第三十話
【北国ノルディア・ハーヴェンスロウ公爵城/大評議室・戦争準備】
大評議室の灯は、夜半を過ぎても落ちなかった。
厚い扉が閉じられ、窓はすべて覆われている。
外の風も、街の音も遮断された空間には、紙と蝋と鉄の匂いだけが残っていた。
長机の上には、地図が広げられている。
一枚では足りない。
公爵領全土図。
北国ノルディア全土図。
街道網。
穀倉地帯の区画図。
兵站線の仮設案。
赤い印は敵勢力。
青い印は自軍。
何度も書き換えられ、滲んだ跡が、事態の流動性を物語っている。
ロンドリック・ファールデンは、机の端に手を置いたまま立っていた。
椅子には座らない。
座ると、判断が鈍るからだ。
ロウェル・ハーグレンは、地図の反対側で報告書を束ねている。
その指先は迷いなく、だが止まることもない。
「まず、全体の整理だ」
ロウェルが口を開いた。
「現状、我々は負けていない」
その言葉に、誰も異を唱えなかった。
軍務官が一歩前に出る。
「動員可能な兵力で見れば、依然としてこちらが上です。
公爵兄派より数は多いし、質も劣っていない」
一息置いて続ける。
「公爵領兵と、ウィンターホルンの常備軍を合わせれば、
正面から当たって後れを取ることはありません」
ロンドリックは、ゆっくり頷いた。
「兄は、王国軍を打ち破れるだけの力は持たん」
「問題は、別だ」
ロウェルが続ける。
「反乱によって、南部の要所はいくつか奪われた」
地図の南側に、指が走る。
街道の結節点。
中継都市。
穀倉地帯への入口。
「城は落ちていない」
「だが、“通る場所”が押さえられている」
財務官が、低く言った。
「南部の一部穀倉地帯は、すでに流通を止めています」
「略奪ではありません。
すでに新しい体制で“管理”されています」
その言葉に、ロンドリックの眉がわずかに動いた。
「……我が軍の兵の配置は?」
軍務官が答える。
「北国兵の約六割は、ウィンターホルン以南に集結しています」
理由を、誰もが知っている。
そこに、穀物があるからだ。
北国の中心、王都周辺は、自然環境が厳しい。
寒冷。
痩せた土地。
工夫はしているが、大軍を養える土地ではない。
「王都には二割」
「北壁に二割」
「残り六割が、南で動ける兵力です」
ロウェルは、地図を叩いた。
「つまり、こちらは“戦える形”を維持している」
「兵も、糧も、指揮もある」
ロンドリックが言った。
「少なくとも、兄程度に負けることはない」
その言葉は、事実だった。
誰も否定しない。
だが、次の沈黙が重かった。
治安官が、慎重に口を開いた。
「……真教派ですが。
各地に施療団や祈祷団が入り始めています」
「形式上は、すべて中立です」
ロンドリックが低く言う。
「表に見える限り、宗教活動の範疇だな」
「施療、祈祷、仲裁……
刃を持たぬ形での介入にしか見えん」
ロウェルも頷いた。
「少なくとも、武装勢力としての動きは確認されていない。
軍の数で見れば、こちらが優勢だ」
異論は出なかった。
北国は軍事国家だ。
正面からの兵力勝負で、地方反乱に後れを取るはずがない。
——この時点では。
ロウェルが、静かに息を吐く。
「当面は、公爵領兵とウィンターホルンの兵で対処する。
本国軍を即座に動かす必要はない」
ロンドリックが応じる。
「戦線を固定する。
南部の要所は、急がず包囲だ」
「兵站を保ち、無駄な消耗戦に引きずり込まれないようにする」
ロウェルは一度視線を上げた。
「……ただし、これは北国全体の問題だ。
王都が知らぬまま進めていい話ではない」
彼は封蝋を手に取る。
「伝令を出す。
現状整理、兵力配置、南部要所の喪失、
公爵兄の独立宣言」
一瞬、間を置いて。
「それから——
真教派が“調停”を名乗って動き始めていることも」
ロウェルは短く言った。
「憶測は書くな、事実だけでいい。事実だけで、十分に重い」
伝令役の騎士が呼ばれ、書状が手渡される。
王印が押され、封蝋が固まる。
「夜明け前に発て。王都へ直行せよ」
騎士は一礼し、足早に去った。
扉が閉じる。
再び、沈黙。
ロンドリックが静かに言った。
「……これで、表の備えは整う」
ロウェルは地図から目を離さず答える。
「だが、
今回の内乱は揃いすぎている」
「剣を振るう前に、
整えられている」
ロンドリックは、扉の向こうを見た。
「なら、見るべきは——」
「戦場ではない場所だ」
この時点で、北国はまだ戦えると信じている。
兵の数も、糧の量も、士気もある。
だが、その計算の外側で、
別の戦争が、すでに進行していることを
誰も、まだ知らなかった。




