第三十五話
【ハーヴェンスロウ公爵城/記録院・文書庫】
記録院は、城の中でも最も静かな場所だった。
戦があったとは思えない。
怒号も、足音も、ここまでは届かない。
あるのは紙の匂いと、石壁の冷たさだけだ。
高い天井。
規則正しく並ぶ棚。
古い帳簿と新しい書類が、同じ顔で収まっている。
エドランは棚の前を歩き、手近な帳簿を一冊引き抜いた。
革表紙は擦り切れているが、管理は行き届いている。
「……崩れてないな」
「記録は、崩れません」
応じたのは記録官だった。
年配の男で、声に感情の揺れがない。
「街が燃えても、戦が起きても、やることは同じです」
誇らしさも、卑下もない。
ただ、事実を述べているだけだった。
エドランは帳簿を開く。
治療記録。
移送記録。
配給記録。
日付は揃っている。
数量も揃っている。
抜けも、修正もない。
「丁寧すぎるくらいだ」
タルヴァスが低く言う。
「こういう状況なら、どこかに綻びが出る」
「規定通りですから」
記録官は即答した。
「規定、か」
エドランは顔を上げる。
「誰が決めた?」
「……前任者です」
「その前は?」
「さらに前任から引き継ぎました」
少し考えてから、記録官は付け足す。
「私が着任した時には、もうありました」
エドランはそれ以上を追及しなかった。
帳簿をめくる。
治療を受ける。
保護される。
移送される。
弔われる。
すべてが、途切れずに繋がっている。
「個別で判断した形跡がないな」
タルヴァスが言った。
「“必要と判断した”とか、“緊急につき”とか、そういう言葉が一切ない」
「判断は、現場でなされます」
記録官が答える。
「基準がありますから」
「その基準は、どこに書いてある?」
記録官は、ほんの一瞬だけ黙った。
「……文書には、ありません」
「ですが、皆、知っています」
その言い方に、疑問はなかった。
エドランは帳簿を閉じた。
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【文書庫・奥/名簿突合】
文書庫の奥は、さらに灯りが落ちていた。
使用頻度の低い棚が並び、埃が積もっている。
エドランは、記録官から受け取った名簿を机に広げた。
拘束された襲撃参加者。
治療を受けた住民。
行方不明者。
別々の分類。
別々の束。
だが、名前を追っていくと――
同じ事象が、何度も現れる。
「……ここだな」
タルヴァスが指を置く。
「この施療所を経由してる」
「こっちもだ」
年齢は違う。
職も違う。
立場も違う。
「共通点が、ない」
「いや」
エドランは言った。
「ある」
名簿を指でなぞる。
「通過点だけが、同じだ」
「治療を受けて、保護されて、移送された」
「そこまでは、全員同じだ」
タルヴァスは腕を組む。
「思想で括った形跡はない」
「信仰も、身分も、揃ってない」
「扇動も見えない」
エドランが続ける。
「集会も、呼びかけも、中心人物もいない」
「反乱にしては、準備の痕跡が薄すぎる」
タルヴァスは名簿を見下ろしたまま言った。
「指揮官クラスの人物も見当たらない」
「それなのに、同じ日に動いてる」
短い沈黙が落ちる。
「……なぜ、これで事が起こせた?」
エドランは名簿を閉じ、机に置いた。
「推察できることは一つだけだ」
一拍。
「敵は、“同じ手順を受けた”一般人だった」
「治療を受けた」
「保護された」
「移送された」
「その流れに乗った人間が、結果的に兵として動いた」
タルヴァスが、低く息を吐く。
「……一体、何をされたんだ」
「分からない」
エドランは言った。
「だが、確実に」
「それを突き止める必要がある」
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【文書庫・最深部/未分類箱】
文書庫の最奥。
廃棄予定と書かれた木箱が、壁際に積まれている。
記録官が一つを開けた。
中には、薄い紙束。
署名はない。
宛名もない。
だが、文面は似通っている。
――共有事項
――従来通り
――基準に従うこと
――周知済
命令文ではない。
強制する言葉もない。
「……誰にとっての“従来”だ」
エドランが言った。
記録官は少し考え、首を傾げる。
「我々にとって、です」
「いつから?」
「覚えておりません」
「誰が書いた?」
「分かりません」
エドランは、紙束から視線を離さずに続けた。
「では、その“従来”のやり方は、誰から教わっている?」
「基準についても、どこにも書いていない」
記録官は、しばらく沈黙した。
やがて、静かに言った。
「……教わった、という感覚はありません」
「気づいた時には、そうしていました」
「前任も、同じようにしていました」
「だから、疑問に思ったことはありません」
その言葉で、場が静まり返った。
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【記録院・外】
外に出ると、どんよりとした曇り空が広がっていた。
二人は、しばらく言葉を失ったまま歩いた。
城の中では、すべてが整っている。
整いすぎている。
「……想像していたより、根が深いな」
タルヴァスが言った。
「刃を向ける相手がいない」
「止める場所も、はっきりしない」
エドランは答えなかった。
答えが、なかった。
対処しなければならない。
だが、何をすればいいのかが分からない。
その感覚だけが、胸に残る。
答えは、まだ出ない。
だが一つだけ、はっきりしたことがある。
この“やり方”は、
北国で生まれたものじゃない。
それでも、
北国の中で、
誰にも疑われずに使われている。
静かで、気づきにくい侵食が、
すでに始まっていた。




