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北国物語(仮題)  作者: GP
第一章
29/41

第二十八話

【新都市グリモーヴァ・中央政庁大広間/祝宴】


新都市グリモーヴァの中央政庁大広間は、祝宴の熱に満ちていた。

だが、その熱は均一ではない。

切り出されたばかりの木材の匂い。

塗りたての漆。

乾ききらない石灰の白さ。

そこに、酒と脂と香辛料の匂いが無理やり重ねられている。


——新しい都市が、急ごしらえで「正統」を装っている匂いだった。


中央高座。

最も高く、最も明るく、最も目立つ席に、

公爵兄――エルバート・ファールデンが座っている。


豪奢な椅子は、この場の中で明らかに浮いていた。

だが、本人だけはそれを「相応しい」と信じて疑っていない。


そのすぐ左右。

エルバートに最も近い位置を占めているのは、真教派の教会関係者だった。


白い法衣。

清潔な指先。

杯は置かれているが、ほとんど口をつけていない。


彼らは祝わない。

酔わない。

笑わない。

ただ、静かにこの場全体を点検するように眺めている。


その外側、一段低い席に並ぶのが地方貴族たちだった。

衣装は整い、家紋も掲げられている。

だが、その多くは領地を失い、兵を減らし、

真教派からの資金や信用に縋ってここに座っている者たちだ。


彼らは声高に語る。

「新都市こそ北の未来だ」

「正統はここに戻る」

「我々が時代を変える」


だが、その視線は、

エルバートではなく、必ず真教派の席をかすめていく。

承認が欲しい。

それだけだ。


さらにその外側。

数の多い席を占めているのが、洗礼を受けた地方貴族、役人、軍人たちだった。

服装も立場も異なる。

だが、奇妙なほど揃っている。


背筋の角度。

杯を置く間。

拍手の速度。


彼らはエルバートの言葉に、必ず一拍遅れて反応した。

自分の意思で賛同しているように見せる、完璧に制御された挙動。


そのさらに外。

灯りの届きにくい席に、うらぶれた冒険者たちが固まっている。


名を売れなかった者。

名を失った者。

仕事を選べなくなった者。


継ぎ当てだらけの鎧。

擦り切れた剣。

酒の飲み方だけが荒い。


彼らは笑い、騒ぎ、

「俺たちも大きな舞台に上がった」と錯覚している。


だが、その目は、常に出口を探していた。

——ここが崩れた時、どこへ逃げるか。


そして、最も端。

柱の陰。

半ば立ち飲みの位置。


そこにいるのが、野党——

密輸、横流し、関所破りを請け負ってきた盗賊団の頭目たちだった。


席はない。

名も呼ばれない。

必要以上に目立たない。


——自分たちが、この陣営の「外縁」だと、誰よりも分かっている。


この大広間は、一つの円ではない。

中心から外へと広がる、明確な同心円だった。


信仰が最も近く、

野心がその次に置かれ、

洗礼が歯車を埋め、

力が消耗品として並べられ、

汚れは端へ追いやられている。


その中心で、エルバートが立ち上がった。


「見ろ!

 これが我が都市、グリモーヴァだ!」


声は大きい。

中身は薄い。

薄いからこそ、よく響く。


「北の正統はここにある!

 俺が導く!

 俺が、北を変える!」


拍手が起きた。

教会関係者は、静かに。

地方貴族は、大きく。

洗礼済みの者は、揃って。

冒険者は、ばらばらに。

野党は、遅れて。


その不揃いな音こそが、この陣営の正体だった。

エルバートは、それを「忠誠」だと信じた。

自分が頂点に立った証だと、疑わなかった。


大広間の端。

真教派の司教が、互いに一瞬だけ視線を交わす。


言葉はない。

必要もない。


——配置は完了。

——舞台は整った。


この祝宴は、勝利の宴ではない。

北国を疲弊させるための歯車が、正しく噛み合ったかを確認する場だった。


祝祭の熱の向こうで、

戦争は、すでに始まっていた。



=========



祝宴は夜半まで続き、楽師は疲れ、杯は空になり、床には骨と酒が散った。

やがて人々が散り、広間の灯りが落とされる頃——


エルバートの肩に、静かな声が降りた。


「公爵殿。少々、お時間を」

振り向くと、真教派の司教が二名、立っていた。


柔らかな微笑。断れない距離。

酔いの熱が、そこで一瞬冷えた。


「……何だ。今更礼なら、明日でいい」

「礼ではありません。——祝福と、次の“導き”です」


その言葉だけで、エルバートの背筋が伸びる。


導き。祝福。

それは彼がこの数日で最も慣れ親しんだ麻薬だった。


彼は立ち上がり、廊下へ連れ出される。

他の誰もついてこない。

祝宴の余韻の笑い声が背後で遠ざかり、代わりに石床の音だけが残る。


【新都市グリモーヴァ・政庁奥/小謁見室】


重い扉が閉じられた瞬間、外界の音はすべて遮断された。

残るのは、香の匂いと、静謐――そして祈りの空気だけだった。


白い法衣を纏った真教派の司教は、深く頭を垂れている。

その姿は敬虔そのものだったが、伏せられた瞳の奥に宿るのは、信徒を見る者のそれではない。


「――エルバート・ファールデン公爵閣下」

呼びかけは丁重で、しかしどこか重みを帯びていた。

「本日は、あなたの“正当性”について語らねばなりません」


エルバートは椅子に座ったまま、僅かに身を強張らせる。

「正当性、だと?」

「ええ。力や戦果の話ではありません。

 まして、野心や欲望の問題でもない」


司教はゆっくりと顔を上げた。

「血です」

断言だった。


「この北の地を治めるに足る血。

 歴史に裏打ちされ、神に否定されぬ系譜。

 それを、あなたはお持ちだ」


エルバートは即座に否定しようとして――言葉を失った。

司教の言葉は、あまりに静かで、あまりに当然のものとして響いたからだ。


「今の王は、正当でしょうか」

問いは柔らかい。

だが、答えの方向だけは最初から決められている。


「我ら真教派は、王を“選ぶ”ことはいたしません。

 ただ――正当な者を、正当と認めるだけです」

司教は一歩下がり、白布を取り払った。

そこには小さな水盤が置かれている。


「洗礼をお受けください」

「……今さら?」


エルバートの声には、疑念よりも戸惑いが滲んでいた。


「新しく何かを与えるためではありません」

司教は微笑む。


「すでに備わっているものを、曇りなく映すためです」

香油が垂らされ、水面がかすかに揺れた。


「この洗礼は、忠誠を誓わせるものではない。

 思想を植え付けるものでもない」

ゆっくりと、水に指が浸される。


「ただ――迷いを、取り除く」


その言葉は、不思議なほど自然に腑に落ちた。

エルバートは、短く息を吐く。


「……わかった」


拒む理由が、見当たらなかった。

司教は水を掬い、エルバートの額に触れさせる。


「高貴なる血に、正当なる役割を」

 胸元。


「為すべきことを、為す覚悟を」

 唇。


「語る言葉が、真理から逸れぬように」


 水は冷たいはずだった。

 だが実際には、頭の中の靄が、静かに晴れていく感覚があった。


 ――そうか。

 ――私は、迷っていただけなのだ。


「……不思議だな」

 エルバートは呟く。

「考えが、整理された気がする」


 司教は深く頷いた。

「それが正当性です」

 そして、間を置いて告げる。


「公爵とは、王になり得る者が、まだ王でない状態を指す言葉にすぎません」

 香の煙が、天井へと昇っていく。


「あなたは真の公爵であるべきお方。

 ならば、その先もまた――定められている」

 司教は静かに、しかし確信をもって言った。


「北国の王座は、奪うものではない。

 本来あるべき場所に、戻るだけなのです」


 その言葉に、反発は生まれなかった。


 野心とも違う。欲望でもない。

 それは、理解の結果だった。


「北国は、正当な王を待っている」


 その考えが、いつ芽生えたのかは分からない。

 だが今や、それは疑いようのない“自分の結論”だった。


 エルバート・ファールデンは、ゆっくりと頷く。


「……そうだな」


 誰かに操られているという感覚は、どこにもない。

 あるのは、使命と確信だけだった。


 司教は再び頭を垂れる。

「我らは、あなたの歩みを祝福いたしましょう。

 ――王として」


 その瞬間、

 エルバートの思考は、静かに、不可逆の方向へと固定された。



=========

【新都市グリモーヴァ/地方貴族視点】


 石畳に、靴音が静かに響く。

 宴の喧騒はすでに遠く、背後の館には、まだ灯りだけが残っていた。


 ――終わった。


 いや、正確には、始まったのだろう。

 そう考えた瞬間、自分でも驚くほど自然に、その言葉が腑に落ちた。


 酒は飲んでいた。

 だが、酔っている感覚はない。

 むしろ頭は冴え、思考は妙に整理されている。


 あの席で交わされた言葉の数々が、反芻される。

 正当性。

 血筋。

 神意。

 そして――王。


 誰かが「クーデター」などという言葉を口にしただろうか。

 いや、違う。

 そんな下卑た呼び方をする者は、一人もいなかった。


 これは是正だ。

 本来あるべき秩序を、正しい位置に戻すだけ。

 それだけのことだ。


「……問題はない」

 自分の口から、無意識に言葉がこぼれる。


 あの公爵兄――エルバート・ファールデンの横顔を思い出す。


 宴の終わり際、あの眼差しには、もはや迷いがなかった。

 あれは野心の目ではない。

 理解した者の目だ。

 王になるべき理由を、すでに自分の内側に見つけてしまった者の。


 それを見て、胸の奥が静かに熱を帯びた。

 ――ああ、これでいい。


 もし失敗すれば、裏切り者として処刑される。

 だが、不思議とその想像は現実味を持たなかった。

 なぜなら、自分は「間違った側」にいない。


 神も、血も、歴史も――

 すべてがこちらを向いている。

 そう信じるのに、理由はいらなかった。


 気づけば、同じ道を歩く者たちが、自然と隣に並んでいる。

 言葉は交わさない。

 だが、歩調は揃っていた。


 誰もが理解している。

 もう引き返す場所はない。

 そして――引き返す必要もない。


 遠くで、鐘が鳴った。

 それが合図なのか、偶然なのかは分からない。

 だが、その音を聞いた瞬間、胸の内で何かが確定した。


 北国は、近いうちに血を流す。

 だがそれは、破壊ではない。

 再生だ。


 そう思えた自分を、

 ほんの一瞬だけ、不思議に感じながらも。

 参加者は歩みを止めず、夜の街へと溶けていった。


 すでに、歯車は回っている。

 誰の手によってかは――

 もはや、どうでもよかった。


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