、先程まで誰もいなかった場所に見知らぬ女性が立っていた。黒いタンクトップにジーンズ、これまた黒いぶかぶかのジャケットを羽織っている。灰色の長髪に赤いメッシュが入っていなければカラスの擬人化かと思っただろう。

 腰まである灰色の髪を揺らしながら、女性は僕の側に歩み寄った。


 「どう?私の声聞こえてる?姿は?」

 「あー……えっと、見えてるし聞こえてる……なんというか、個性的な格好だね」

 「あはは、通じてるみたい。でもこれで個性的なんて言ってたら、適応した時びっくりするかも?とにかくパラダイスへようこそ、トキヒコ君」


 差し出された彼女の手と顔を、僕は狼狽えながら交互に見る。おや、という表情をした彼女に、ナナオが呆れた様子で一声鳴いた。


 「あのさぁ、リリー。君は知らないかもしれないけど、相棒は言ってみれば産まれたての赤ちゃんみたいなものなんだよ。初対面の人の名前を言い当てないであげてよ。不気味でしょ」

 「えっ!?いやいや、相手の情報を見る方法くらい教えてもらってるんじゃないの?」


 明らかにムッとした感じでナナオが耳を伏せた。これは昔から彼が機嫌を損ねている証だ。


 「調整してから教えようと思ってたんだよ。なのに君が速度を落としてまで接触してくるから……」

 「それはごめん。お詫びと言っちゃなんだけど、私も色々教えてあげるから」

 

 悪びれた様子もなくリリーと呼ばれた女性がウインクする。対するナナオはまだ不機嫌そうだったが、フンと鼻を鳴らすと声の調子を戻して言った。


 「協力者が増えるのはいい事だね。それに、そろそろ調整も終わる頃じゃないかな。どうだい相棒、何か変化があるかい?」


 そう言われれば、何か不協和音のような音が微かに聞こえてくる。目の前に広がる景色はほとんど変わらないが、ドーム状の休憩スペース内に奇妙な歪みが見え始めていた。空間の染みの様なそれは、僕の視界を高速で行ったり来たりしている。

 言葉では説明のできない居心地の悪さを覚えてもぞもぞしていると、いくつかの単語が聞き取れる様になってきた。『あしたさ、』『ひがしのほう』『まちあわせ』……。


 耳が慣れてくると、ポップなBGMが街に流れている事と、そこら中で会話が交わされている事に気がついた。最初は高速の呪文にしか聴こえない音が次第に柔らかく意味のある歌詞に変わっていく。不快な視界の歪みは人影だった。何もかもあまりにも早すぎて僕の認識が追い付いていなかったが、どうやらアムリタの処理能力のおかげで早回しの世界にも慣れてきたようだ。


 「どう?本当のパラダイスは。皆の姿もなんとなく見えてきたんじゃないかしら」


 リリーの言う通り、この植物園の様な場所に多くの人が行き交っていた。休憩所と待ち合わせ場所を兼ねているらしく、様々なファッションに身を包んだ人達が笑顔で手を振り合い、どこかへ歩いていく。ざわざわとした喧騒と洒落た音楽、ビルの合間を通り過ぎる透明な電子広告板。


 「これが本当のアムリタ……」

 「そう。そしてこれからあなたは自由。どこかへ行くのも、何をするのも自由」


 自由。ありふれている筈なのに、随分と久しぶりに聞いた気がする言葉だ。僕は椅子から立ち上がり、見慣れぬ街の空気を深く吸い込んだ。

 本当の僕の肉体は今、薄暗いポットの中で眠り込んでいるのだろう。現実世界ではどれくらい時間が経っているのか。時が早くなっているというなら、眠りについてからまだ数呼吸しかしていないのかもしれない。

 少しだけ感傷的になっていた僕の目の前に、リリーの手が差し出された。ナナオがこちらを振り返っている。


 「改めてましてようこそ、アムリタへ」

 

 そう言って、リリーはにっと笑った。

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