第二十二話
【ハーヴェンスロウ公爵邸・地下通路】
石扉が閉じられる寸前まで、バーリンの姿は見えていた。
炎を背に、盾を前に、敵の波の正面に立つ小さな背。
――叩く音。
――砕ける音。
――肉に刃が入る、鈍い音。
それらが混じり合い、やがて“音”として識別できなくなる。
扉が落ちる。
重い石が噛み合う鈍響が、地下にこだました。
その瞬間、世界が変わった。
通路は、人工と天然が混ざった構造だった。
屋敷の基礎から続く石段が、やがて削れた岩肌に変わり、天井は低く、壁は湿っている。
水がどこかで流れ、空気は冷たく、煙はほとんど入ってこない。
だが、代わりに――音が残る。
剣戟は遠ざかった。
叫びも、火の爆ぜる音も、徐々に薄れる。
代わりに聞こえるのは、
足音。
荒い呼吸。
衣擦れ。
泣き声。
非戦闘員が、護衛に支えられながら進む。
負傷者が壁に手をつき、滑りながら歩く。
子供が声を殺して泣き、母親が口を塞いで抱き寄せる。
「……止まるな。続け」
ロンドリックの声は低く、しかし途切れなかった。
だが、進路は闇だ。
松明の火は弱く、分かれ道が多い。
湿った岩の回廊は、音を歪ませ、距離感を狂わせる。
そこで。
エドランの歩調だけが、わずかに違っていた。
彼は地図を見ていない。
だが、迷っていない。
壁にぶつかる前に曲がり、
段差の前で手を出し、
人がつまずく前に肩を掴む。
「……左だ。ここは上りになる」
「次は……右。水音が消える」
誰も問わない。
だが、全員が従った。
エドランの中で、通路は“道”ではなかった。
流れだった。
空気の動き。
湿度の差。
音の反射。
足音の戻り方。
それらが重なって、頭の中に“抜け”と“袋”が浮かぶ。
(……ここは違う)
(……ここは行き止まりに近い)
(……ここは、外へ繋がっている)
敵の配置を読んでいた感覚が、
いつの間にか、“空間そのもの”を読む感覚に変わっている。
ロンドリックが、息を整えながら低く言った。
「……この通路の構造を、知っているわけではあるまい」
「知りません」
即答だった。
「……だが、迷ってはいないな」
「……はい」
それ以上の説明は、エドランにもできなかった。
ただ一つ、分かっていることがあった。
(……まだ、持っている)
背後。
石扉の向こう。
バーリンは、まだ、いる。
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それから、どれほど進んだか分からない。
時間は歪み、距離は失われた。
息が乱れ、足が重くなり、松明の火がいくつも消えた。
その時だった。
――低い、鈍い振動。
遠く。
だが、はっきりと。
石を叩く音。
何かが、壊れる音。
次いで。
複数の声。
重なった足音。
人の塊が、動いている気配。
エドランの背筋が冷える。
(……来た)
持ち堪えていたものが、崩れた。
殿が、決壊した。
それを裏付けるように、通路の奥から、反響が増え始める。
無機質な金属音。
「……追撃が入った!」
護衛の一人が叫ぶ。
空気が変わる。
逃走から、追跡に。
エドランの中で、感覚がもう一段階切り替わった。
敵が“来ている”のではない。
(……どこから、どう流れ込むか)
通路の幅。
分岐の角度。
天井の高さ。
足音の重なり。
それらが即座に再構築される。
「……次の分岐、右は袋です! 左へ!」
「その先、天井が落ちています! 一人ずつ!」
「……五十歩先、広くなる。そこで一度、固まれ!」
それは命令ではなかった。
だが、命綱だった。
事実、指示通りに進んだ直後、右手の暗がりから敵の影が走り抜ける音がした。
もし入っていれば、挟まれていた。
さらに奥。
水の溜まった窪地。
そこを越えた直後、背後で何かが滑り、悲鳴が上がる。
敵だ。
追撃は、すでに地下に“流れ込んで”いた。
ロンドリックが、歯を食いしばる。
「……バーリンは」
誰も答えなかった。
だが、エドランの中には、まだ“重み”があった。
(……一箇所。あそこだけ、敵の流れが歪んでいる)
遠い。
だが、はっきりと。
岩の圧。
音の跳ね返り。
敵の密度。
そこだけが、不自然に“詰まっている”。
(……まだ、立っている)
それが、バーリンだとは断言できない。
だが、“誰かが”そこにいる。
それだけは、分かっていた。
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やがて。
空気が変わった。
湿り気が消え、風が入る。
天井が高くなり、音が逃げる。
出口だ。
護衛が先行し、慎重に岩陰を抜ける。
外。
夜の空気。
冷たい風。
そして――
人影。
松明の光でも、月明かりでもない。
岩壁の前に立つ、ひとつの“黒”。
ローブ。
仮面。
感情の彫られていない、無表情の面。
だが、その佇まいだけが、異様に“軽い”。
まるで、待っていたのではなく、
**「そこにいるのが自然」**であるかのように。
その仮面の奥で、何かが動いた気配がした。
使徒。
だが、追ってきていた者ではない。
別の個体。
エドランの脳裏に、嫌な一致が走る。
(別の、、、使徒……他にも、居たのか、、、)
狡猾。
観察者。
盤面を動かす役。
ロンドリックが剣を構えた。
「……何者だ」
使徒は答えない。
ただ、わずかに首を傾ける。
その仕草は、敵を見るものではなかった。
獲物ではない。
経過を見る者の動きだった。
仮面の奥で、視線が、エドランに定まる。
その瞬間。
エドランの知覚が、強く軋んだ。
敵意ではない。
殺意でもない。
この存在だけが、
洞窟でも、屋敷でも、街でもない。
“盤面の外側”に立っている。
使徒は、一歩も動かない。
それなのに。
選択肢だけが、また一つ、消えた。
背後では、まだ、地下の奥から足音が来ている。
前には、
動かない“待ち”。
逃げ道は、
今、二つ。
どちらも、地獄だ。
エドランは、剣を握り直した。
そして、はっきりと理解した。
――これは戦闘ではない。
――遭遇でもない。
――“合流”だ。
使徒は、最初からここにいた。
そして今、
盤面が、ようやく彼の位置まで動いてきただけだ。




