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北国物語(仮題)  作者: GP
第一章
36/41

第三十五話

【ハーヴェンスロウ公爵城/記録院・文書庫】


記録院は、城の中でも最も静かな場所だった。

戦があったとは思えない。

怒号も、足音も、ここまでは届かない。


あるのは紙の匂いと、石壁の冷たさだけだ。


高い天井。

規則正しく並ぶ棚。

古い帳簿と新しい書類が、同じ顔で収まっている。


エドランは棚の前を歩き、手近な帳簿を一冊引き抜いた。

革表紙は擦り切れているが、管理は行き届いている。


「……崩れてないな」


「記録は、崩れません」


応じたのは記録官だった。

年配の男で、声に感情の揺れがない。


「街が燃えても、戦が起きても、やることは同じです」


誇らしさも、卑下もない。

ただ、事実を述べているだけだった。


エドランは帳簿を開く。


治療記録。

移送記録。

配給記録。


日付は揃っている。

数量も揃っている。

抜けも、修正もない。


「丁寧すぎるくらいだ」


タルヴァスが低く言う。


「こういう状況なら、どこかに綻びが出る」


「規定通りですから」


記録官は即答した。


「規定、か」


エドランは顔を上げる。


「誰が決めた?」


「……前任者です」


「その前は?」


「さらに前任から引き継ぎました」


少し考えてから、記録官は付け足す。


「私が着任した時には、もうありました」


エドランはそれ以上を追及しなかった。

帳簿をめくる。


治療を受ける。

保護される。

移送される。

弔われる。


すべてが、途切れずに繋がっている。


「個別で判断した形跡がないな」


タルヴァスが言った。


「“必要と判断した”とか、“緊急につき”とか、そういう言葉が一切ない」


「判断は、現場でなされます」


記録官が答える。


「基準がありますから」


「その基準は、どこに書いてある?」


記録官は、ほんの一瞬だけ黙った。


「……文書には、ありません」


「ですが、皆、知っています」


その言い方に、疑問はなかった。

エドランは帳簿を閉じた。



=======


【文書庫・奥/名簿突合】


文書庫の奥は、さらに灯りが落ちていた。

使用頻度の低い棚が並び、埃が積もっている。


エドランは、記録官から受け取った名簿を机に広げた。


拘束された襲撃参加者。

治療を受けた住民。

行方不明者。


別々の分類。

別々の束。


だが、名前を追っていくと――

同じ事象が、何度も現れる。


「……ここだな」


タルヴァスが指を置く。


「この施療所を経由してる」


「こっちもだ」


年齢は違う。

職も違う。

立場も違う。


「共通点が、ない」


「いや」


エドランは言った。


「ある」


名簿を指でなぞる。


「通過点だけが、同じだ」


「治療を受けて、保護されて、移送された」


「そこまでは、全員同じだ」


タルヴァスは腕を組む。


「思想で括った形跡はない」


「信仰も、身分も、揃ってない」


「扇動も見えない」


エドランが続ける。


「集会も、呼びかけも、中心人物もいない」


「反乱にしては、準備の痕跡が薄すぎる」


タルヴァスは名簿を見下ろしたまま言った。


「指揮官クラスの人物も見当たらない」


「それなのに、同じ日に動いてる」


短い沈黙が落ちる。


「……なぜ、これで事が起こせた?」


エドランは名簿を閉じ、机に置いた。


「推察できることは一つだけだ」


一拍。


「敵は、“同じ手順を受けた”一般人だった」


「治療を受けた」


「保護された」


「移送された」


「その流れに乗った人間が、結果的に兵として動いた」


タルヴァスが、低く息を吐く。


「……一体、何をされたんだ」


「分からない」


エドランは言った。


「だが、確実に」


「それを突き止める必要がある」



=======


【文書庫・最深部/未分類箱】


文書庫の最奥。

廃棄予定と書かれた木箱が、壁際に積まれている。


記録官が一つを開けた。


中には、薄い紙束。


署名はない。

宛名もない。

だが、文面は似通っている。


――共有事項

――従来通り

――基準に従うこと

――周知済


命令文ではない。

強制する言葉もない。


「……誰にとっての“従来”だ」


エドランが言った。


記録官は少し考え、首を傾げる。


「我々にとって、です」


「いつから?」


「覚えておりません」


「誰が書いた?」


「分かりません」


エドランは、紙束から視線を離さずに続けた。


「では、その“従来”のやり方は、誰から教わっている?」


「基準についても、どこにも書いていない」


記録官は、しばらく沈黙した。


やがて、静かに言った。


「……教わった、という感覚はありません」


「気づいた時には、そうしていました」


「前任も、同じようにしていました」


「だから、疑問に思ったことはありません」


その言葉で、場が静まり返った。



=======


【記録院・外】


外に出ると、どんよりとした曇り空が広がっていた。


二人は、しばらく言葉を失ったまま歩いた。


城の中では、すべてが整っている。

整いすぎている。


「……想像していたより、根が深いな」


タルヴァスが言った。


「刃を向ける相手がいない」


「止める場所も、はっきりしない」


エドランは答えなかった。

答えが、なかった。


対処しなければならない。

だが、何をすればいいのかが分からない。


その感覚だけが、胸に残る。


答えは、まだ出ない。

だが一つだけ、はっきりしたことがある。


この“やり方”は、

北国で生まれたものじゃない。


それでも、

北国の中で、

誰にも疑われずに使われている。


静かで、気づきにくい侵食が、

すでに始まっていた。



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