第二十九話
【聖都セレスティオン・地下密室】
聖都セレスティオン。
大聖堂地下、古い基礎構造のさらに奥。
祈りの声も、鐘の音も、届かない場所。
湿った石壁に囲まれた部屋の中央に、長机が一つだけ置かれている。
燭台の光は弱く、炎は揺れない。
そこに座る男は、純白の法衣を着ていなかった。
金糸も、聖印も外され、
濃紺の上衣と黒い外套だけが、体を包んでいる。
ドミナール・ラクセン。
枢機卿の仮面を脱いだ姿だった。
その前に、黒衣の報告者が跪く。
「……ハーヴェンスロウより、確定報告です」
「話せ」
声には温度がない。
「公爵兄派は、新都市グリモーヴァを拠点に独立を宣言。
穀倉地帯南部、港湾区画、南街道の要衝を掌握しました」
ドミナールは、頬杖をついた。
「分断は?」
「完了しています。
公爵領は事実上、二系統に裂かれました。
北国ノルディア本国と直結していた輸送網は、七割が遮断」
「……よろしい」
「死者は、現時点で三千二百余。
市街戦、内部粛清、街道襲撃を含みます」
「思ったより少ないな」
報告者の喉が鳴る。
「街道は?」
「南北三本が使用不能。
二本が不安定。
護送なしでは機能しません」
ドミナールは、机の上の石板に指で線を引く。
「物流。軍糧。徴税。徴兵。
すべて再構築が必要になる」
顔を上げる。
「つまり、北国は――
戦う前から衰弱する」
「はい」
「グリモーヴァは?」
「都市機構は掌握済み。
行政補助・治安維持・食糧管理に真教派が入りました。
洗礼を受けた者のみが配給を受けられる形に移行中です」
ドミナールは、わずかに口角を上げた。
「我々の目的は、支配ではない」
立ち上がり、ゆっくりと歩く。
「管理だ」
振り返る。
「王は不要だ。
国境も不要だ。
必要なのは――
全人口の依存先」
「洗礼とは、そのための儀式だ」
報告者は無言で聞く。
「北国は、滅ぼす」
はっきりと言った。
「だが、一手で潰す必要はない。
国は壊すものではなく、劣化させるものだ」
「公爵領分断は、その第一段階」
「前線を作り、
戦争を常態化させ、
資源を削り、
不安を固定する」
「人間は、長い恐怖の中で必ず委ね先を探す」
「その時、我々が制度として存在していればいい」
報告者は、ためらいがちに口を開いた。
「……天啓に関わる件ですが」
ドミナールの足が止まる。
「複数の地域で、天啓兆候の再観測がありました」
「……」
ドミナールは鋭い視線を報告者に向ける。
「可能性の高い事例が三。
いずれも確証には至っていませんが」
「それに加えて」
一瞬、言葉を選ぶ。
「それらの兆候に、繰り返し接近している人物が確認されています」
ドミナールが、ゆっくりと振り返った。
「……ほう」
「王都方面から動いている男です。
各地の異常事例、政治不安に高確率で関与しています」
「戦場での挙動が不自然で、
“知り得ないはずの配置”を読んでいるとの報告も」
ドミナールの指が、机の縁をなぞる。
沈黙。
ドミナールの目が、わずかに細くなる。
「名は」
「エドラン・ハーグレン。
北国王家の血筋です」
「……」
低く、短く笑った。
「……なるほど。面白い」
歩き出す。
「天啓は、道を生む。
道は、逸脱を生む。
逸脱は、管理を破る」
「保持者だけでなく、
保持者に辿り着く者も、同じだ」
報告者は深く頭を下げる。
「次の段階に入る」
ドミナールは言った。
「調停者として表に出る準備をしろ。
救援。弔意。仲裁。復興支援」
「戦争を起こしたのが誰かなど重要ではない」
「終わらせる形を握る者が、勝者だ」
報告者が下がろうとした時、呼び止める。
「……それと」
「エドラン・ハーグレンの行動履歴を洗え」
「本人を追うな。“周囲”を削れ」
「接触点。
生存者。
助けた者。
救われた場所」
「そこに、天啓の痕跡が出る」
報告者は息を整えた。
「承知しました」
扉が閉じる。
密室に残ったドミナールは、石板の上の“分断された北国”の図を見下ろした。
その端に、爪で小さな印を刻む。
「……芽を探す者か」
「ならば、お前自身が“誘蛾灯”になる」
彼は静かに呟いた。
「世界が整う前に、
不要な可能性は――すべて間引く」
盤面は、すでに次の段階に入っていた。
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【聖都セレスティオン・記録院最深部】
聖都セレスティオンの地下、記録院のさらに下。
祈りの間でも、密談室でもない。
そこは「分類」のための部屋だった。
天井まで届く石棚。
並ぶのは聖典ではない。
帳簿。
石板。
皮紙。
封蝋付きの筒。
すべてに、同じ印が刻まれている。
――“兆候”。
部屋の中央には、長い卓。
その上に二つの束が置かれていた。
一つは、淡色の皮紙。
一つは、黒革で綴じられた冊子。
前者には金の縁取りで題が記されている。
《天啓兆候観測記録》
後者には、何の装飾もない。
《異常人物リスト》
記録官たちが無言で座り、羽根ペンを走らせていた。
誰も会話しない。
必要なのは言葉ではなく、“振り分け”だからだ。
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天啓兆候リスト
そこに並ぶのは、名ではない。
・北部辺境村落/同一世帯内で三名が同月に技能急成長
・港湾都市レインポート/事故現場で生存率異常上昇
・山岳修道院跡/予見不能の行動選択を取る少年出現
・農村帯第七区画/戦闘未経験者が重騎兵を撃退
場所。
現象。
統計。
人間は、まだ「事象」だった。
記録官の一人が、淡々と付け加える。
「兆候三十二番。関連事例が再度重複しました」
別の者が頷き、黒革の冊子に手を伸ばす。
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異常人物リスト
こちらには、名がある。
・傭兵隊長リグ・フェルド
・聖騎士見習いマルカ
・交易監督官ヨアヒム
・放浪治療師セリス
共通項が横に記されている。
・兆候地点に複数回接触
・生存確率の逸脱
・判断経路が統計に合致しない
・周囲の人間の選択が変化している
記録官が、さらに一枚の紙を差し込んだ。
新しい報告書だった。
「公爵領内乱。
兆候事例四件。
異常接触一名」
黒革の冊子が開かれる。
新しい頁。
そこに、まだ空白の行が引かれる。
記録官が、ほんの一瞬だけ筆を止めた。
名前を書く前の、形式的な間。
そして、記す。
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エドラン・ハーグレン
出自:北国王族
行動範囲:王都周辺/公爵領/宗教衝突地域
備考:
・兆候地点への高確率介入
・戦場配置認識の逸脱
・生存者・保持者候補との接触率異常
・周囲の選択肢変動を誘発
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最後の一文が追記される。
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・天啓保持者ではない可能性が高い。
だが、“天啓へ至る経路”に最も近い個体。
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記録官はペンを置いた。
分類が終わった、という合図だった。
兆候は兆候へ。
人物は人物へ。
だが、エドランの名の横には、赤い細線が一本引かれている。
それは“処理対象”ではない。
“構造干渉因子”の印だった。




