第二十八話
【新都市グリモーヴァ・中央政庁大広間/祝宴】
新都市グリモーヴァの中央政庁大広間は、祝宴の熱に満ちていた。
だが、その熱は均一ではない。
切り出されたばかりの木材の匂い。
塗りたての漆。
乾ききらない石灰の白さ。
そこに、酒と脂と香辛料の匂いが無理やり重ねられている。
——新しい都市が、急ごしらえで「正統」を装っている匂いだった。
中央高座。
最も高く、最も明るく、最も目立つ席に、
公爵兄――エルバート・ファールデンが座っている。
豪奢な椅子は、この場の中で明らかに浮いていた。
だが、本人だけはそれを「相応しい」と信じて疑っていない。
そのすぐ左右。
エルバートに最も近い位置を占めているのは、真教派の教会関係者だった。
白い法衣。
清潔な指先。
杯は置かれているが、ほとんど口をつけていない。
彼らは祝わない。
酔わない。
笑わない。
ただ、静かにこの場全体を点検するように眺めている。
その外側、一段低い席に並ぶのが地方貴族たちだった。
衣装は整い、家紋も掲げられている。
だが、その多くは領地を失い、兵を減らし、
真教派からの資金や信用に縋ってここに座っている者たちだ。
彼らは声高に語る。
「新都市こそ北の未来だ」
「正統はここに戻る」
「我々が時代を変える」
だが、その視線は、
エルバートではなく、必ず真教派の席をかすめていく。
承認が欲しい。
それだけだ。
さらにその外側。
数の多い席を占めているのが、洗礼を受けた地方貴族、役人、軍人たちだった。
服装も立場も異なる。
だが、奇妙なほど揃っている。
背筋の角度。
杯を置く間。
拍手の速度。
彼らはエルバートの言葉に、必ず一拍遅れて反応した。
自分の意思で賛同しているように見せる、完璧に制御された挙動。
そのさらに外。
灯りの届きにくい席に、うらぶれた冒険者たちが固まっている。
名を売れなかった者。
名を失った者。
仕事を選べなくなった者。
継ぎ当てだらけの鎧。
擦り切れた剣。
酒の飲み方だけが荒い。
彼らは笑い、騒ぎ、
「俺たちも大きな舞台に上がった」と錯覚している。
だが、その目は、常に出口を探していた。
——ここが崩れた時、どこへ逃げるか。
そして、最も端。
柱の陰。
半ば立ち飲みの位置。
そこにいるのが、野党——
密輸、横流し、関所破りを請け負ってきた盗賊団の頭目たちだった。
席はない。
名も呼ばれない。
必要以上に目立たない。
——自分たちが、この陣営の「外縁」だと、誰よりも分かっている。
この大広間は、一つの円ではない。
中心から外へと広がる、明確な同心円だった。
信仰が最も近く、
野心がその次に置かれ、
洗礼が歯車を埋め、
力が消耗品として並べられ、
汚れは端へ追いやられている。
その中心で、エルバートが立ち上がった。
「見ろ!
これが我が都市、グリモーヴァだ!」
声は大きい。
中身は薄い。
薄いからこそ、よく響く。
「北の正統はここにある!
俺が導く!
俺が、北を変える!」
拍手が起きた。
教会関係者は、静かに。
地方貴族は、大きく。
洗礼済みの者は、揃って。
冒険者は、ばらばらに。
野党は、遅れて。
その不揃いな音こそが、この陣営の正体だった。
エルバートは、それを「忠誠」だと信じた。
自分が頂点に立った証だと、疑わなかった。
大広間の端。
真教派の司教が、互いに一瞬だけ視線を交わす。
言葉はない。
必要もない。
——配置は完了。
——舞台は整った。
この祝宴は、勝利の宴ではない。
北国を疲弊させるための歯車が、正しく噛み合ったかを確認する場だった。
祝祭の熱の向こうで、
戦争は、すでに始まっていた。
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祝宴は夜半まで続き、楽師は疲れ、杯は空になり、床には骨と酒が散った。
やがて人々が散り、広間の灯りが落とされる頃——
エルバートの肩に、静かな声が降りた。
「公爵殿。少々、お時間を」
振り向くと、真教派の司教が二名、立っていた。
柔らかな微笑。断れない距離。
酔いの熱が、そこで一瞬冷えた。
「……何だ。今更礼なら、明日でいい」
「礼ではありません。——祝福と、次の“導き”です」
その言葉だけで、エルバートの背筋が伸びる。
導き。祝福。
それは彼がこの数日で最も慣れ親しんだ麻薬だった。
彼は立ち上がり、廊下へ連れ出される。
他の誰もついてこない。
祝宴の余韻の笑い声が背後で遠ざかり、代わりに石床の音だけが残る。
【新都市グリモーヴァ・政庁奥/小謁見室】
重い扉が閉じられた瞬間、外界の音はすべて遮断された。
残るのは、香の匂いと、静謐――そして祈りの空気だけだった。
白い法衣を纏った真教派の司教は、深く頭を垂れている。
その姿は敬虔そのものだったが、伏せられた瞳の奥に宿るのは、信徒を見る者のそれではない。
「――エルバート・ファールデン公爵閣下」
呼びかけは丁重で、しかしどこか重みを帯びていた。
「本日は、あなたの“正当性”について語らねばなりません」
エルバートは椅子に座ったまま、僅かに身を強張らせる。
「正当性、だと?」
「ええ。力や戦果の話ではありません。
まして、野心や欲望の問題でもない」
司教はゆっくりと顔を上げた。
「血です」
断言だった。
「この北の地を治めるに足る血。
歴史に裏打ちされ、神に否定されぬ系譜。
それを、あなたはお持ちだ」
エルバートは即座に否定しようとして――言葉を失った。
司教の言葉は、あまりに静かで、あまりに当然のものとして響いたからだ。
「今の王は、正当でしょうか」
問いは柔らかい。
だが、答えの方向だけは最初から決められている。
「我ら真教派は、王を“選ぶ”ことはいたしません。
ただ――正当な者を、正当と認めるだけです」
司教は一歩下がり、白布を取り払った。
そこには小さな水盤が置かれている。
「洗礼をお受けください」
「……今さら?」
エルバートの声には、疑念よりも戸惑いが滲んでいた。
「新しく何かを与えるためではありません」
司教は微笑む。
「すでに備わっているものを、曇りなく映すためです」
香油が垂らされ、水面がかすかに揺れた。
「この洗礼は、忠誠を誓わせるものではない。
思想を植え付けるものでもない」
ゆっくりと、水に指が浸される。
「ただ――迷いを、取り除く」
その言葉は、不思議なほど自然に腑に落ちた。
エルバートは、短く息を吐く。
「……わかった」
拒む理由が、見当たらなかった。
司教は水を掬い、エルバートの額に触れさせる。
「高貴なる血に、正当なる役割を」
胸元。
「為すべきことを、為す覚悟を」
唇。
「語る言葉が、真理から逸れぬように」
水は冷たいはずだった。
だが実際には、頭の中の靄が、静かに晴れていく感覚があった。
――そうか。
――私は、迷っていただけなのだ。
「……不思議だな」
エルバートは呟く。
「考えが、整理された気がする」
司教は深く頷いた。
「それが正当性です」
そして、間を置いて告げる。
「公爵とは、王になり得る者が、まだ王でない状態を指す言葉にすぎません」
香の煙が、天井へと昇っていく。
「あなたは真の公爵であるべきお方。
ならば、その先もまた――定められている」
司教は静かに、しかし確信をもって言った。
「北国の王座は、奪うものではない。
本来あるべき場所に、戻るだけなのです」
その言葉に、反発は生まれなかった。
野心とも違う。欲望でもない。
それは、理解の結果だった。
「北国は、正当な王を待っている」
その考えが、いつ芽生えたのかは分からない。
だが今や、それは疑いようのない“自分の結論”だった。
エルバート・ファールデンは、ゆっくりと頷く。
「……そうだな」
誰かに操られているという感覚は、どこにもない。
あるのは、使命と確信だけだった。
司教は再び頭を垂れる。
「我らは、あなたの歩みを祝福いたしましょう。
――王として」
その瞬間、
エルバートの思考は、静かに、不可逆の方向へと固定された。
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【新都市グリモーヴァ/地方貴族視点】
石畳に、靴音が静かに響く。
宴の喧騒はすでに遠く、背後の館には、まだ灯りだけが残っていた。
――終わった。
いや、正確には、始まったのだろう。
そう考えた瞬間、自分でも驚くほど自然に、その言葉が腑に落ちた。
酒は飲んでいた。
だが、酔っている感覚はない。
むしろ頭は冴え、思考は妙に整理されている。
あの席で交わされた言葉の数々が、反芻される。
正当性。
血筋。
神意。
そして――王。
誰かが「クーデター」などという言葉を口にしただろうか。
いや、違う。
そんな下卑た呼び方をする者は、一人もいなかった。
これは是正だ。
本来あるべき秩序を、正しい位置に戻すだけ。
それだけのことだ。
「……問題はない」
自分の口から、無意識に言葉がこぼれる。
あの公爵兄――エルバート・ファールデンの横顔を思い出す。
宴の終わり際、あの眼差しには、もはや迷いがなかった。
あれは野心の目ではない。
理解した者の目だ。
王になるべき理由を、すでに自分の内側に見つけてしまった者の。
それを見て、胸の奥が静かに熱を帯びた。
――ああ、これでいい。
もし失敗すれば、裏切り者として処刑される。
だが、不思議とその想像は現実味を持たなかった。
なぜなら、自分は「間違った側」にいない。
神も、血も、歴史も――
すべてがこちらを向いている。
そう信じるのに、理由はいらなかった。
気づけば、同じ道を歩く者たちが、自然と隣に並んでいる。
言葉は交わさない。
だが、歩調は揃っていた。
誰もが理解している。
もう引き返す場所はない。
そして――引き返す必要もない。
遠くで、鐘が鳴った。
それが合図なのか、偶然なのかは分からない。
だが、その音を聞いた瞬間、胸の内で何かが確定した。
北国は、近いうちに血を流す。
だがそれは、破壊ではない。
再生だ。
そう思えた自分を、
ほんの一瞬だけ、不思議に感じながらも。
参加者は歩みを止めず、夜の街へと溶けていった。
すでに、歯車は回っている。
誰の手によってかは――
もはや、どうでもよかった。




