第三十三話
【ハーヴェンスロウ市街/記録管理局・臨時執務室】
臨時の記録管理局は、もともと商会の倉庫だった建物を転用したものだった。
天井は高く、壁は厚い。だが窓は少なく、光は常に足りない。
書類の山が床にまで溢れ、紙と埃と古い蝋の匂いが混じっている。
戦後の街に残された、もう一つの戦場だった。
エドランは机の前に立ち、積まれた帳簿を一冊ずつ確認していた。
隣ではタルヴァスが腕を組み、無言で周囲を見渡している。
「……改めて見ると、よく燃え残ったな」
タルヴァスが低く言った。
「燃やす理由がなかったんだろう」
エドランは帳簿を閉じる。
「ここにあるのは“命令”じゃない。“処理”だ」
壁際に立つ男が、静かに一歩前へ出た。
この臨時局の現場責任者――
名を、アーネル・クレヴィスという。
真教派の聖職者ではない。
軍人でもない。
長く市の記録と物資管理に携わってきた、ただの実務官だった。
年は四十を少し越えた程度。
身なりは整っているが派手さはなく、声も穏やかだ。
「必要なものは、すべて開示しています」
アーネルは淡々と言った。
「治療記録、移送記録、保護名簿、弔いの手続き。
どれも、定められた通りです」
「“定められた通り”ね」
タルヴァスが一瞬だけ目を細める。
エドランは、その言葉を受け取らず、帳簿の一部を指で叩いた。
「同じ時期に、同じ経路で、同じ人数が動いている」
「偶然とは思えない」
「はい」
アーネルは即座に頷いた。
「これは偶然ではありません。
最も効率的で、秩序を乱さない形です」
その言い切りに、迷いはなかった。
エドランは、そこで初めて顔を上げた。
「……その“最も”は」
一拍、間を置く。
「誰にとって、ですか?」
アーネルは、わずかに瞬きをした。
考えている様子ではない。
戸惑っている様子でもない。
だが――
言葉を探しているような間だった。
「全体にとって、です」
返答は穏やかだった。
「混乱を最小限に抑え、
治療と保護を優先し、
街の機能を止めないための形です」
「その“全体”は」
エドランは、さらに一歩踏み込む。
「北国のことですか?」
部屋の空気が、ほんのわずかに変わった。
タルヴァスは、何も言わない。
だが視線だけが、アーネルから離れなくなる。
アーネルは、即答しなかった。
沈黙が一拍。
二拍。
そして――
「……社会全体です」
その答えは、あまりにも自然だった。
エドランの胸の奥で、何かが静かにずれた。
「社会、とは」
問いは、責める調子ではなかった。
「この街ですか。
公爵領ですか。
それとも――」
アーネルは、困惑した様子を見せない。
「区切る必要はありません」
彼は、そう言った。
「人は繋がっています。
一部だけを優先すれば、歪みが生まれる」
「だから、全体を見て判断する。
それが、正しい」
正しい。
その言葉が、はっきりと置かれた。
エドランは、すぐには返さなかった。
代わりに、机の上の書類を一枚引き抜く。
署名はない。
発信者名もない。
だが、日付と処理内容だけは揃っている。
「この指示は、誰が出した」
「指示ではありません」
アーネルは否定した。
「共有事項です。
引き継がれてきた、運用上の基準です」
「いつから?」
「……正確な時期は分かりません」
「誰が書いた?」
「それも」
一瞬、間が空く。
「重要ではありません」
その瞬間、エドランは理解した。
――この男は、嘘をついていない。
――そして、自分が何を失っているかも、理解していない。
「君は、これが正しいと思っているか」
問いは、静かだった。
「はい」
即答。
「街が機能し、人が救われ、
混乱が抑えられる。
それ以上に、何が必要でしょうか」
タルヴァスが、低く息を吐いた。
「……命令は、なかった」
「だが、皆、同じ方向を向いた」
エドランは、アーネルから目を離さずに言った。
「誰も“やれ”と言っていない」
「それでも、人が動いた」
アーネルは、穏やかに首を傾げる。
「正しいことをしただけです」
その一言で、すべてが揃った。
エドランは、ゆっくりと視線を落とす。
――これは反乱じゃない。
――思想でもない。
――狂信でもない。
判断基準が、すでに外にある。
「……もういい」
エドランは書類を机に戻した。
「協力に感謝する」
アーネルは一礼する。
「街のためですから」
その言葉に、皮肉はなかった。
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【記録管理局・外】
建物を出ると、夕暮れの空気が肌に触れた。
街は、確かに落ち着いている。
人々は歩き、商人は声を出し、子供は走っている。
タルヴァスが、先に口を開いた。
「……あれは敵じゃない」
「ああ」
エドランは頷く。
「だが、味方でもない」
二人は並んで歩き出す。
「司教も、実務官も、誰も知らない」
タルヴァスが言う。
「だが、全部が繋がっている」
「誰かが、流れを作った」
エドランの声は低い。
「命令じゃない。
思想でもない」
一拍。
「“正しさ”だ」
タルヴァスは、苦く笑った。
「一番、厄介なやつだな」
エドランは、街の奥を見る。
「だから次は――」
「誰が、その正しさを書いたか」
その問いには、まだ答えがない。
だが一つだけ、確かなことがあった。
今回、剣を取って襲ってきた者たちは、
盗賊でも、兵でも、雇われ冒険者でもなかった。
北国に反意を持たぬ者。
日々を生きていただけの人間。
その“普通”が、
ある日、敵として立ち上がった。
どうやって?
答えは、まだ闇の中だ。
だがエドランは、はっきりと理解していた。
これは戦争ではない。
判断基準を奪う戦いだ。
そして、その戦場は――
すでに、街の内側にある。それも、思っているよりずっと内側に。




